戦人 ~いくさびと~

比呂

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侍、走る

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 荒木新兵衛は、手を繋いだままで林の中を走っていた。
 時折、追っ手を確認するために背後を振り返って様子を伺っている。
 彼の右手で引っ張られている銀姫が、まとわりつく着物を疎ましそうにしながら言う。

「どれくらいで追いつかれそうじゃ」
「それは――――」

 新兵衛は咄嗟に嘘をつこうとした。大丈夫だと言いたかった。
 しかし、それが見抜かれることも理解していた。
 銀姫は美辞麗句を好まない。ある意味、姫には最も向いていない人間とも言える。

「……あと半刻ほどでしょう」

 彼がそう言うと、銀姫が笑いながら頷いた。

「そうか。では、もう少し時間を稼ぐとしよう」

 銀姫は急に立ち止まった。手を繋いでいる新兵衛も必然的に足を止める。
 何が何だかわからない新兵衛だったが、銀姫が着物を脱ごうとしていることだけは理解した。

「……何を見ておる。そんな暇があるのなら手伝え」
「は、いや、しかし」
「生き死にの際に、恥などと言うておられるか。私が身軽になれば、もう少し新兵衛は速く走れるのじゃろ」

 新兵衛は唇を噛んだ。その次に無言で頷いた。
 彼に手伝われて、赤い華麗な着物を脱ぎ終えた銀姫は、襦袢姿で仁王立ちになった。

「おぉ、身体が軽いのぅ。城中でもこの格好で過したかったわ」
「臣下の者たちが目を剥いたでしょうね」

 着物を林の中に隠し終えた新兵衛は、薄着の銀姫と手を繋いだ。

「それでは参りましょう」

 二人は再び走り始めた。
 銀姫は走りながら、少し物憂げな目で新兵衛の背中を見つめる。彼女の頭の中では、冷徹な思考が展開されていた。

 ――――私を見捨てれば、新兵衛は助かる。

 捜索目標である銀姫が捕まれば、手助けをしていた侍の一人や二人を探す物好きはいない。
 それに、新兵衛ほどの剣の腕前ならば仕官の口は幾らでもある。

 それでも逃亡をやめないのは、荒木新兵衛が決して銀姫を見捨てないからである。
 見捨てるくらいなら腹を切る覚悟の持ち主だった。

「ははっ、私は幸せ者よのう」

 喩え臣下という形とはいえ、彼にこれほどの思いを抱かれるというのはそう悪くない気分の銀姫だった。

「そうでございますか」

 肝の太いお方だ、と微笑む新兵衛だった。
 銀姫はついでに言ってみた。

「のう、新兵衛」
「はい」
「ちょっとそこの林で、私を貰ってくれぬか」

 新兵衛はずっこけそうになった。手を繋いでいた銀姫も引っ張られた。

「……危ないぞ」
「あ、危ないのは姫様の発言にございますっ!」
「いや何。清い身体のままで死ぬのも良いが、それではちと口惜しい。新兵衛とならば、貫かれながら貫かれるのも悪くないと思うてな」
「……非常に悪くございましょう」
「そうか。……ならば、夫婦になればよい。このまま逃げ落ちることが出来れば、毎晩のごとく攻めたててや――――」
「姫様」

 新兵衛はどこか緊迫した様子で言った。

「……うむ。わかっておるよ。逃げられはせぬことぐらいな」
「ああ、いえ、違います。その、拙者ごときと、夫婦にならせていただけるのですか」
「うむ。二言は無いが。……そうか、新兵衛も男よのう」

 林の中に走りこもうとする銀姫を、新兵衛はどうにか止めた。

「何だ、往生際の悪い」
「いえ、そうではなく。姫様と夫婦になるにあたって、お願いがございます。それさえ守っていただければ、姫様だけのための荒木新兵衛となりましょう」
「ほぅ、何だ。申してみよ」
「後ろを振り返らないで、この道を走り抜けて下さい」
「断る」
「即決ですかっ」
「当たり前だ。弁慶の真似事でもするつもりなのだろうが、それでは夫婦になれんではないか」
「姫様、それは違います。単純に戦法の理に適った考えでございますよ」

 銀姫は即座に新兵衛の考えを見抜いた。

「私は足手まとい、か」

 新兵衛は追っ手と一戦交えるつもりである。
 剣戟飛び交う戦場において、銀姫は役に立たない。
 むしろ邪魔だった。新兵衛ただ一人なら生き延びる確率も上がるだろう。
 つまり、新兵衛を見捨てて逃げろということだった。
 銀姫は楽しそうに笑った。

「……まったく、新妻に向かってよくもそんな事が言えるなっ」
「姫様、そんなことは」
「私の機嫌が治るまで、新兵衛にはさせてやらんからな」

 新兵衛は苦笑いを浮かべた。

「それは、困りましたな」
「ならば早く私を迎えに来るがよい」
「無論ですとも。拙者は姫様のものにございます。神速で参りますゆえ」
「……案外、新兵衛も男よのう」
「はい、男にございます」
「では、約束じゃぞ。必ず私を迎えにくるのじゃ」

 銀姫が、林の道を走り出した。新兵衛が言った願いは、死んでも守り抜くつもりだった。

 そして一人残った新兵衛は、腰の刀を抜いた。
 馬の足音が聞こえてくる。数は三騎だと見当をつけた。

 恐らくは足の速い騎馬斥候だろう。
 彼らの後ろからは、何十人もの足軽がやってくることは想像に難くなかった。

「さて、始めようか」

覚悟を決めた彼は、銀姫に届くような声で勝ち鬨をあげた。

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