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59・明日香と涙

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 解釈を感性だけで乗り切る授業が続く。結局、映像とは視覚情報をきっかけに五感を刺激して臨場体験を促すためのキーなのだという。


 授業が終わると、そこかしこで制作課題の話題が始まる。例に漏れず彼女も。

「バカシンジ。アンタもう何か決まってる訳? やけに余裕綽々の顔してるみたいだけど」

 明日香がバッグを肩に下げてやってくる。僕はそんな顔を見せた覚えはない。

「まだ構想段階――っていうか、素材が揃った程度の進行具合だよ」

「ふーん。素材って、また田村敦子のことなの? 毎回、恋人のことばっかり映してたって自己満足の素人作品になるのがオチよ」

 そういう自分は、夜のハイウェイを飛ばすブルジョワ女性のプロモーション映像を作ってきたのだけれど。

「で、今日なんだけど暇ある?」

 ない。部屋でマリィのお守だ。田村さんちで作業に精を出す東横さんのことも放っておけない。それをぼかして伝えると、

「別にディナーの誘いじゃないわよ。ちょっとお茶するだけ。午後終わったら、教室で待ってるから。早く来てよね」

 また明日香ペースだ。断れないというより、断る隙を与えないものの言い方だ。



 午後も午後で、ようやく具体的に進み始めた映像理論の講義を受けて、僕は頭の中を母の作品イメージで埋めてゆく。

 モンタージュ理論、と名づけられたその理屈によると、例えば三種類の十秒映像を録画して、そのつなぎ合わせの順番を変えるだけで映像の持つ印象が変わるというのだ。大都会の街並み。田舎町を走る古い軽トラック。海に沈む夕日。そんな映像の組み方ひとつでドラマが変わるという。僕は例えば田村さんとの出会いを思う。

 初めて彼女に会うのがこの学校だったとしたら、僕は果たして彼女との交流を始めただろうか。先に明日香や渚君と出会い、そのあとに彼女の存在を知ったとすれば、様々なすれ違いの中で、運命はこうも大きく動かなかっただろう。それとも運命というものは、そう簡単にその姿を変えないのだろうか。会うべくして会う、といった田村さんとの関係の中で、僕はその意味を考え込む――。


「バカシンジ。ちゃんとおりこうさんに待ってたわね。行くわよ」

 気がつけば明日香はそこにいて、赤いシャツに細身のデニムを履き、腰に手を当てていた。




「田村敦子が学校辞めるってホントなの?」

 カフェのテーブルに座るなり、ドリンクに口もつけぬうちから彼女が話題を提供する。

 僕は美味しくもなさそうなエスプレッソをひと口飲んで、

「まだ分からない――」

 上唇を舐めた。苦みと甘みだけが残り、風味というものがなかった。

「分からないって、自分の恋人の話でしょ? そんなことも分かってないの?」

 彼女には分からない。僕と田村さんの関係の複雑さを。

「明日香は人の言葉をしゃべる猫の話を信じる? 例えば話はそんなところから始まるんだよ」

 彼女は目をぱちくりと見開いて、

「何それ。全然分かんないわ。シンジって他人との会話の中に余計なものを混ぜ込む傾向にあるのよ。漠然としてる。猫がしゃべったとして、アンタと田村敦子の関係に何か影響がある訳?」

「直接にはない。ただ、世の中には不思議なことが溢れているって、そういう話なんだ」

 彼女はようやくフラッペにストローを差して、

「私は猫がしゃべる世界にいないけれど、そういう世界に生きている人間にとって、それは当然のことでしょうし、人と猫との関係性が変わっていくわ。コミュニケーション形態が変わるんですもの。ウチのロンギヌスが『ちょっと額の辺りが痒いんだけど』って言えば、私はそうしてあげる。けど実際は言葉にならない鳴き声と仕草の一つで、そんなものは伝わるのよ。人間だってそう。実際は、言葉にならないことの伝え方っていうのを誰もが従えていて、上手に利用している。表情や口ぶりや、時には涙を見せたりしてみせて」

 ふと、訊ねてみたくなる。

「明日香は、泣いたりするの?」

 そういう雰囲気を微塵も見せない彼女だ。

「必要があれば、そうするわ。けれど、今のところ私にはその必要がない。涙って、別の何かを流し去るためにこぼれるものなの。流し去りたい過去が、私にはないわ。一番最後に泣いたのは中学生の時。パパがお正月に家へ帰ってこれなかった時よ。子供によくある、現実をコントロールできない時の一次的な感情の爆発ね」

 遠い過去のように目を伏せて、明日香はストローを吸った。

 僕はその隙を突くようなあざとさで、

「渚君って、どんな人だったの――」

 口にしてしまっていた。しかも、過去形で。


 彼女は目を上げず、ストローで氷を混ぜながら話し始める。決して楽しそうな顔でもなく。

「清治は、何も言わないの。何も言わないまま、私の好むことをすべてやってくれるの。前髪がジャマだなって思った時には、もうその髪を指で払ってくれてる。足もとの覚束ない石段ではすぐに手を取ってくれる。明日の天気を気にしていたら『雨は午前中で上がるらしいよ』って。紳士的、というのとも違う、先回りが上手いの」

「それは、渚君が明日香のことをよく見ているからだよ。つき合いが長いと、言わなくても伝わることってあるから」

 すると彼女は顔を上げる。

「その通りよ。私と清治はつき合いが長かった。でもそれだけのこと。お互いに不快な時間を消して、心地よく過ごす術を覚えてきただけの仲なの。ぶつかることがないのよ。いつからかそんな清治を便利に使ってる自分に愛想が尽きただけ。だからこれからも関係性は変わらないわ。家ぐるみのつき合いだもの。離れられない影みたいに――今までと同じ距離という訳にはいかないけど」

 そしてストローを宙に浮かせて、僕を睨んだ。

「アンタはどうなのよ。田村敦子とどんな生活してるの。お互い目の前に住んでて行ったり来たり。どちらがお互いの部屋か分からないような生活の仲で、楽しいことばっかりなんでしょうね」

「そんなことはないよ。まだ未成年だし学生の身分だし、お互いにもたれ合わないように気は遣ってる」

 遣っているだろうか。頼り過ぎているきらいはないだろうか。涙を流す彼女の背中を何度もなでてあげ、母の思い出を二人で引きずり合い、それは普通の恋人同士が交わす深い時間とは色が違うもののようにも思える。

「とにかく、見ててイライラするの。アンタたち」

 その言葉だけで、明日香は話を流し去った。どれほど涙を流しても流れ去らないものの存在を、彼女は知っているだろうか。
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