兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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百二十一 剣鬼は余裕ぶるのがお好き!だよお。

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 次の日の早朝、タゴロロームの場末の旅籠『ドヤサ屋』から、腰に刀を差した初老の人物が、音も無くといった静かな風情で出て来た。
 言わずと知れたテッフネールである。昨晩は、そこに宿泊したようである。
 この宿の主はテッフネールと同年輩のバンナという名の女主人、前回登場した時、如何にも一癖も二癖も有りげだったバンナとテッフネールがどんなやり取りをしたかは不明であるが、テッフネールが何者で、タゴロロームに何をしにやって来たかを知る者はハンベエ以下数名であった。
 例えバンナという人物がどんな地獄耳であったとしても、全く知る由の無い事であり、ただの旅人として泊めただけに違いない。一介の旅行者(又は漂泊人)に過ぎないテッフネールに注意を払ったのは、なまじ剣の道に通じた少し物好きなエレナ王女のみだけだったのである。
 だが、この日のタゴロロームは少し様子が違った。
 ハンベエが守備軍全兵士にテッフネールに関する情報を周知し、この人物に手を出さないよう厳命したからである。
 たちまち、兵士達の間には緊張が走った。
 ゲッソリナから刺客現れる! ゴロデリア王国随一の武人テッフネール! 『冥府の水先案内人』、ハンベエの首を狙う!
 緊張の一方、『手を出すな』という命令に兵士達は拍子抜けするやら、やれやれと胸を撫で下ろすやらだった。
 敵の刺客を前に、『手を出すな。』とは、奇妙な命令である。普通は、『見つけ次第』始末又は捕縛せよ、となるはずである。
 だが、ハンベエ本人の命令という事で、『ああ、ハンベエなら自分で片付けに行くだろう』と、奇妙にも兵士達が納得してしまったのである。
 ハンベエ抹殺のため、テッフネールという刺客が送り込まれて来た・・・・・・という情報に触れた兵士の大半は、意外な事にハンベエの身を少しも案じなかった。
 自分達の大将が狙われているにも拘わらず、やり合ったらどっちが勝つかと賭けが始まったくらいである。
 無論、ハンベエがテッフネールに討ち破れて死んだらザマアミロだ、とまで考えるような兵士は流石にいないようであるが、全体的に危機感というものを持たなかった。
 むしろ、ハンベエとテッフネールの戦いを物見高い野次馬のように待ち受ける空気が強かった。
 下馬評では、賭け率二対一でハンベエ優位であった。
 古い兵士はテッフネールの武勇を知ってはいたが、何しろ十年も昔に隠退した人物である。一方、ハンベエの大暴れはついこの間、しかもその乱暴狼藉っぷりを目の当たりにしているタゴロロームの兵士達として見れば、俺らの大将という身贔屓を差っ引いて見ても、ハンベエ優位の予想に傾くのに何の不思議もなかった。
 その一方、モルフィネスのように、なまじっかテッフネールの経歴を良く知る者の中は、
『ハンベエ、大丈夫か?』
 と不安を抱いた者もいた。
 だがしかし、だからと言って、ハンベエに忠告をしに行く者は一人も居なかった。
 この辺り、ハンベエという若者がどういう印象を受けているか想像される。
 この若者が一旦剣を抜いたら、本人が自ら収めるか、誰かがその命を終らせるかしない限り、決して止める事はできないのだ。・・・・・・と、ハンベエの身に不安を覚えた兵士達はモルフィネス同様、諦めてしまっている感があった。
 テッフネールがノコノコと、いやいや、大胆不敵にタゴロロームの中心に乗り込んで行くと、遠巻きにしながら、兵士達がジロジロと見て来る。
 さては、警戒されているのかな、とテッフネールは感じたが、奇異な感じである。取り囲んで尋問するわけでなく、捕らえようとするわけでもなく、ただ遠巻きにジロジロ見るだけなのである。
 はて、とテッフネールは首を捻った。まさか、自分が何者で、何の目的でやって来たのか、既にタゴロローム中の兵士にバレバレであろうなどとは、流石に思いもよらなかった。
 無理も無い。テッフネールの身にしてみれば、この地に彼がハンベエ抹殺の為にやって来るのを知っているのはステルポイジャンとモスカの二人だけのはずなのである。
 かつてはゴロデリア王国軍にその人有りと知られたテッフネールも、軍籍を離れて十年、今更人の注意を引く覚えも無かった。
(昨日、王女と出会ったのがまずかったのか?)
 しかし、特に王女に危害を加える素振りを見せたわけでもない。あのやり取りで、全兵士に警戒体制を敷かせるとしたら、それはもう異常と言うべき猜疑心、脅迫的被害妄想にでも陥っているような人間だ。
 ふむ、とテッフネールは昨日出会ったエレナの容姿を思い浮かべた。
 静かで澄んだ聡明さに満ちた瞳、落ち着いて結ばれた口元、艶やかに風に靡く髪。
(彫刻家や絵かきがその姿を写したいとサンパイキュウハイしそうな美しい娘でござったな。)
 猜疑心や異常性格とは縁がなさそうだ。
(が、この感じはどう考えてもみどもを相当警戒してござる。)
 見回せば、百人はいるだろうか。いや、目に映らない者を含めれば、もっともっと居そうであった。
(わけは分からないが、この兵士達にはみどもが敵と知れているようでござるな。・・・・・・ま、斬れば良いだけの事でござる。)
 テッフネールは憎たらしいほど落ち着いている。
 有象無象の兵士など目の端にも入らぬかのように町の大通りの真ん中を、ゆらり、ゆらりと風に吹かれるように歩いた。
 舟の舳先に波が断ち割られるように兵士達が道の端に寄った。
 手を出すなと言うハンベエの厳命の為だけでは無いようだった。兵士達の生存本能がこの人物に手を出すのは危険だと知らせていた。

