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1・君は金色の髪で――
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1987年の街は十月初旬の長崎くんちも終わり、風が坂道を吹き降ろす度に、空は緩やかに秋へと色を変えつつあった。
僕はといえば夏休み以降、高校へ通う日数も少なくなり、夜になると家を抜け出してはバスに乗り、父親の知り合いからもらった渋いエビ茶色のジャケットを羽織って大学生のフリをして街をふらついていた。荷物といえば一つきり、肩から下げた黒いギターケースだけで。
押し入れに眠っていた、どこのメーカーとも知れないギター。それだけあればよかった。ギターは担ぐだけで一人ぼっちで街を彷徨う僕の盾になり、不穏なアンケートの声かけもなければ警察からの職務質問もなかった。
ストリートミュージシャン、という言葉がまだ一般的でもなかったその時代、僕は街のいたるところで古ぼけたアコースティックギターを取り出しては弾き鳴らしていた。明かりの消えたアーケードの銀行の前で――眼鏡橋から流れてくる細い中島川に架かる橋の上で――賑やかな明かりがどこかで一つ消えてゆくたびに空へと一つ星を探すようなセンチメンタルな気持ちの中、石畳の上に座り込んでは真夜中を過ごしていた。声を張り上げて唄うでもなく、爪弾くだけのギターの音色に立ち止まる人もなく、それゆえに無責任に流れてゆく時間が心地よかった。
自主退学の話はまったく進んではいない。当の本人が話の場にいないのだから進むはずもない。熱心な担任が何度家へ足を運んでも、玄関に気配を感じただけで二階から逃げ出していた。そのためのスニーカーはいつもベランダにあった。そして深夜に抜け出すための――。
暇そうだからという理由で入部した高校の美術部での収穫は、小さくて人形のような彼女ができたことだけだった。ひまわりと麦わら帽子の似合うイメージの女の子で、キスから先には進ませてくれなかった。おまけに、美術部では二年になると自動的に部長に任命された。
僕は今夜も街をゆく。170センチの頼りない身体で。
今夜の家出の理由は、母親の財布から五千円札がなくなっていたことを追及されたことだ。その五千円札をパチンコで使い果たしてフラついていた。
午後十一時の大通りは最終の路面電車が左右にすれ違い、その向こうに酔っ払いの群れが見える。酒を飲んでいようといまいと、僕の目にはうろつき回る人々がすべて酔っ払いで、男も女もなかった。だからこそ、彼女から声をかけられた時はうろたえた。
ニーナは青く澄んだ瞳で僕に笑いかけた。広大な緑の草原を走る一頭の白い馬を思わせる健やかな空気をまとって――。
思案橋方面からの抜け道になっている浜町アーケードを抜け、くろがね橋の欄干にもたれて、一人きりに浸るためにギターケースのファスナーを開けた。すすけた木目のギターを握るとケースを横へ押しやり、GメジャーセブンとCメジャーセブンだけでアルペジオを奏でた。夜空に見える、名前も知らない星を一つ目印にしては、そのためだけに奏でるような淡い音を紡いだ。
缶コーヒーがなくなった――座り込んだ片足を投げ出して煙草をくわえる。
最終のバス停へ向かう人々は時折、視線だけをこちらに向け、誰もが歩幅は緩めず歩き去る。僕は吸い殻を空き缶へ投げてギターを構え直す。お互いに保った沈黙の距離。不文律。だからこそ僕は、彼女の声に思わず指を止めてしまったのだ。
「へえ、いるんだ。この街にも――」
人の足下ばかり見るようにうつむいていた僕は顔を上げる。それは驚きだった。衝撃的、とも言えた。
街角でギターを鳴らして、酔ったオヤジから声をかけられたことはあった。けれど、彼女はそういうものを超えていた。思いつく限りのあらゆるシチュエーションを、金色の長い髪で微笑む彼女が裏切ったのだ。
「ストリートミュージシャン――だよね」
