戦人 ~いくさびと~

比呂

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欠けない、折れない、曲がらない

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 賑やかな通りを少し外れたところに、軒先へ行灯を出した店があった。
 行灯には、墨で御食事処と書かれている。

 昼時だというのに、その店は客の入りがそれほどでもなかった。
 他の店とは違い、少しばかり高級な品も扱うためだ。比例して料金も高くなるため、昼間から豪勢な食事を取ろうとする者以外は誰もいない。

 必要な買い物を終えたばかりの荒木新兵衛と国重綾女がいるのは、そんな店の座敷部屋だった。
 机を挟んで向かい合い、新兵衛は箸を片手に焼き魚を摘んでいた。綾女は徳利を掴んでいる。

「いやあ、面倒かけたねぇ」
「とんでもありません」

 新兵衛は、ほぐした魚の身を口の中に入れた。塩の効いた旨味が広がっていく。

「助かったよ。女の身じゃ、こんなに多くは買い込めないからさぁ」
「……自覚はあったのですか」
「まあまあ、相槌の手間代とは別に、荷物持ちのお給金も出すよ」

 綾女は懐から麻袋を取り出し、縄で纏められた銭貨を取り出した。銅銭の擦れ合う音をさせながら、新兵衛の前に置いた。

「一さし、ですか」
「たった百文だけど、新しい手ぬぐいくらいは買えるだろう? 大人の男に払う額じゃないのはわかってるけど、今のところは手持ちが寂しくてね」

 苦笑いする綾女だった。
 今のところ、という言葉の意味を不思議に思いつつ、新兵衛は首を傾げた。

「それほど安く買い叩かれたのですか? 刀といえば、高値で取引されると思っておりましたが」
「普通ならね。でも、刀鍛冶が丸々大儲け、ってわけでもないよ? そりゃあ有名な奴は知らないけどさ、あたしらは鍛冶が仕事だからね」
「はあ」

 何もわかってないような生返事をする新兵衛に、綾女が仕方無さそうに答えた。

「要は、刀身だけを造るのが仕事さね。鞘師が鞘作ったり、細工師が鍔つけたり、砥師が化粧砥ぎするのは別の仕事なの。確かに刀身が無いと話にならないんだけど、お侍さんが腰に差してる刀になるまで、色々と手間があるのさ。……だから、無名の刀鍛冶――しかも女の造った刀なんざ、買い叩かれて当然さ」

 言い終わると、手元にあった徳利を一気飲みした。

「ぷはっ……ひっく。お酒おいしー」

 みるみる顔を赤くする綾女を見て、心配そうに新兵衛が言った。

「えっと……昼間からそんなに呑んでも平気なんですか?」
「あ、うん。平気よぅ。言わば御神酒みたいなものね。身体の邪気を追い払う般若湯、って言い換えても良し。まあ、新兵衛さんも硬いこと言ってないで呑みなさいって。それに、硬くしていいのは、もっと別の場所でしょ?」

 綾女はそう言って。あはは、と笑った。どうやら完全に酒気が回ってきたらしい。

「ああ、これは絶対に酔ってますね。何というか、酒じゃなくて自分の冗談に。……店主、お冷を下さい。うんと冷たい奴を」

 新兵衛は手を挙げて、店の奥にいる壮年の男を呼んだ。
 あいよ、と店主の掛け声が響いた。すると、すぐに若い娘が水を持ってくる。

「はい、さっき井戸で汲んできたばかりの水ですよ」

 愛想の良い顔で、竹筒に入った水を渡される新兵衛だった。

「かたじけない」

 と言って、受け取った竹筒を綾女に渡そうとすると、彼女は既に次の注文をしていた。

「えっと、お銚子を三本ほどくれない?」
「では、すぐにお持ちしますね」
「あ、ちょっと」

 新兵衛が止める間もなく、若い娘は店の奥へ消えていった。
 彼は首だけ動かして、綾女を見た。

「……呑み過ぎでしょう。まだ、仕事は終わっていないんですよね」
「そうだよぅ。一っ番大事な『焼入れ』が残ってるけど」

 それがどうした、と言わんばかりにお猪口の酒を飲み干す綾女だった。
 そのまま机の上に突っ伏してしまう。

「はぁ」

 溜息を吐いた新兵衛は、手元にあった茶碗を持ち、白米を口の中に掻き込んだ。早く食べ終えて清算してしまおう、と思ったのである。
 御飯を咀嚼しながら綾女に視線をやると、彼女は真剣な目をしていた。

「どうされたのですか。そんなに刀の値段が安かったことに腹が立ったと?」
「違うさね。それはあたしが無名だから仕方ないよ。食っていけるだけでも有り難いんだ。それとは違う、仕事のことさ」

 長い髪を揺らし、首が横に振られた。

「緊張、するんだよ」

 机に頭を寝かせたまま、綾女は呟くように言った。その声からは、酔いなどは一切感じられなかった。

「どれだけ他の工程が上手でも、焼入れで失敗することがあるのさ。こればっかりは、いつまで経っても慣れないね。そりゃあ『数打ち刀』を打つくらいじゃなんともないよ。だけど、本気の刀を造ろうとすればね。失うのも得られるのも本気なんだよ」

