兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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四十五 敵失に乗じろ!

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 数時間の後、ハンベエはキチン亭二号店を出て、軍の駐屯地に向かった。
 一方、ボーンは気絶したままのモルフィネスの手下を担いでどこかに出て行った。さようなら人攫いのおじさん、今度生まれて来たら、真っ当な人間になるんだよお、とロキが言ったかどうか。
 部屋に残ったロキは、念のためにキチン亭二号店の亭主に、誰かが訪ねて来ても出かけている事にしてくれるよう頼み、部屋に鍵を掛けた。
 ハンベエはボーンから、モルフィネスに関する大まかな情報を入手していた。
 それによれば、モルフィネスは名門バトリスク一族の出身で、近衛兵団隊長ルノーの長子、若年の頃より、戦術戦略を論じ、エリートコースをひた走って来たという。
 タゴロローム守備軍に赴任したのは二年前、最初から、将軍バンケルクの参謀として迎えられたのであった。
 ハンベエはそれを聞きながら、そう言えばパーレルもバトリスク一門、後でモルフィネスの話を聞いてみようと思った。
 ところで、ハンベエという、この礼儀知らずの若者がコーデリアスについてのみ、俄かに閣下と呼び始めた事に読者は気付いたであろうか。
 神仏すら信ぜず、孤剣を抱いて世に対峙しているハンベエは滅多な事では人に敬意を払う気持ちは持っていない。
 兵法者を名乗り、師フデンの言った修羅三界を歩いているつもりのハンベエには、世間のしきたり、身分関係など預かり知らぬ事であり、ただ己の欲するところに従うのみと決めていた。いみじくも上を上とも思わぬとバンケルクが言ったが、ハンベエはそういう若者であった。
 そのハンベエがコーデリアスにのみ閣下を付けて呼ぶようになったのは、余程その死に様に感銘を受けたものと思われる。
 駐屯地に戻ってから、コーデリアスの側近がゲッソリナに出発する前に、その口から、コーデリアスの人となりを聞いた。
 コーデリアスは叩き上げの苦労人であったようである。元々は、ステルポイジャンに所属する部隊で一段一段、軍功を重ねて連隊長まで登ったのだが、半年前に突然タゴロローム守備軍に配置替えになったという事である。
 側近が憤りながら言う事には、コーデリアスはバンケルク達にはあまり歓迎されていなかったらしい。コーデリアスの着任する少し前に連隊の大幅な編成替えを行い、わざわざ非行の多い兵士を第五連隊に集めるよう仕向けたというのだ。
 側近は、それでももっと時間があれば、コーデリアスは連隊秩序を適切なものに変えたであろう、と悔しがっていた。
 挙げ句の果てに苦労人のコーデリアスは、エリートコースを歩んで来たモルフィネスの立てた策のツケを払うような形で自決してしまった。
 さぞ無念であったろうな、とハンベエは思った。

 一方、モルフィネス。
 あわや、ハンベエの愛刀『ヨシミツ』の錆になるところを免れて、ほうほうのていで守備軍本部に戻って来ていた。
 ロキについて一言口にした途端、それまで魔神のような働きを見せていたハンベエが茫然自失して固まってしまい、これは使えると、モルフィネスはほくそ笑んだのだが・・・・・・肝心のロキを攫いに行かせた部下が戻って来ていない。
 しばらく連絡を待っていたが、一向に戻って来ない。
 モルフィネスは、部下がロキの誘拐に失敗し、誰かの手に落ちたものと判断せざるを得なかった。
 一目散にロキを求めて駈け去って行ったハンベエの様子を思い出すと、ロキの無事を確認したら、自分を斬り殺すために守備軍本部まで乗り込んで来るかも知れない。・・・・・・モルフィネスはそう恐怖したが、表情にはカケラも見せず、群狼隊残十一名に警固させ、さらに守備軍本部を警備している一般兵の数を二個小隊五十名から、二個中隊二百五十名に急遽増やさせた。

