兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

文字の大きさ
118 / 132

百十八 怨を含んで孤剣有り

しおりを挟む
 ゲッソリナをってから五日目、『すこぶる危険な人物』テッフネールはハナハナ山の麓に差し掛かっていた。
 この初老の剣士は急ぐ事なく、ゆるゆるとタゴロロームに向かっていた。
 途中、幾度か街道に湧くごまの蝿と遭遇していた。
 老いぼれと見て、『いい鴨見つけた。通行料頂戴。』と擦り寄った無用心な間抜けは、無言の下に斬り捨てられていた。
 テッフネールは、身の程知らずに強請を掛けて来る者を見るや、情け深い言葉で諭してやる事も、力の違いを見せて相手に考え直す機会を与えてやる事もしなかった。顔の回りをブンブンと飛ぶ五月蝿い蚊を払うように、鬱陶しげに斬り捨てた。全てただの一太刀であった。
 斬り捨てた相手が呻き声すら上げ得ず絶命して転がる姿を見ると、少しばかり満足そうに、
「よしよし、腕は少しも錆びて無いようでござる。」
 と笑みを浮かべた。
 人の命を何だと思って・・・・・・どころか、ごまの蝿など人とすら、思っていない風情であった。とてもでないが、老成した名人達人とは程遠い酷薄さである。怒りや興奮の影すら見せず、少し陰欝ではあるが、穏やかな表情のまま、息も乱さず、人を斬ってのけるその姿は、反ってより一層の凶々まがまがしさを感じさせる。
 しかし、テッフネールがこれ程殺伐と人を斬ったのは実はつい最近の事であった。
 成る程、軍籍に身を置いていた間は、恐れを知らぬ勇者として、返り血でずぶ濡れになるほど人を斬る毎日を送った。
 だが、軍を去って十年。ほとんど人を斬った事は無かった。無論、世の中には道理の通らぬ無頼漢も有り、或いは又行きがかり上どうにもならぬ場合も有って、ナンタビかの刃物三昧は有るには有ったが、むしろ争いを避け、静かに世を送って来たのだった。
 そうして、テッフネール自身も後はただただ静かに余生を過ごすつもりであったのである。
 しかし、ステルポイジャンに呼ばれ、ハンベエという若者の話を聞かされた時、この老境に差し掛かろうとしていた剣鬼の深奥しんおうから、グツグツと煮えたぎるように噴き出して来たものが有った。
 それは、闘争心とか羨望や嫉妬などと言える生易しい感情では無かった。怨念とでも呼ぶべき凶暴などす黒い血のたぎりであった。
 モルフィネスがハンベエに語ったように、テッフネールの軍隊生活は不遇であった。常に命を的に戦い、数多くの殊勲を挙げながら、小隊長に甘んじる事十三年。小隊を率いて勇奮敢闘を繰り返して、殊勲を挙げ続けたが、部下はこの男の行う軍事活動について行けず、次々と世を去った。そんな時、テッフネールは我が身の境遇を呪ったのだった。せめて中隊の人数を率いていれば、こんな結果にはならないものをと。
 テッフネールが軍隊に身を寄せた当初、世間はワクランバに於けるフデンの活躍で沸騰していた。駆け出しのテッフネールはフデンの功名を聞き、いずれ我が身も武名を轟かさん、と心を躍らせた。
 そして、機会が有れば、そのフデンと優劣を争いたいものとひそかに思っていたのだった。
 だが、歳月を経るに連れ、フデンの名声は隆々と上がる一方、テッフネールは小隊長から少しも出世する事無く、あまつさえ、『冥府の水先案内人』などという有り難くない異名を奉られる始末であった。
 いつしかテッフネールは狷介で人を容れぬ性質になってしまった。更には、上官の命ですら気に入らなければ横を向いて無視するようになった。腕に覚えのテッフネールは文句が有るなら言ってみろ、と言う荒んだ態度で過ごすようになっていた。
 それでも、ステルポイジャンが権力を掌握した時には多年の不遇を一挙に取り戻すかのように大隊長に昇進した。連隊長も夢ではなかったようだ。
 だが、その時にはテッフネールがひそかに競争相手と考え、雌雄を決する機会を望んでいたフデンは既に引退して、伝説の彼方に消えていた。

 遂に己の武名を輝かす機会は無くなった、とテッフネールは思ったようだ。今更何を連隊長・・・・・・言い表しようの無い虚しさに胸を焼かれ、天を呪って軍を去って行ったのであった。
 人と和す事の無くなっていたテッフネールは誰にも己の胸中を明かさなかった。
 はたからから見れば、これからいよいよ高みに昇れようというテッフネールの隠遁に、ゴロデリア王国軍の将士はただ首を捻るばかりであった。
 隠遁していた十年、テッフネールは己の人生を深く省察したであろう。そして、武運に恵まれなかったのだ、これも又天の為すところと諦めの気持ちを抱いた事もあろう。
 武運に恵まれなかった?・・・・・・テッフネールは戦場を馳せて身を全うし、功名の内に去った。武運には恵まれていたのではないか、という見方もある。
 だが、本人に言わせればそれは違うであろう。我ほどの武勇あればそれは当たり前の事、もっと華々しい活躍の場が与えられてしかるべきであったと。
 虚しさのあまり世を捨てたテッフネールであったが、その一点を思うと己の人生に納得し難い恨みが残った。

