戦人 ~いくさびと~

比呂

文字の大きさ
2 / 36

士魂の職人

しおりを挟む

 まだ空に光が射さないほどの早朝のことだった。
 空気は清々しいが、いまだ夜の冷たさを残している。

 空の下で穏やかに隆起する山脈には、綿のような霧が重なっていた。霧によって霞んで見えるその山肌は、まるで和紙に薄墨を垂らしたように見える。

 そして、山肌のちょうど中腹あたりにある小屋から、叩きつけるような金属音が響いていた。
 見るからに年月を感じさせるその小屋の壁は、あちこちに穴が開いていた。その隙間から、淡い光が洩れている。

 金属音が響くたびに、強い光が飛び散った。
 小屋の中では、白い着物を着て襷をかけた女性が、赤熱に燃える鉄の棒を火鋏で支えていた。
 反対側の手には、小槌を持っている。

 女性の正面には、長い柄の鎚を持った若い男が立っていた。
 上の着物を脱いでいて、身体には包帯が巻かれていた。

「せっ!」

 包帯の男が、長い柄の鎚を振り下ろす。それは赤い鉄を容赦なく叩きつけ、火の粉を散らせる。
 女は、赤い鉄を見てから頷いた。

「うん……もういいよ。あんたは桶の準備をしといで」

 長い柄の鎚を脇に置いた包帯の男に視線すら向けず、女は持っていた小槌で赤い鉄を叩き始めた。

 炉の中に入れられては叩かれる赤い鉄は、次第に形を整えられていく。
 大まかな形が見えてくると、ようやく女は顔を綻ばせた。

「ま、こんなもんかな」

 女性が鉄棒の両面を確認し終えると、包帯の男を見た。

「新兵衛さん? 後は私がやっておくわ。とりあえず、そこの川で汗でも流してきな」
「いや、しかし。まだ完成では――――」

 新兵衛と呼ばれた男を視線で制し、女性は言葉を続けた。

「素人がナマ言ってんじゃない。それとも、あたしの言うことが聞けないっての? あんたは怪我人なんだから、余計に気をつけなきゃ駄目じゃないか」
「かたじけない、#国重_くにしげ_#殿」
「……だから、あたしは苗字で呼ばれるのと、『殿』をつけられるのが嫌いなんだって。最初に忠告しといたはずよ」
「あ、失念していました。申し訳ない、その、綾女……さん」
「はい、よくできました。わかったら、さっさと行け」

 新兵衛は綾女に蹴り出され、小屋の前で転びそうになった。
 小屋の方を振り返ると、勢いよく戸が閉められた。

 どうやら、身体を洗ってくるまで帰ってくるなということらしい。
 頭を掻いた新兵衛は、小屋のすぐ近くを流れる川に向かった。

「……何とも寒そうだ」

 川縁に屈みこんで、手を川の流れに差し込んだ。早朝であることも手伝って、凍るような冷たさにも感じられた。

 鍛冶場の熱気に当てられ続け、火照る肌を冷やすには丁度良いが、さりとて川で水浴びともなれば風邪を引きかねない。

「仕方ない」

 袴に引っ掛けていた手拭を取り出した新兵衛は、それを川で濡らした。きつく絞ってから、身体を拭く。
 思ったよりも手拭が黒くなり、炭で汚れていたことに気がついた。
 汚れを落としてさっぱりしたところで、最後に手拭を洗った。

「ふぅ」

 彼は溜息をついてから、川の上流を眺めた。まるで、遠くにいる誰かを心配するような顔をしていた。
 それもつかの間、短く息を吐き出して立ち上がる。川縁に来たときと同じ足取りで、小屋に戻った。

 戸に手をかけて、自然に開いた。何の気なしに小屋へ入ろうとする。
 すると、綾女の声が聞こえてきた。

「おい」
「……は?」

 新兵衛が顔を上げると、そこには腕で胸を隠した綾女が立っていた。

 炭の燃える仄かな明かりが、汗に濡れた肌を照らしている。
 白い着物は脱ぎ捨てられ、身に着けているものは下巻きしか存在しなかった。
 髪留めが解かれ、腰まで垂れた黒髪が、艶やかなその肢体に絡みついていた。

「いつまでも何見てんのさ」
「も、申し訳――――」
「謝る前に、さっさと出て行けっ!」

 綾女が怒声と共に、足元にあった手桶を蹴り飛ばした。
 彼は一瞬、顎を引いたが、目を瞑って手桶を顔面で受け止めた。

 そして手桶を顔に被ったまま、小屋から出た入り口近くの壁の前に座った。
 しばらく桶の底を眺めていた新兵衛だったが、隣に人がやってきたことに気配で気付いた。

「……まったく、戸を閉めた理由がわからなかったの?」
「面目ない」
「手桶の底みたいな顔してれば、確かにそうかもしれないねぇ。もう着替えたから、心配しなくていいよ」

 そう言われて、ようやく新兵衛は被っていた手桶を脱いだ。
 彼の顔を見た綾女は、小さく笑った。

「ふふ、あんた変わってるね。さっきの手桶だって、避けられたんだろうに」
「避けると、その、下巻きの中が、見えてしまうと思ったので」

 ん? と首を傾げた彼女は、また笑った。

「見たかった?」
「えっ! あ、その、何と言うか、えっと」

 新兵衛はなんと答えていいか分からずに、頭を掻いた。
 見たいと言えば助平だと糾弾され、見たくないと言えば「あたしに魅力がないのか」と攻められる。
 まさに正解のない質問だった。

 彼は機嫌を伺うように、下から綾女の顔を覗いてみた。すると、彼女は笑った顔で鼻の下を指差していた。
 すぐには意味を図りかねた新兵衛だったが、気付くと慌てて自分の鼻の下を擦った。
 綾女は大笑いしながら言った。

「あははっ、まったくもって正直だね。そんなに魅力的だった?」

 やや憮然とした表情で新兵衛は、横を向いた。返事をすれば、いいようにからかわれるのがオチだと思ったからだ。
 それを知ってか知らずか、彼女は新兵衛の持っていた手拭を取り上げ、彼の鼻の下を拭き始めた。

「あーあ、せっかく綺麗だったのに汚しちゃってまぁ。からかったのは悪かったけど、あたしだって女なんだよ? 新兵衛さん」

 そう言われては、何も言い返せない。どれだけ新兵衛が正当性を主張しようと、絶対に反論できなかった。
 鼻血を拭き終わった綾女は、手拭を持ったまま小屋の中に入っていった。

「さ、刀の仕上げは後にして、とりあえず朝ご飯でも食べよっか」

 何とも言い様のない顔をした新兵衛が小屋の中に入ると、奥の母屋に続く戸が開かれていた。鍛冶場とは別に作られた住居である。
 戸から見えるその土間では、赤く燃える炭が見える七輪の上で、干し魚が焼かれていた。

「…………」

 それを見た新兵衛は、今更のように己の空腹を思い出したのだった。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...