 守備軍本部の警備を行っているのは第一連隊第五大隊であった。
 第一連隊長は、突然の物々しい警備要請に、モルフィネスに理由を糾したが、モルフィネスは特に何も説明しなかった。
 第一連隊長としては、事情の明らかでない要請に、不満顔の様子であったが、バンケルクの懐刀と称されているモルフィネスの機嫌を損ねるのもつまらない事であり、又、第五連隊の不穏な空気も重々感じていたので、この要請に応じ、第五大隊から二個中隊を守備軍本部の警備に回したのであった。
 警備を厳重にして守備軍本部の一室に籠もったモルフィネスは、改めてハンベエの始末に思案を巡らせた。
 今回、最初にハンベエの説得に失敗し、次に抹殺に備えて配置した群狼隊のテダレも砂の城を崩すようにいとも容易く粉砕されてしまった。
 見通しが甘かったと言えばそれまでであるが、ハンベエとの闘いを経て、モルフィネスは大きな思い違いをしていた事に気付いた。
 それは、剣の闘いの戦術計算であった。群狼隊一人で通常兵士十人以上の兵士を打ち破れる。群狼隊十人であれば、通常兵士一個中隊を打ち破れる。この事についてモルフィネスは疑いを持っていなかったし、今もそう思っている。
 そして、フナジマ広場の決闘の情報から、ハンベエの戦闘力を百兵に匹敵するかも知れないと考えた。だが、百の兵士を打ち破るのは人間としては限界でもあろう。如何に強い人間でも一度にそれ以上の敵と渡り合う事はできない。・・・・・・モルフィネスはこう考えていたのであった。
 ハンベエ一人の戦力通常兵士百人、群狼隊十人の戦力通常兵士百二十五人以上、群狼隊十人の勝利。事前のモルフィネスの計算はこうであった。
 確かに、如何にハンベエとはいえ、百人の兵士にいっぺんに襲い掛かられては、或いは敗れるかも知れなかった。
 だが、ここに大きな見落としがある。群狼隊兵士一名が、例え通常兵士十人以上の力を持っていたとしても、ハンベエにとっては、所詮一人は一人なのである。一対一の技量でハンベエに及ばない以上、十人で百人以上の戦力を持っていたとしても、ハンベエの方からすれば、敵は十人に過ぎない事になるのである。
 そして、最も重要な事は、ハンベエが群狼隊との闘いにおいて一度も防御の姿勢を取らなかった事である。
 斬り掛かって来る相手に自分から踏み込んで、紙一重で先に相手を斬る。前に述べたように剣術の本質であり、理想の姿である。ハンベエは相撃の闘い方を完全に己の血肉としていた。
 極論すれば、このように、防御を捨てて、一撃一撃に全てを賭ける戦闘者にとっては、十人は十人でなく、十回の一人に過ぎない事になるであろう。
 モルフィネスはハンベエの闘いに、このコトワリをまざまざと見せつけられた。
 通常兵士にしても、百人を差し向ければ或いはハンベエを仕留める事ができるかも知れない。・・・・・・いや、百人が心を合わせる事などとても無理であるし、ハンベエの技量を考えれば、百人を一度に相手になどせず、斬り破って一時逃げれる事など容易い事であろう。
 となれば、ハンベエを取り逃がさずに始末するには千人の兵士を投入しなければならないかも知れない。

 厄介な男を敵に回した。・・・・・・モルフィネスは溜め息を点きたくなって来た。
 ロキに手出しをした以上、ハンベエを今一度説得するのは不可能である。この点についてはモルフィネスは確信していた。
 今や、ハンベエと守備軍本部との和解、いや、ハンベエと自分の和解は考えられない、起こり得ない、ハンベエを抹殺するか自分が消えるか、他に道はない、とモルフィネスは考えた。
 だが、群狼隊が刃が立たなかった理屈を考えるに、ハンベエを確実に倒すには、二個大隊近い兵士を投入しなければならない。いかに何でも事が大きくなり過ぎる。また、外聞上もまず過ぎる措置である。
