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士魂の職人
しおりを挟むまだ空に光が射さないほどの早朝のことだった。
空気は清々しいが、いまだ夜の冷たさを残している。
空の下で穏やかに隆起する山脈には、綿のような霧が重なっていた。霧によって霞んで見えるその山肌は、まるで和紙に薄墨を垂らしたように見える。
そして、山肌のちょうど中腹あたりにある小屋から、叩きつけるような金属音が響いていた。
見るからに年月を感じさせるその小屋の壁は、あちこちに穴が開いていた。その隙間から、淡い光が洩れている。
金属音が響くたびに、強い光が飛び散った。
小屋の中では、白い着物を着て襷をかけた女性が、赤熱に燃える鉄の棒を火鋏で支えていた。
反対側の手には、小槌を持っている。
女性の正面には、長い柄の鎚を持った若い男が立っていた。
上の着物を脱いでいて、身体には包帯が巻かれていた。
「せっ!」
包帯の男が、長い柄の鎚を振り下ろす。それは赤い鉄を容赦なく叩きつけ、火の粉を散らせる。
女は、赤い鉄を見てから頷いた。
「うん……もういいよ。あんたは桶の準備をしといで」
長い柄の鎚を脇に置いた包帯の男に視線すら向けず、女は持っていた小槌で赤い鉄を叩き始めた。
炉の中に入れられては叩かれる赤い鉄は、次第に形を整えられていく。
大まかな形が見えてくると、ようやく女は顔を綻ばせた。
「ま、こんなもんかな」
女性が鉄棒の両面を確認し終えると、包帯の男を見た。
「新兵衛さん? 後は私がやっておくわ。とりあえず、そこの川で汗でも流してきな」
「いや、しかし。まだ完成では――――」
新兵衛と呼ばれた男を視線で制し、女性は言葉を続けた。
「素人がナマ言ってんじゃない。それとも、あたしの言うことが聞けないっての? あんたは怪我人なんだから、余計に気をつけなきゃ駄目じゃないか」
「かたじけない、#国重_くにしげ_#殿」
「……だから、あたしは苗字で呼ばれるのと、『殿』をつけられるのが嫌いなんだって。最初に忠告しといたはずよ」
「あ、失念していました。申し訳ない、その、綾女……さん」
「はい、よくできました。わかったら、さっさと行け」
新兵衛は綾女に蹴り出され、小屋の前で転びそうになった。
小屋の方を振り返ると、勢いよく戸が閉められた。
どうやら、身体を洗ってくるまで帰ってくるなということらしい。
頭を掻いた新兵衛は、小屋のすぐ近くを流れる川に向かった。
「……何とも寒そうだ」
川縁に屈みこんで、手を川の流れに差し込んだ。早朝であることも手伝って、凍るような冷たさにも感じられた。
鍛冶場の熱気に当てられ続け、火照る肌を冷やすには丁度良いが、さりとて川で水浴びともなれば風邪を引きかねない。
「仕方ない」
袴に引っ掛けていた手拭を取り出した新兵衛は、それを川で濡らした。きつく絞ってから、身体を拭く。
思ったよりも手拭が黒くなり、炭で汚れていたことに気がついた。
汚れを落としてさっぱりしたところで、最後に手拭を洗った。
「ふぅ」
彼は溜息をついてから、川の上流を眺めた。まるで、遠くにいる誰かを心配するような顔をしていた。
それもつかの間、短く息を吐き出して立ち上がる。川縁に来たときと同じ足取りで、小屋に戻った。
戸に手をかけて、自然に開いた。何の気なしに小屋へ入ろうとする。
すると、綾女の声が聞こえてきた。
「おい」
「……は?」
新兵衛が顔を上げると、そこには腕で胸を隠した綾女が立っていた。
炭の燃える仄かな明かりが、汗に濡れた肌を照らしている。
白い着物は脱ぎ捨てられ、身に着けているものは下巻きしか存在しなかった。
髪留めが解かれ、腰まで垂れた黒髪が、艶やかなその肢体に絡みついていた。
「いつまでも何見てんのさ」
「も、申し訳――――」
「謝る前に、さっさと出て行けっ!」
綾女が怒声と共に、足元にあった手桶を蹴り飛ばした。
彼は一瞬、顎を引いたが、目を瞑って手桶を顔面で受け止めた。
そして手桶を顔に被ったまま、小屋から出た入り口近くの壁の前に座った。
しばらく桶の底を眺めていた新兵衛だったが、隣に人がやってきたことに気配で気付いた。
「……まったく、戸を閉めた理由がわからなかったの?」
「面目ない」
「手桶の底みたいな顔してれば、確かにそうかもしれないねぇ。もう着替えたから、心配しなくていいよ」
そう言われて、ようやく新兵衛は被っていた手桶を脱いだ。
彼の顔を見た綾女は、小さく笑った。
「ふふ、あんた変わってるね。さっきの手桶だって、避けられたんだろうに」
「避けると、その、下巻きの中が、見えてしまうと思ったので」
ん? と首を傾げた彼女は、また笑った。
「見たかった?」
「えっ! あ、その、何と言うか、えっと」
新兵衛はなんと答えていいか分からずに、頭を掻いた。
見たいと言えば助平だと糾弾され、見たくないと言えば「あたしに魅力がないのか」と攻められる。
まさに正解のない質問だった。
彼は機嫌を伺うように、下から綾女の顔を覗いてみた。すると、彼女は笑った顔で鼻の下を指差していた。
すぐには意味を図りかねた新兵衛だったが、気付くと慌てて自分の鼻の下を擦った。
綾女は大笑いしながら言った。
「あははっ、まったくもって正直だね。そんなに魅力的だった?」
やや憮然とした表情で新兵衛は、横を向いた。返事をすれば、いいようにからかわれるのがオチだと思ったからだ。
それを知ってか知らずか、彼女は新兵衛の持っていた手拭を取り上げ、彼の鼻の下を拭き始めた。
「あーあ、せっかく綺麗だったのに汚しちゃってまぁ。からかったのは悪かったけど、あたしだって女なんだよ? 新兵衛さん」
そう言われては、何も言い返せない。どれだけ新兵衛が正当性を主張しようと、絶対に反論できなかった。
鼻血を拭き終わった綾女は、手拭を持ったまま小屋の中に入っていった。
「さ、刀の仕上げは後にして、とりあえず朝ご飯でも食べよっか」
何とも言い様のない顔をした新兵衛が小屋の中に入ると、奥の母屋に続く戸が開かれていた。鍛冶場とは別に作られた住居である。
戸から見えるその土間では、赤く燃える炭が見える七輪の上で、干し魚が焼かれていた。
「…………」
それを見た新兵衛は、今更のように己の空腹を思い出したのだった。
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