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60・スケール変化

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 家に帰ると荷物だけを置き、マリィを抱えて田村さんの部屋のドアを開けた。すでにガサゴソと音が聞こえる。

「竜崎さん、こんばんは」

「うん、こんばんは」

 ――瑞奈、頑張ってるみたいね。

 東横さんはマリィがしゃべるのにまだ慣れていないようで、「あ、はい――」とうつむく。そして、

「今は屋台骨というか、1/8スケールの屋台っていうのを作ってます」

 そう言う東横さんは長方形に切り取ったいくつものクラフト紙に、木目がプリントされた用紙を貼りつけていた。すでに完成したと思われるものが何十本も床に積み重ねてある。


「これって、もしかしてプラモデルみたいに組み立てるの?」

「ええ。今回はディティールが大きめなので、実際に屋台を組む素材から作ってます。大きな用紙にそれっぽいプリントを貼って――っていう手もあるんですが、今回は緻密に作っていきたいかなと。食品サンプルってあるじゃないですか。あれも実際の調理と同じような手順を踏んで作っていくんです」

 要するに、大工さんが板や柱の一つずつを実際に屋台へと完成させる手数を費やすというのだ。途方もない作業だ。

「それって、すごく時間がかかるんじゃないの?」

 僕はすでに、その労力に適う作品が出来上がるのか不安になってくる。


 東横さんは微笑混じりに答える。

「ですね。でも、その時間がいちばん好きなんです。何でもかんでも一から作る、それが楽しいんです」

 彼女は口数の何倍もの速度で手を動かしながら、大きめのクラフト紙にプリント用紙をスプレー糊で貼ってゆく。それから貼り終わって余った紙を丁寧にカッターで切り取っている。テーブルと床一面に新聞紙を広げて。

 僕はそんな黙々とした作業を眺めながら、

「なんていうか――僕にできることってないよね? どうしてたらいい?」

 彼女はテーブル前に座り込んだ姿勢のまま手を休めずに言う。

「竜崎さんのお宅に、スキャナーってありますか?」

 ある。主に母が使っていたものだ。彼女が主としていたA3サイズの物までコピーできる大型のコピー機だ。。

「お母様の作品を、それでコピーしていただけますか? 原画をそのまま使う、というのも気が退けますので」

「じゃ、じゃあ、すぐにコピーしてくる。マリィ、ジャマしないように待ってて」

 ――ジャマなんてしないわ。それより私は瑞奈の作業を眺めているわ。楽しそうだもの。

 そう言って、テーブルの端へ静かに飛び乗った。東横さんの手が不意に止まる。まだ慣れていない様子だ。



 僕は言いつけ通り、自宅へ戻る。

 インクジェットプリンターの電源を入れる。静かな起動音が一年ぶりに部屋へ響いた。思わず母の影を思い出す。その真剣な作業姿を。

 スキャナーへ慎重に作品をセットして――。

(そういえばサイズを訊いてないな)

 東横さんに電話を入れると、

『まずは等倍でお願いします――』

 とのことなので、A3の用紙をセットして一枚刷ってみる。しばらく使ってないのでカスレが出た。もう一枚刷ってみる。作業台の明かりをいっぱいにつけて眺めると、彼女のイラストのコピーが出来上がった。インクジェットならではのしっとりとしたコピーはしばらく置かなければ乾燥しない。母がやっていたように裏表を同サイズの用紙で挟んで、さらに厚めのカルトンで挟み込み、また外へ出た――。

「コピー取ってきたけど」

 相変わらず静かな面持ちで作業を続ける東横さんに声をかける。手渡すと、

「発色がいいですね。実物に近い感じです。あ、これはあくまで資料用として使うので」

 言うと彼女は壁に立てかけた段ボールへ軽くスプレー糊を吹いてコピーを貼りつけた。

「イメージ、ですね。ここから発想される限りのものを私は作るだけです」

 ゼロからものを作り出す東横さんの指先。それに比べて僕はまだ作品概要さえ生まれていない。

 そこへ、


「あの――マリィさん。もしよかったらテーブルから下りて……」

 東横さんが控えめにマリィへ注文を出す。

「マリィ。東横さんの作業だから。ジャマはしないようにって――」

 僕もなぜか小声で頼んでみる。するとマリィは、


 ――ああ。私が場所を取っているのね。ちょっと待ってて。


 彼女はテーブルに四つ足で立ち上がり、大きく伸びをしたかと思うと毛を逆立てた。瞬間、目の錯覚か彼女の身体が少しずつ小さくなってゆく気がした。逆立てた毛が落ち着いてゆくのを見てそう感じたのだと思っていたら、その身体は実際にみるみると小さくなってゆく。最終的にはネズミのサイズになった。猫がネズミになった。


 ――これでいいかしら?


 驚嘆の声も出ない僕らへ、マリィは平然と告げた。僕は思わず、

「そんなことできたの?」

 普通の質問を驚き混じりに口にする。

 ――千年も生きているとね、こういうこともできるようになるの。冬場のエサの少ない時期にはこうして体を小さくしてリスの寝床で半冬眠してたこともあったわ。あと千年したら背中に羽が生えるかもしれない。

 冗談でもなさそうに言ってみせた。


 東横さんは目が覚めたように、口を開いてみせた。

「屋台の寸法と、同じスケールとかなれませんかね……」

 ――じゃあ、もうちょっとね。

 マリィはさらに小さくなってみせる。東横さんが声を上げる。

「そ、そのくらい!」

 なるほど。彼女の思惑はなんとなく分かった。そして僕の中にも構想が生まれ始める。

 ――どうかしら? このサイズだったら、私も女優デビューできそう?

 屋台のミニチュアジオラマに、同比率の生きた猫。素材としては充分だ。




「では、私は今日はここまでで」

 十一時になり、東横さんが作業を終えた。

「うん。ありがとう。必ずいい作品にするよ。それから気をつけて――」

 彼女が帰るとマリィとの会話が始まる。

「その能力、また田村さんが喜ぶから。あんまり見せない方がいいよ」

 ――ふふっ。敦子さんはもう知ってるわ。あれからたくさんお話したもの。瑞奈も竜崎君も知らない秘密の話も。

 そう言うと、また毛を逆立てて普通サイズに戻った。

「それ……逆に大きくなったりはしないよね?」

 恐る恐る訊ねると、

 ――さあ、どうかしら。

 涼しげな顔で右目を瞑ってみせた。
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