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8・アフター・ナイト

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 パーティーの後片付けは進んでいる。オーブンの天板にてこずっていた。

「竜崎君、ベランダへ出てもいいかしら」
「いいけど。気分でも悪い?」
「いいえ。ここから眺める自分の部屋というものを見てみたくて――」

 それから彼女は二十分もベランダへ出ていた。

「こっち終わったよ。コーヒーでも飲む?」
「それより私、忘れていたわ。朝から一週間分のブラジャーをまとめて干していたの。ここから見るとブラジャー祭り。少し体裁が悪いわね。乾燥機というものを親にねだってみようかしら」

 返事に困る。

「じゃあ、コーヒー入ったら呼ぶから」

 賑やかな食器カゴを左手にお湯を沸かす。静かな空気がさっきまでの様々な会話を消し去ってゆく。けれど残るものもある。耳と胸に残ったものの中から言葉を掘り出していると田村さんが戻った。彼女の言う絆とは、母のことなのだろうか。

「この香りはキリマンジャロね。私もう、利きコーヒーができる程になっているみたい」

 淹れているのはモカだが、何も言わずにおく。

「はい、コーヒー」 

 リビングの端の、小さなテーブル。三人掛けのクッション。そこへ並べば穏やかな夜だ。

「軽音部、辞めたって。何か他に探すの?」
「いいえ。次はバイトをやってみたいわ」

 なぜか引き止めたい。

「バイトって、どんな?」
「そう。延々と卵のサイズを仕分けしたり、延々と段ボールを仕分けしたり、延々と新聞にチラシを挟みこんだりする仕事よ」
「そういうのは――たぶん、今どき機械がやってるから」

 言うと黙った。そして、

「接客業――これは自分に一番向いていない気がするのだけれど。竜崎君はどう思うかしら」

 向いてなさそうだ。

「ビル清掃とかも意外とバイト代いいらしいよ」
「それは、竜崎君が私の部屋を見ていないから言える言葉よ」

 見たくない。

「コンビニというのもありきたりだし、シフトで揉めそう」
「週に二回。週末とかならね」
「じゃあ、居酒屋にするわ」

 どうしてそうなる。

「大変だって聞くよ?」
「大変でいいの。私の千切リストのスキルを発揮できるのはそこしかない気もする」

 なるほど。ホールではなく厨房か。
「そうだね。料理は似合ってるかも知れないけど。ただ、そういうとこって女の子はホールって無条件に振り分けられるから、面接でしっかり伝えた方がいいよ」
「面接には、ねじり鉢巻きでマイ包丁を持って挑むわ」
「いや、そこは普通の方がいいから」


 コーヒーをもう一杯、と思っていると、彼女の方が立ち上がった。

「今度こそキリマンジャロを淹れるわ」

 分かっていたのか。

「竜崎君は、渚君は苦手なの」

 コーヒーを持ってきた彼女が言うので、

「どうして?」
「彼と話す時、よく目をそらすわ」
「緊張してるんだよ。まだそんなに話してないし」
「そう。二郷木さんとは」

 質問が続く。

「彼女は――ものの言い方がストレートだから、返事に時間がかかって」

 それを思えば田村さんとの会話は今となれば普通にできている。最初の頃がどうだったのかさえ思い出せないほどだ。

「会話というものは、よくキャッチボールに例えられるわ。けれど私、そのキャッチボールをやったことがないの」
「まあ、それは例えだから」
「私は竜崎君とキャッチボールのサークルを作りたいわ。相手の投げたボールがこちらへ届くという信頼感。自分のボールが相手へ届くという自信。そういうものを本当のキャッチボールで感じてみたいの。日暮れまでずっとボールを投げ合うだけ。それだけで二人の心が通じ合うような。私、中学時代のバスケットボールで一度もボールが回ってこなかったわ。ヘイヘイ! とか、ナイッシュー! とか手を叩きながらコートを走り回っていただけよ。そこにキャッチボールはなかったの」

 それは切ない話だが――。

「でも、渚君とは話ができてるんじゃないの? 今日も普通だと思ったけど」

 すると少し考え、

「彼は――家のチョビと話している気分で抵抗がないの。お手もチンチンもしてくれそうな安定感」

 なんだ犬か。犬――?

「田村さん、ペット飼ってるの? 実家じゃなくて部屋に?」
「飼っているというか置いてあるわ。昔、UFOキャッチャーで取ったのよ。四千円もしたわ」

 縫いぐるみだった。しかも出費が半端じゃない。店員さんに取れるとこまで動かしてもらえるレベルだ。

「だとして、そういうことって繰り返しだから、よく顔を合わせる人と挨拶でもしてれば垣根はなくなるよ」
「そう。ということは竜崎君は高校時代、羽白君以外には垣根があったのね」
「そ――そんなことはないよ。水野に市ヶ谷も仲はよかったよ」
「別にいいのよそんなこと。ただ、私はそこまで大人数の友達はいらない。竜崎君ともっと話がしたいだけ。心の奥で通い合うような」

 言うと彼女はコーヒーカップをテーブルに置いて立ち上がった。

「帰るの?」
「不思議かしら。私の部屋はベランダの向こう。603号室。チョビだけが待っている静かな部屋よ」
「――うん。じゃあ、今日はありがとう。大変だったね」
「竜崎君こそ。勝手に部屋を借りてしまって悪かったわ」

 かつて、自分の家のように振る舞っては、料理をしてシャワーを浴びて、同じベッドで眠って帰っていた彼女の言葉ではなかった。今は少しキャッチボールの距離が遠くなった彼女のことを僕は引き止められない。

「では私は帰るわ。それから早く糸電話を引かなければ。糸の色は赤がいいわ。赤い糸。そういうもので結ばれた相手がいるということは、とても幸せなことだから――」

 言うと、少し、本当に微かに笑ったような彼女が両手に荷物を下げて玄関へ向かった。僕はそれを慌てて送る。何より彼女の言葉に心が慌てていた。
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