 飯を食べ終えた新兵衛は、湯飲みに残っていた番茶を一気に飲んだ。

「……ですが、綾女さんは刀鍛冶を諦めてはいませんね。これまでも本気で挑んで、失敗してきたにも拘らず、です。失敗を怖れるのは、それだけの失敗を積み重ねてきたからでしょう。それなら、失敗して失うものとは何ですか?」

「え?」

 綾女は顔を上げて、新兵衛を見た。

「確かに注ぎこんだ資金や時間は戻りません。ですが、綾女さんの本気は、何一つ失われてはいませんよ」
「そうさねぇ――――」

 綾女は目を瞑った。今までの失敗した経験が甦る。そしてそれは、自分で思っていたよりは楽しい記憶ではなかったか。

 ――――良い刀を造る。

 それは本当に、ただそれだけの願いだった。
 伯父の遺言だとか、刀が殺人道具だとか、お金が儲かるとか、誰かを見返すとか、そういうことは後から付いてきたものだ。

 ――――そんなことは忘れていい。

 大切なことは、とても単純なことだった。それだけで良い事を忘れていた。

「上手く言えないけどね。何か、こう、白くて柔らかくて光ってて、けど、すぐに忘れてしまいそうなほど儚い――――とても大切なものを見つけた気分さ」
「ええ、それは良かったです」

 新兵衛は笑って相槌を打った。
 そこに、先ほどの若い娘がお盆を持ってやってきた。お盆には、銚子が三本ほど乗っかっている。

「お待ちどう様ぁ。追加のお銚子です……て、うわっ」

 急に立ち上がった綾女は、娘からお盆を取り上げた。銚子を全部持って、一本を新兵衛に、一本は自分で、最後の一本は若い娘に渡した。

「え? は?」

 若い娘は混乱していたが、しっかりと銚子を握らされた。

「乾、杯っ!」

 綾女と新兵衛が、掛け声と共に、一気に銚子を煽った。それに釣られて、若い娘も銚子を煽る。

「ぬはー……ふひっ」

 そう言って、若い娘は顔を赤くした。
 綾女は懐から、刀を売った代金の入った麻袋を取り出した。

「お勘定、頼むよ」
「うぁい」

 酔っ払った若い娘は、千鳥足で店の奥に入っていった。
 しばらくすると彼女の代わりに、迷惑そうな顔をした店主が出て来た。

「……頼んますよ、うちの娘に酒なんか飲まさないで下せぇ」
「それはごめんよぅ。じゃ、代金ね」

 綾女が麻袋から取り出した金額は、食事代よりも多めだった。迷惑料として色をつけたのだと思われる。

 店主もそれを受け取って苦笑いし、頭を下げて二人を店先まで見送った。
 御食事処から出た綾女は、どこか吹っ切れたように清々しい顔をしていた。

「それじゃあ、帰ろうか」
「はい」

 新兵衛は籠を背負った。籠の中には、米や味噌などの食料品や生活雑貨が詰め込まれている。籠の一番上に、布に包まれた砥石が載せられていた。

 物が詰められた籠は、かなり重い。成人男性の体重を超えているが、それを苦もなく背負い続ける新兵衛だった。

 彼は、自分の身体の調子が戻ってきていることを感じていた。
 追っ手から逃げるために、自分から谷底へ飛び込んだことは、失敗だとは思っていない。しかし、それなりの怪我を負うことになった。

「ようやく、ですかね」

 今まではその怪我の治療のため、銀姫を探しに行くことはできなかったが、これからは違う。

 喩え銀姫が何者かに捕らわれていようと、救い出すことができる。
 新兵衛は何にも代えて、銀姫を見つけるつもりである。

「あれ、何やってんだろうね」

 彼の思考を中断させるように、綾女の声がした。
 彼女は通りにできた人の集まりを指差している。

「気にならない?」

 綾女は新兵衛を振り向いて、乞うような目をしていた。

「……では、見てみましょうか」

 仕方無さそうに笑った新兵衛は、彼女と一緒に集団へ混ざった。

 そこでは、一人の巨漢が樽の上に肘を置き、威張るように周囲を見回していた。 巨漢の隣にいる小男が、手を叩きながら口上を述べている。

「ここに現れたるは、天下無双の怪力漢でございます。その腕は大岩を持ち上げ、投げ飛ばすほどの力量であります。さあさあ、どなたか挑戦されませんか? 挑戦の御代は百文にて、見事この怪力漢を腕相撲で打ち倒せば、十両を差し上げましょう」

 その賞金の高さに、人が一瞬だけ湧くが、誰も挑戦しようとはしなかった。
 これはよくある大道芸の一種である。
 何かの理由で相撲界を抜けた力士崩れが、怪力漢に扮して小銭を稼ぐ商売だった。普通の町人にはまず負けないだろうし、腕相撲に自信が無ければこんな商売はやらない。