 ステルポイジャンからハンベエという男の話を聞いた時、テッフネールは血の逆流する思いであった。二十歳そこらの若造が、腕っ節に任せて上の者を打ち倒して、取って代わる。しかも、それが将器と囃される。
 そんな事が許されて良いのか。
 軍に在籍中、冷や飯を食わされ続け、テッフネールも何度上官を斬ろうと思ったか分からない。だが、この男は感情を殺し、耐え抜いたのであった。何故なら、軍は秩序を重んじる。そんな事をすれば、組織は崩壊するであろう。軍人として、それだけはやってはならない。そう思って耐えたのであった。テッフネールはそういう男であった。
 だが、ハンベエという男はその禁忌をおかした挙げ句、逆に軍司令官にまで昇りつめてしまったという。この世に神という者がいるなら、我が身の我慢は何であったのか・・・・・・テッフネールの胸中で狂瀾の黒いつむじ風が吹き荒れた。
 その上、ハンベエ抹殺を持ち掛けたステルポイジャンの口ぶりの中にさえ、何処かしら、そのハンベエという若者を賛美している臭いが感じられたのである。
 テッフネールはステルポイジャンが嫌いではなかった。ステルポイジャンに中隊長、大隊長と抜擢してもらった事には感謝の念を持っていた。隠遁の身ながら、呼出しに素直に応じたのはそれ故であった。だが、『まさか、その方、武将に志が有ったのか?』の一言はテッフネールの心を逆撫でするものであった。空とぼけて見せたが、相手がステルポイジャンでなければ、『何を解りきった事を、軍に身を置いてそれを志さぬ者などいるものか!』と怒鳴り付けたかも知れない。
 そこへ持って来て、ハンベエへの将器であるという評価である。テッフネールが屈折して、依頼をすんなり承けなかったのも頷けよう。
 その荒んだ心がテッフネールにステルポイジャンの依頼を承けず、モスカの依頼を承けるという行動を取らせたと言える。
(どうせ利用するだけの腹でござろうが、少なくとも、太后の方がみどもをたこうたでござる。)
 この初老の剣鬼はそう考えていた。

 ハンベエの話を聞いて以来、酢でも飲まされたかのように胸が焼け、不愉快で仕方ない。
 そんなテッフネールがハナハナ山を通り過ぎようとしたところに、折が良いのか悪いのか、
「やめてえ、誰か助けてえ。」
 とうら若い女の叫び声が聞えた。
 テッフネールは声のした方に速足で向かう。
 街道から少し離れた茂みに三人の兵士崩れが百姓娘を引きずり込んで、丁度悪さを始めようかというところであった。
 テッフネールは跳ぶように駆けて行って、娘にのしかかっている男を抜く手も見せず、まず斬った。背中側から浴びせた太刀は、皮一枚残してその男の首を落とした。
 そうして、その向こう側で、娘の左右の腕をそれぞれ両脇から押さえ付けていた男共が、ぎょっとして立ち上がるところを右の男の頭蓋とうがいを両断しておいて、ゆらり、と今一人の方を向いた。
「まっ。」
 待て、と三人目の男は言いかけたのだろうが、テッフネールは死んだ魚のように感情の無い目付きを向けたまま横に刀を一閃し、男の首は宙に飛んだ。終始無言、機械仕掛けで動いているかのようなテッフネールの立ち回りであった。
 ところで、時代劇でもこういう場面では悪さの始まる前に救いの手が現れるお約束になっている。実際は手遅れになる場合もあるのだろうが、手遅れの場面を描いても何の意味も無いから、無かった事にされているのに違いない。何はともあれ、間に合ったのだ。良かったとしよう。
 テッフネールは娘にのしかかったままの死骸の上着で刀を拭って鞘に収めると、その死骸を蹴っ転がした上で、何が起こったのか分からないのか、ただ呆然と身を横たえている娘に、手を差し出した。
 おずおずとその手を取って身を起こした娘は、はっとしたように、俯いて着物の前を直した。
「大事ござらぬようじゃの。」
 とテッフネールは言った。何やら優しげなセリフであるが、口調は投げやりで気怠そうであった。
「危ういところを有難うごぜえました。何とお礼を申し上げたら良いか。」
 娘は気も動転しているであろうに、健気けなげにもそう言った。
「良い良い、みどもはただその連中が気に障ったから始末したまででござる。恩に着られるような事ではござらぬ。」
 テッフネールは相変わらず怠そうな口調で言うと、さっと背を向けた。

「お待ち下せえまし、何のお礼もできませんが、オラの家は近くですだで、立ち寄って下され、おっとうにも言って、せめてなにがしか礼のまね事でもしとうございます。」
 去って行こうとするテッフネールの背中に娘は慌てて言った。
 だが、テッフネールは足を止めようともしない。
「せめて、お名前を。」
「面倒臭うござる。それよりも娘ご、気をつけて早く家に帰られよ。」
 一度振り返ったテッフネールは芯から煩わしそうに言うと、もう振り返る事無く街道を歩いて行った。

 ハンベエに向けて放たれた刺客は善人とはとても呼べないが、極悪人というわけでも無さそうだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

BODY SWAP

廣瀬純七
大衆娯楽
ある日突然に体が入れ替わった純と拓也の話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...