 第五連隊を人数で潰す事もハンベエ個人を人数で潰す事も、規模から考えて、ともに選択できないまずい策とモルフィネスは考える。
 さすがに、ハンベエを毛嫌いしているバンケルクもそれには賛成しないであろう。
(結局、一対一で、あの男に勝てる男を見つけるしかないようだな。)
 モルフィネスは最終的にこう結論付けた。
 貴族的な嫌味な面もチラリと見せたモルフィネスであるが、この期に至って冷静さを失っていないのは、さすがと言えるであろう。
 さて、ハンベエも又、ドルバス達の待つ駐屯地に戻っていた。
「遅いじゃないか。あんまり遅いので、ヘルデンに見に行って貰ったら、貯水池に、モルフィネスの手下の群狼隊の兵士と思われる連中の死骸が八つもある。一体何があったんだ?」
 ハンベエが戻って来るのを待っていたドルバスが、噛み付くように尋ねた。
 ハンベエはドルバスや直属の部下であるヘルデン以下四名を呼び集め、モルフィネスとのやり取りを正確に、そして出来るだけ事細かに伝えた。
 その後の闘いについても、腕自慢になるなと、自分自身を多少苦々しく感じながらも、群狼隊の兵士をまるで相手にせず斬り捨てた事を話した。
 守備軍本部恐るるに足らず、連隊兵士にそう思わせなければならない。
 今現在連隊兵士達は、守備軍本部への憤りで高い士気を保っているが、それが覚めれば、彼我の戦力差に気付き、恐怖を覚えるに違いない。そうさせないためにも、己の強さと、敵の弱さを強調する必要があった。
 同時にそれはハンベエが連隊を統率するのにも有利に働くであろうとも考えていた。
 無愛想なハンベエであるが、今は守備軍本部に対抗していくために必死でもあった。
 勿論、殊更に事実を誇大化しては伝えない、ありのままを話すだけである。それで十分であった。
 さらに続けて、モルフィネスの部下である群狼隊の兵士がロキを攫おうとした一件も聞かせた。ボーンについては、ハンベエの知り合いとのみ話し、その名も正体も伏せたままにしておいたが。
 ハンベエに計算がある。
 ロキはビッグマウスと若干図々しい態度が鼻につく事もあるが、明るく利発で健気な少年商人として、タゴロローム守備軍兵士に好かれている一面がある。
 モルフィネス達の汚いやり口を強調する事により、守備軍本部への怒りを煽る腹である。そして、反乱の後ろめたさを払拭するためでもあった。
 ハンベエ自身が、アルハインド勢との闘いでの第五連隊に対する仕打ちに始まりロキの誘拐未遂に至るまでの守備軍本部のやり口に、強い怒りを感じ、そのボルテージは上がる一方であった。この感情を周りに伝染させるのは容易な事であった。
「前々から、上層部の連中は腐ってるんじゃないかと思うてたが、腐り果ててるんじゃのう」
 ハンベエが一通り話し終えると、ドルバスが吐き捨てるように言った。
「全く、俺達兵士を虫けらのように見下しやがって。」
 と、これはゴンザロ。この軍隊生活を飯の種くらいにしか考えていない風情の中年男も、今回ばかりは腹を立ててる様子だ。
「しかし、大将の強さはまるで鬼神ですね。全く頼りになる。」
 ヘルデンは少し笑って言った。ヘルデンはハンベエが斬り捨てた群狼隊の死骸を確認しているので、今更ながら、ハンベエの戦闘力に感嘆したようだ。
「それだ。次は俺も暴れさせろよ。」
 ドルバスが腕を擦って見せた。
「ドルバスが暴れたら、大騒ぎになるから、まだ出番は先だよ。」
 ハンベエは宥めるように言い、次にゴンザロに言った。
「今の話、広めろ。」
「連隊兵士にですか?」
「連隊には勿論だが、全兵士にだ。」
「大仕事ですね。喜んでやらせていただきやす。」
 ゴンザロには珍しく、いい返事が出た。
 ボルミスは特に何も言わず、首筋をかいていた。
 パーレルはいつものように静かに大人しそうに座っている。
「パーレル、後でちょっと教えて貰いたい事がある。」
 ハンベエはそのパーレルに言った。
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