当時、金髪など不良少女の代名詞で、そんな相手がいきなり声をかけてくるとは思っていなかった。
しかし、彼女は赤い長袖のシャツとジーンズで、黒いサスペンダーをつけた細い身体を前かがみにしては、透き通った青い目で僕の答えも待たずに続ける。
「モトハル・サノ。彼の歌、好きなんだけど。唄える?」
まだまったく気持ちは落ち着いていなかったけれど、
「すみません――歌は、唄ってなくて。練習、してきます」
その練習の成果をどこで披露するのかさえ決まらないまま答えた。
「どんな歌が好きなの?」
彼女はよくできた笑顔で問いかけてくる。
「――尾崎豊とか」
「ああ。知ってる。友達が聴いてる。他には?」
他はなかった。聴く歌もなんとなく口ずさむ歌もこの二か月、尾崎豊ばかりになっていた。僕はまるで尾崎に憧れて高校を退学しようとしている。社会の逸脱者になりたがっていたのだ。理由はあった。ただ、悲しいことにその理由が言葉にならないだけだ。言葉で言い表せない息苦しさと空しさ。そういうものをまとって、僕は似合わない夜を歩いていた。尾崎豊になりたかった。
「あんまり、歌は聴かないんで」
目をそらしながら僕が言うと、
「そうなんだ。じゃあ、また今度」
彼女はブロンドの髪と青い瞳を印象付けたまま、ゆっくりと視界から消えていった。
その後ろ姿も見えなくなった頃。ようやくで自分を取り戻した僕は、何が起きたのか、そしてそれが身構えるほどのものではなかったことを理解した。たかが日本語の達者な外国人に話しかけられただけなのだ。土地柄、外国人観光客も居住者も多いこの街で、取り乱すほどのことではなかったと情けなくなった。ただひとつ、彼女の残した「また今度」の意味をどう受け入れようか悩んだ――。
西の端のこの街にも朝陽は上る。僕は歩道橋の上でウォークマンを聴きながら夜明けを待つ。右手にピースライト、左手には缶コーヒー。考えつく限りの背伸び。財布に残った僅かな小銭で買えるだけの自由。そんなものすら、朝の空気は優しく心ごと包んでくれる。
――「また今度」
イヤホンから流れる尾崎豊も上の空で、彼女の声だけが脳を揺らしていた。考えてみれば顔もはっきり覚えていない。名前も知らない。約束などという大それたものではないことに時間を割いていた。それでもその行為は、つまらない日常から僕を連れ出してくれた。空想、という別の世界に僕を運んでくれる日々が数日続いた――。
ファミコンのコントローラーを投げてあくびをしていたところに、一階から階段を上ってくる足音が響く。
「あんたは! いい加減、先生とも話して! ちゃんと学校も行きなさい!」
兄貴も弟も仕事と学校へ出て一人になった部屋で転がっていると、母がノックもせずにドアを開けた。朝の九時だ。ひと晩中ドラクエのレベルアップに夢中だった僕にはもう寝る時間だった。兄貴は、レベルアップとゴールドを稼いでおくと五百円くれる。煙草代やバス代にはなった。
「だけん、こっちは最初から辞めるって言いよるやろうが」
「辞めてどうするね! 学校も行かん、仕事もせん人間は、家にいらんとよ!」
僕は何十回繰り返したか分からない問答に終止符を打とうと骨を折る。
「学校辞めたらバイトするさ。高校生のままじゃバイトも満足にできんたい」
「アルバイトが何になるか! 辞めたらお父さんの知り合いの建具屋さんに勤めなさい」
上手いことに、辞めること前提で話が動いた。
「とにかくお母さん、仕事に行ってくるけんね。なんもせんなら洗濯ぐらい回しときなさい」
数日おきのやり取りを終えて玄関ドアの閉まる音がすると、僕は残り五本の煙草を一本抜いて火をつける。実際、時間を持て余し過ぎてアルバイトでもしたかった。自由になる金があれば日々も楽しいだろうか。
今夜の小言を回避するために、洗濯だけはすます。七人分という量の洗濯物を干して、部屋に戻るとひと眠りした。
