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9・赤たぬき

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ちょっとストック溜まった――





 二時限目の終わりに田村さんが言った。

「バイトを決めたわ。古町五番の『赤たぬき』」
「ホントに居酒屋にしたの?」
「ええ。一発採用よ」

 店も店で大冒険をしたものだ。選考基準は何だったのだろう。

「オールラウンドな身のこなしと絶やすことない笑顔よ。サービス業の基本」

 田村さんの笑顔――。気になった――。

「田村さんのバイト先ですか。それは気になりますね」

 渚君が学食でうどんを前に笑顔で言った。田村さんは授業の都合で二時限目の間に昼食を取っている。

「あの黒こげ料理を出した人が居酒屋あ? まあ、そういう意味では気になるけど」

 二郷木さんは懐疑的だ。

「とにかく有無を言わさず割引券を渡されて。これって誘われてるのかなって思って」
「乗ってみましょうよ。僕らも二年次へ向けて、そういうところを開拓していてもいいでしょう」

 渚君はかけうどんに手も出さず笑って見せる。

「清治がそういうなら行ってみてもいいけど」

 そんな訳で週末に出かけることにした。その週は田村さんと授業の予定が合わず、学校ではすれ違いばかりだった。



 朝のマンション――。

「それで、バイトって週に何日入れてるの」

 彼女の淹れてくれたコーヒーを飲みつつ訊ねてみた。

「そうね。週六日」
「そんなに? 学校、大丈夫なの?」
「問題ないわ。五時限目が終わったら直行。六時に着替えてエプロンをつけて『いらっしゃいませ』。そんなに忙しい店ではないから、むしろ暇だから」

 不安だ。

「今週の金曜日に渚君たちと顔を出そうと思ってるんだけど。大丈夫かな」
「繁忙期ね。受けて立つわ――」

 そういう訳で、一度学校から帰って、三人で居酒屋『赤たぬき』へ向かった。



「いらっしゃいましポンポコポン」

 引き戸を開けるといきなり彼女が出てきた。髪を後ろに結び、いつもと違う雰囲気だ。

「あの、三人いいかな」
「三名様ご案内いたします。ポンポコポン」

 二郷木さんが胡散臭そうな顔で店内を見回していると、四つあるテーブルの角へ案内された。 厨房じゃなかったのかと思ったが、他に従業員が見当たらない。

 田村さんは奥へと引っ込み、お盆を手に戻ってきた。おしぼりを並べ、

「こちら本日のお通しになります。有無を言わさず五百円になります」
「じゃあアタシいらなあい」

 二郷木さんが両手のひらを上へ向ける。

「いいえ、日本ならではのシステムです。死んでもお出しします」
「……」

 とにかくお通しの話はそれで終わり、

「お飲み物をお聞きします」
「じゃ、じゃあ、ウーロン茶で」
「僕もウーロン茶にします」
「アタシ、ホッピー。今どきハイボールもない店ってどうなの」

 すると彼女は奥へ向かい、

「ウーロン2! ホッピー1、入りました! ポンポコポン!」

 やけに元気な「ポンポコポン」とともにカウンター中へ入っていった。もしやと思ったが、自分で作っている。

「お待たせしました。ウーロン茶のお客さま。ホッピーはこちらで。それではお料理のご注文をお伺いします」
「それじゃ……みんなで食べられるような――串盛り八本」

 すると二郷木さんが、

「なんで九本じゃないの。割り切れないじゃない」
「明日香。こういうところでは縁起が悪いから九とか四は避けるんだよ」
「なにそれ、バッカみたい。アタシ、キムチ入りのチジミ」
「僕は――揚げ出し豆腐かな」

 田村さんは几帳面にペンを走らせ、

「お伺いいたしました。串盛り1! 揚げ出し1にチジミ入りましたポンポコポン!」

 即座にカウンターへ回り、

「串盛り、揚げ出し、チジミ入りました! ポンポコポン!」

 厨房へ消えた。

 五分後――。

「揚げ出し上がりましたあ!」

 カウンターへ飛び出し、

「揚げ出し上がり! ポンポコポン!」

 その後も、

「チジミ、串盛り上がりましたあ!」
「ポンポコポン!」

 彼女以外の姿が一切見えない。声もない。
 串盛りを持ってきた彼女へ訊ねてみる。

「ねえ、田村さんの他に誰もいないの?」
「店長がいるわ」
「店長さんって何してるの?」
「厨房の奥で難しい顔をして新聞と赤鉛筆を握っているわ。きっと食材の相場と発注食品の計算に忙しいのよ」

 そんなはずはない。きっと競馬か何かだ。僕は小声になる。

「田村さん、ここ辞めた方がいいって。悪いこと言わないから」
「なぜ? 私にはここが合っているの。なんでも自由にやらせてもらって、任せてもらえる。素晴らしい環境だわ。さあ、グラスが空いたわね。次の注文を聞くわ。ポンポコポン」

 その後、四人組のビジネスマンが現れ、会話は途切れた。僕らは誰ともなくドリンクを飲み干し、走り回る彼女へ清算を頼んだ。それすら心が痛んだ。

 引き戸を開け、二郷木さんが外へ出て、渚君が続き、僕は背中に彼女の元気な「ポンポコポン!」を聞きながら表へ出た。五月間近の風が吹き抜けた――。 


「ちょっと口直しのお茶でも飲んでいきましょうよ」

 言ったのは二郷木さんで、僕らは夜のカフェへ入った。

「でも信じられなぁい。私だったら時給二千円でもやらないわ」
「明日香。それは田村さんが決めることだよ。それにしても、僕も親のすねをかじってないでバイトでも見つけようかと思いましたよ」

 僕は、そこに言葉がない。事故扱いだった母の保険金と、父から送られる毎月の生活費で生活している身だ。どんな場所だろうと、田村さんが見つけた居場所に口出しはできなかった。

 と、そこへ電話が鳴る。

「ちょっとゴメン――」

 席を立つと田村さんからの電話を取った。

「どうしたの? バイトは?」
『今、終わったわ。時間には正確なお店なの。それで頼みがあるのだけれど』
「頼み?」
『まだ街中にいるなら食事につき合ってほしいのだわ』

 珍しい誘いだった。しかも居酒屋帰りに――。
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