 左右に道を開く兵士達の向こうに雲を衝くような大男が歩いて来るのが見えた。
 その大男は持ち重りのしそうな薙刀を担いでいたが、テッフネールを見付けると立ち止まった。
 立ち止まりはしたが、他の兵士のように道を開けようとはしなかった。テッフネールを待ち受けるように道の真ん中に仁王立ちしたのだった。
 ドルバスであった。
 彼も又、ハンベエの『手を出すな』という触れは聞いていた。だが、ドルバスはその命令に唯々諾々と従うつもりは無かった。
 ハンベエに、遠慮しがちであるが、彼も又一個の武人。血の騒ぎを抑えきれないでいた。
 テッフネールは、待ち構えているドルバスの近くまで来ると、少しの気負った様子もなく少しよけて通り過ぎようとした。殺気を孕んだドルバスを一向に気に止める様子もない。
「待て。」
 通り過ぎようとするテッフネールをドルバスは呼び止めた。
 立ち止まったテッフネールは、ふわふわとした力のない様子でドルバスを振り返った。
「はて、何でござる。」
「貴公、高名なテッフネール殿と見受けた。勝負してもらおう。」
 ドルバスは薙刀を腰だめに構えて言った。
「人違いじゃと言っても通りそうにござらぬようじゃな。」
 薄ら笑いを浮かべたテッフネールは腰の剣をシュルリと柔らかに抜くと、だらりと両手を垂らして斜め下段に構えた。

「行くぞ。」
 ブンっと唸りを上げて、ドルバスの薙刀が横一閃に払われた。
 岩をも切り裂くかと思えるその一撃を、しかしながらテッフネールは、ふわりっ、と風に舞う木の葉のように躱してしまった。
「中々の一撃でござるな。みどもに挑んで来るだけの事はござる。」
 テッフネールはからかうように言って、ニンマリと笑った。余裕が有り余って体から吹きこぼれでもしまいかという風情だ。
 焦りを誘おうとするのだろうとドルバスは取り合わず、無言で次の一撃を放った。
 二撃目、三撃目、唸りを上げてドルバスの薙刀がテッフネールを襲う。
 だが、テッフネールはふわりふわりと躱し続けた。
 十数撃躱し続けられ、まるで、掴み所の無い、空気と格闘しているかのような気分にドルバスがなった時、テッフネールがひたと立ち止まり一歩前に出た。
「さて、十分攻撃もさせてやった事でござるし、気の毒じゃが、そろそろ死んでもらう事とするでござるかの。」
 自信たっぷりに言って、ゆらゆらと近づいて来るテッフネール。ドルバスは次の一撃こそ、真っ向ぶち当てて二つに裂いてやろうと身構えた。
 テッフネールは下段から頭上へと緩やかに剣尖を舞い上がらせた。半円を描く刀の切っ先が白く光って糸を引いたかのように見える。
 次の瞬間、ドルバスは自分を取り巻く空気が異様に重くなったように感じた。
 剣を掲げて、さして速くもない足取りでテッフネールが近づいて来る。ドルバスは渾身の力を込めて薙ぎ払おうとした。
 だが、何とした事であろう。体が全く動かせないのである。まるで自分の手足が消えて無くなってしまったかのような感覚であった。
(何だこれは、何かの妖術か。)
 大いに焦ったドルバスは、一刀両断今にも振り下ろさんと掲げらせたテッフネールのヤイバを見詰めながら、絶望的な思いで斬られる覚悟をした。
 その時、ドルバスを両断せんとするテッフネールに向けて一本の手裏剣が飛来した。
 もう少しで、ドルバスを斬殺できるところまで追い詰めたテッフネールであったが、惜し気もなくドルバスを諦め、身を翻して手裏剣を躱した。
 手裏剣の飛来した向きにテッフネールが目を向けると、今しがた対峙した巨漢ドルバスに比べると重量感に劣り、背も少し及ばないようだが、それでも人並み外れて背の高い若者が、道の脇に避けていた兵士達を掻き分けて出て来るところであった。

 この場面で出て来る人間と言えば一人しかいない。ハンベエである。
 豪勇ドルバスには真に気の毒であるが、所詮は前座であった。いよいよ、真打ち登場である。
 それにつけても秋の空、何に付けてもそれなりに。余りにもタイミングの良すぎるハンベエの登場であった。ひょっとすると、兵士達の陰で成り行きを見守り、出番を待っていたのかも知れない。
「そいつは俺の獲物だ。悪いが、手を引いてくれ。」
 ハンベエにそう言われ、ドルバスはその場から離れた。全く自由のきかなかった体は嘘のように元に戻っていた。
「ハンベエ、気をつけろ。そいつ妙な術を使うぞ。」
 離れながら、ドルバスは一言言わずにいられなかった。
「分かっている。」
 低い声でハンベエが答えた。
 ハンベエはテッフネールがドルバスに施した術を知っていた。師のフデンも使った『金縛り』の術である。
 残念だが、その術には俺には効かないぜ、とハンベエは腹の中で笑って、テッフネールの正面に立った。
「俺がハンベエだ。俺を殺しに来たんだよなあ、テッフネール。殺せるもんなら殺してみなよ。」
 ハンベエはそう言うと、犬歯を剥き出すようにして、凄みのある笑みを浮かべて見せた。
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