目が覚めると午後三時を回っていて、一階に下りると郵便が届いていた。拾い上げるとその中の一通は、熱心に復学を勧めてくれる担任からのもので、心が痛んだが読まずに部屋に持ち帰った。
僕はといえば夏休み以降、高校へ通う日数も少なくなり、夜になると家を抜け出してはバスに乗り、父親の知り合いからもらった渋いエビ茶色のジャケットを羽織って大学生のフリをして街をふらついていた。荷物といえば一つきり、肩から下げた黒いギターケースだけで。
押し入れに眠っていた、どこのメーカーとも知れないギター。それだけあればよかった。ギターは担ぐだけで一人ぼっちで街を彷徨う僕の盾になり、不穏なアンケートの声かけもなければ警察からの職務質問もなかった。
ストリートミュージシャン、という言葉がまだ一般的でもなかったその時代、僕は街のいたるところで古ぼけたアコースティックギターを取り出しては弾き鳴らしていた。明かりの消えたアーケードの銀行の前で――眼鏡橋から流れてくる細い中島川に架かる橋の上で――賑やかな明かりがどこかで一つ消えてゆくたびに空へと一つ星を探すようなセンチメンタルな気持ちの中、石畳の上に座り込んでは真夜中を過ごしていた。声を張り上げて唄うでもなく、爪弾くだけのギターの音色に立ち止まる人もなく、それゆえに無責任に流れてゆく時間が心地よかった。
自主退学の話はまったく進んではいない。当の本人が話の場にいないのだから進むはずもない。熱心な担任が何度家へ足を運んでも、玄関に気配を感じただけで二階から逃げ出していた。そのためのスニーカーはいつもベランダにあった。そして深夜に抜け出すための――。
暇そうだからという理由で入部した高校の美術部での収穫は、小さくて人形のような彼女ができたことだけだった。ひまわりと麦わら帽子の似合うイメージの女の子で、キスから先には進ませてくれなかった。おまけに、美術部では二年になると自動的に部長に任命された。
僕は今夜も街をゆく。170センチの頼りない身体で。
今夜の家出の理由は、母親の財布から五千円札がなくなっていたことを追及されたことだ。その五千円札をパチンコで使い果たしてフラついていた。
午後十一時の大通りは最終の路面電車が左右にすれ違い、その向こうに酔っ払いの群れが見える。酒を飲んでいようといまいと、僕の目にはうろつき回る人々がすべて酔っ払いで、男も女もなかった。だからこそ、彼女から声をかけられた時はうろたえた。
ニーナは青く澄んだ瞳で僕に笑いかけた。広大な緑の草原を走る一頭の白い馬を思わせる健やかな空気をまとって――。
思案橋方面からの抜け道になっている浜町アーケードを抜け、くろがね橋の欄干にもたれて、一人きりに浸るためにギターケースのファスナーを開けた。すすけた木目のギターを握るとケースを横へ押しやり、GメジャーセブンとCメジャーセブンだけでアルペジオを奏でた。夜空に見える、名前も知らない星を一つ目印にしては、そのためだけに奏でるような淡い音を紡いだ。
缶コーヒーがなくなった――座り込んだ片足を投げ出して煙草をくわえる。
最終のバス停へ向かう人々は時折、視線だけをこちらに向け、誰もが歩幅は緩めず歩き去る。僕は吸い殻を空き缶へ投げてギターを構え直す。お互いに保った沈黙の距離。不文律。だからこそ僕は、彼女の声に思わず指を止めてしまったのだ。
「へえ、いるんだ。この街にも――」
人の足下ばかり見るようにうつむいていた僕は顔を上げる。それは驚きだった。衝撃的、とも言えた。
街角でギターを鳴らして、酔ったオヤジから声をかけられたことはあった。けれど、彼女はそういうものを超えていた。思いつく限りのあらゆるシチュエーションを、金色の長い髪で微笑む彼女が裏切ったのだ。
「ストリートミュージシャン――だよね」
当時、金髪など不良少女の代名詞で、そんな相手がいきなり声をかけてくるとは思っていなかった。
しかし、彼女は赤い長袖のシャツとジーンズで、黒いサスペンダーをつけた細い身体を前かがみにしては、透き通った青い目で僕の答えも待たずに続ける。