 それを町人はわかっているから、力自慢の町人でもいない限り挑戦者は皆無である。

「おやおや、勇気のあるお方は御座いませんか? 負けても恥ではありませんし、勝てば十両ですよ」

 派手な半纏を着た小男の煽り口上も虚しく、誰も挑戦者は現れない。挑戦者がいなければ、この大道芸が盛り上がるわけも無い。

 その場の勢いが削がれ、一人二人と人の輪から抜け出す人間が現れた頃だった。
 小男は綾女を見つけると、即座に近づいて来た。
 そのまま強引に手を引いて、巨漢の前まで引っ張っていく。

「ちょ、何するのさ!」
「へへへ、後で手伝い賃を出しますから、今は勘弁してくだせぇ」

 新兵衛は追いかけようとするも、背中の籠が邪魔で人だかりに入れなかった。無理やり入り込むも、小男に追いつけない。
 そうこうしている間に、小男と綾女は舞台へ立ってしまった。

「さあ、不甲斐無い男どもは見ていられないと、ここにいる女傑が挑戦します! その勇気に免じて、特別に御代は結構! さあ、稀代の対決をとくと御覧あれ!」

 人々が、一斉に沸いた。
 そこにいる町人の誰もが、その挑戦者の女のことを知っている。
 囃し立てる者や、野次を飛ばす者がいた。
 ――――女だてらの刀鍛冶だろう、ならば勝ってみせろ。
 そんな声も響いた。

 綾女は下を向いたまま、晒し者にされていた。
 それを盛り上がっていると勘違いした小男は、綾女を急かす。巨漢も、相手が女だと思って好色そうな顔つきをしていた。

 集団の気勢が最高潮に達したとき、舞台へ闖入者がやってくる。
 一瞬だけ、水を打ったように静かになった。

 荷物を満載した籠を背負う、普通の青年が入ってきたからだ。
 しかし、すぐに誰かの野次が飛ぶ。一つの野次は伝染するように数を増し、怒号のようなうねりとなって周囲を騒がせた。
 籠を地面に置いた新兵衛は、綾女から手間賃としてもらった金額から百文を取り出した。

「これで、拙者が挑戦者でいいですね」
「ちっ」

 盛り上がりに水を差されたと思った小男は、ひったくるようにその百文を奪った。
 そして新兵衛が巨漢の前に行こうとすると、綾女が彼の着物を引っ張った。

「止めときなって、あの男は力士崩れだよ? あんたの細腕じゃ、折られるかもしれないだろ。私なら女だから、手加減するはずさ。私がやるよ。あんたは先に帰っときな。ね? 怪我だって治ってないんだろ?」
「それは無理ですよ。拙者は少し、腹が立っています」

 綾女を振り切り、新兵衛は巨漢の前に立った。樽の上に肘を置き、巨漢と手を組んだ。
 腕の大小が見てわかるほどに、差は歴然としていた。筋力は筋繊維の太さに比例し、腕が太ければ太いほど力が強い。

 正直に戦えば、新兵衛が負けるのは、火を見るより明らかである。
 圧倒的な勝負を前にして、巨漢が笑う。

「女の前で恥をかきてぇのか? それとも、英雄気取りか? ま、何にしても、あの女は俺がもらうぜ。えらく気の強そうな美人だが、俺の手で骨でも折ってやれば、何でも言うことを聞くだろうよ」
「…………えらく達者な口だな。なるほど、力士にもなれぬ半端者らしい。弱い者しか相手にしないのでは、角界から追放されて当然だ」

 挑発を聞いた巨漢は、見る見るうちに顔を赤くした。
 大声で小男を呼びつけ、開始の合図をさせる。

「始めっ!」

 小男が手を振り下ろした。
 巨漢の腕が凄まじく膨れ上がり、今にも新兵衛の右腕を押し潰そうとした。
 瞬間、新兵衛が少しだけ肩を揺らす。

「くべっ?」

 急に呆然とした顔になった巨漢は、そのまま動こうとはしなかった。
 その間に、新兵衛はいとも簡単そうに、ぺたりと巨漢の右手の甲を樽の上に押し付けた。

 何が起こったのか、その場にいる誰もが理解していなかった。
 ただ一人、平然とした新兵衛だけが、小男の前まで歩いて行った。右手を出す。

「十両、もらえますよね」
「な、え?」
「出さないと、詐欺で役人に突き出しますよ? 十両盗めば死罪は確定ですからね。どうなっても知りませんよ」

 小男は、まったく動かない巨漢と新兵衛を見比べ、慌てて懐から十両を取り出した。
 それを受け取った新兵衛は、巨漢に近づいていく。

「ではこれ、治療費と迷惑料です。お納めください」

 十両を樽の上に置くと、近くにあった籠を背負った。

「綾女さん。用事も済みましたし、帰りましょうか」
「……え、うん」

 いまだに不可解そうな顔をしている綾女だったが、とりあえず新兵衛の言うことに従った。
 二人は、静まり返った人の輪を抜け、鍛冶場のある山へ帰っていった。
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