契約葬域〈ネクロ・ドミナス〉 —血と誓いが死を招く、黄昏の幻想譚—

ナイトメア・ルア

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第一章:焔に刻まれた予言

第十四話:鏡籠の深淵と返らぬ誓約

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 鏡の間は、風が存在しない場所のように静かだった。水面のように滑らかな鏡板が壁一面を覆い、反射するはずの光は薄く濁り、そこに映る像はいつもどこか歪んでいた。リセルは息を呑み、齧った唇の味が鉄だった。ルカの手が震えているのを感じ、彼女は無意識にその掌を握り返した。温度が伝わるその感覚が、まだ自分達が生きている証しのように思えた。

 「ここが……鏡の間か」ルカの声は震え、その瞳は鏡の中の“もう一人”を探している。あのとき見た、異なる表情をした自分の分身。こちらを見返すその瞳が、まるで別の人生を生きたように冷たかった。

 床に広がる赤い文様が、微かに脈打つ。契約の間から注がれた血の残滓が、ここまで流れ込んでいるのだとリセルは直感する。先に立っていた漆黒の契約者は、ゆっくりと近づいてきた。外套の裾が石床に擦れる音だけが、静寂を破る。

 「見えるかね」契約者が指先で鏡の一面を撫でると、表面が波打ち、無数の像が蠢いた。映るのは可能性の欠片。過去に別れた家族、戦場で見捨てた仲間、胸に抱いた後悔の瞬間、そして――捨てたはずの名前だ。
 「ここは『映し』の場だ。ここに映るものは君たちが捧げた血と誓いの写しである。鏡は選ぶ――誰が器となるかを」

 リセルはふいに、胸の奥から冷たい感情が湧き上がるのを感じた。自分が捧げた血の一滴が、どれほどの代償を生んだのか。目の前に立つ鏡の自分がゆっくりと片手を挙げる。その動作はリセルと同じだが、そこにあるのは嘲りにも似た確信だった。

 「私たちがここに来たのは選択のためだと聞いた」ルカの声が低くなる。「だが選ぶべき相手が、既にここで選ばれているように思える」

 契約者は静かに笑った。「選ぶのではない。むしろ鏡が選ぶ。君たちが自らを捧げれば、鏡は新たな種を受け入れる。だが捧げるものは血だけではない。名前 記憶 誇り それらは鏡の糧となる。失ったものは戻らぬ」

 空気が厚くなる。ルカは両手で額を押さえ、顔色が土のように変わった。「記憶を捨てる……それは――自分が自分でなくなるということだ」

 「そうだ」契約者の声には悲しみも怒りもない。ただ事務的な説明があるのみだった。「しかしその空白が鏡を満たす。鏡が満たされた時、新たな碑文が生まれ、影の主の力が育つ。君たちの犠牲は世界を繋ぐ糸になる」

 リセルは鏡の中の“自分”が微笑むのを見た。その笑みは実に滑稽で、平然とした諦観を含んでいる。「私ならいいのに」と、鏡のリセルは言葉を発した。どこから声が出たのかわからないが、その語り口は自信に満ち、決して震えなかった。「名も記憶も捧げてしまえば楽になれる。世界の責を背負わなくて済む」

 その言葉に、リセルの胃が縮んだ。楽になるというのは嘘である。楽になるために人は記憶を焼き捨てはしない。だが同時に、もし自分が誰かを救えるならば、自分を削る価値はあるのではないかと、別の自分が囁く。

 鏡板が突然、断続的に赤く煌めいた。映る像が増える。戦場の悲鳴。幼い兄弟の泣き声。忘れられた歌。ルカが叫んだ。「やめろ! 見せるな!」だが鏡は更に深く入り口を開けるように光を吸い込み、二人の内側に眠る痛みを露わにした。