「モトハル・サノ。彼の歌、好きなんだけど。唄える?」
まだまったく気持ちは落ち着いていなかったけれど、
「すみません――歌は、唄ってなくて。練習、してきます」
その練習の成果をどこで披露するのかさえ決まらないまま答えた。
「どんな歌が好きなの?」
彼女はよくできた笑顔で問いかけてくる。
「――尾崎豊とか」
「ああ。知ってる。友達が聴いてる。他には?」
他はなかった。聴く歌もなんとなく口ずさむ歌もこの二か月、尾崎豊ばかりになっていた。僕はまるで尾崎に憧れて高校を退学しようとしている。社会の逸脱者になりたがっていたのだ。理由はあった。ただ、悲しいことにその理由が言葉にならないだけだ。言葉で言い表せない息苦しさと空しさ。そういうものをまとって、僕は似合わない夜を歩いていた。尾崎豊になりたかった。
「あんまり、歌は聴かないんで」
目をそらしながら僕が言うと、
「そうなんだ。じゃあ、また今度」
彼女はブロンドの髪と青い瞳を印象付けたまま、ゆっくりと視界から消えていった。
その後ろ姿も見えなくなった頃。ようやくで自分を取り戻した僕は、何が起きたのか、そしてそれが身構えるほどのものではなかったことを理解した。たかが日本語の達者な外国人に話しかけられただけなのだ。土地柄、外国人観光客も居住者も多いこの街で、取り乱すほどのことではなかったと情けなくなった。ただひとつ、彼女の残した「また今度」の意味をどう受け入れようか悩んだ――。
西の端のこの街にも朝陽は上る。僕は歩道橋の上でウォークマンを聴きながら夜明けを待つ。右手にピースライト、左手には缶コーヒー。考えつく限りの背伸び。財布に残った僅かな小銭で買えるだけの自由。そんなものすら、朝の空気は優しく心ごと包んでくれる。
――「また今度」
イヤホンから流れる尾崎豊も上の空で、彼女の声だけが脳を揺らしていた。考えてみれば顔もはっきり覚えていない。名前も知らない。約束などという大それたものではないことに時間を割いていた。それでもその行為は、つまらない日常から僕を連れ出してくれた。空想、という別の世界に僕を運んでくれる日々が数日続いた――。
ファミコンのコントローラーを投げてあくびをしていたところに、一階から階段を上ってくる足音が響く。
「あんたは! いい加減、先生とも話して! ちゃんと学校も行きなさい!」
兄貴も弟も仕事と学校へ出て一人になった部屋で転がっていると、母がノックもせずにドアを開けた。朝の九時だ。ひと晩中ドラクエのレベルアップに夢中だった僕にはもう寝る時間だった。兄貴は、レベルアップとゴールドを稼いでおくと五百円くれる。煙草代やバス代にはなった。
「だけん、こっちは最初から辞めるって言いよるやろうが」
「辞めてどうするね! 学校も行かん、仕事もせん人間は、家にいらんとよ!」
僕は何十回繰り返したか分からない問答に終止符を打とうと骨を折る。
「学校辞めたらバイトするさ。高校生のままじゃバイトも満足にできんたい」
「アルバイトが何になるか! 辞めたらお父さんの知り合いの建具屋さんに勤めなさい」
上手いことに、辞めること前提で話が動いた。
「とにかくお母さん、仕事に行ってくるけんね。なんもせんなら洗濯ぐらい回しときなさい」
数日おきのやり取りを終えて玄関ドアの閉まる音がすると、僕は残り五本の煙草を一本抜いて火をつける。実際、時間を持て余し過ぎてアルバイトでもしたかった。自由になる金があれば日々も楽しいだろうか。
今夜の小言を回避するために、洗濯だけはすます。七人分という量の洗濯物を干して、部屋に戻るとひと眠りした。
目が覚めると午後三時を回っていて、一階に下りると郵便が届いていた。拾い上げるとその中の一通は、熱心に復学を勧めてくれる担任からのもので、心が痛んだが読まずに部屋に持ち帰った。
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