 「助けたいのか、守りたいのか」契約者が近づき、爪先でルカの顎を上げる。「それとも自分を守るのか。一つを選べ。選ばないのは裏切りである」

 選択はいつも残酷だ。ルカの手は震え、だが彼は決断を固めた。「俺は、仲間を守る。たとえ己を失っても」その言葉に、リセルの目に光が戻る。二人は互いにうなずき合い、無言で腕を組んだ。

 契約者は薄く笑い、広げた古書を掌に掲げる。古書の頁がめくれ、そこから滴る黒いインクが床の文様に落ちると、それは即座に燃えるような赤へと変わった。赤い糸が二人の腕を這い、刻印を描く。

 「だが約束する。私の力は無限ではない。捧げるものによっては代償が予想を越える」契約者の言葉は冷たくも現実的だった。「名前を失えば、誰かが君を呼んでも反応しない。記憶を失えば笑顔の意味がわからなくなる。誇りを失えば戦う理由を忘れる。だがそれが世界を繋ぐ」

 ルカの視界に、断片的な映像が流れ込む。幼い頃の母の手、初めて剣を握った日の匂い、そして――影の主が微笑む場面。記憶が引き抜かれる感触は、氷を掴まれて割られるように冷たかった。ルカは唸り声を上げ、膝をつく。だが隣のリセルが彼の肩を抱き締める。力が波紋のように伝わる。

 数刻か、数瞬か。時間の感覚が崩れたとき、古書の頁が閉じた。契約は成立した。赤い刻印は二人の皮膚に深く浮かび上がり、冷たい光を帯びる。鏡の中の像が一瞬、静止してから一斉に崩れ、万華鏡のように飛散した。

 だが飛散した破片のひとつが再び結集し、巨大な影となって床に落ちる。それは人の形をしているが目は空洞で、口元からは無数の囁き声が漏れていた。契約者が低く言った。「それが“欠片”だ。君たちが失ったものは、ここに集積される。そしてやがてそれは種となる」

 種。言葉に血の重みが宿る。ルカはかろうじて立ち上がると、空に浮かぶ鏡の欠片のひとつに視線を向けた。そこに映っていたのは、ひとりの少女――見覚えのある顔。だがその瞳は漆黒で、微笑んでいた。

 「見たか」契約者が言う。「影の主はそれらを糧にする。君たちの失った名前が合わされば、やがてそれは“使徒”となる。世界はその増殖を食い止めねばならぬ。だが止めるためには更なる犠牲が必要だ」

 リセルは歯を食いしばり、叫んだ。「俺たちはもう充分犠牲を払った! それでもまだ、要求があるのか!」血の刻印が微かに疼いた。

 契約者は静かに首を振る。「それが運命である。だが、ひとつだけ言おう。君たちが今したこと――たとえ小さな抵抗でも、その波紋は届く。鏡の破片はただの肥料ではない。ある時点で、反撃へと転じる可能性を持つ。欠片はまた、喰らう者にも脆弱だ」

 その言葉は、薄い希望のようにリセルの胸に差し込む。だが同時に彼の意識は確実に薄れていく。記憶の端が白く消え、ルカの名前すらも遠くなる。彼は叫ぶが、発音が消えていく。自分が誰であるかを確かめるために目を閉じると、そこに見えたのはセリナの顔だった。遠い、温かい微笑み。だがその輪郭もまた、ゆっくりと溶けていった。

 鏡の間は再び静寂に沈む。契約者は外套を翻し、闇へと消えていく。二人の刻印は冷たく輝き、瞼の裏で消えた記憶の断片が震えた。リセルは最後の力を振り絞り、ルカの手を握る。「忘れても……俺は、君のそばにいる」言葉はかすれ、だが暖かかった。ルカは目の焦点を合わせようとするが、世界が遠ざかる。

 鏡の間の出口で、壁のひとつが僅かに開いた。そこから差し込む光は赤く、あの館の心臓部――契約の祭壇へと続く道を示している。欠片が、種が、そして影の主が待つ場所だ。

 リセルの視界が黒くなる直前、彼は微かに笑った。「まだ終わっていない」その笑みは、燃え残る火種のように小さかったが確かに存在した。

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