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夜道の怪
しおりを挟む国重綾女の住む山中から降りたところにある街の外れに、道幅の狭い街道があった。
旅人が行き交うためにある程度の整備は成されているが、獣道よりは幾分かましとしか言えない。
その街道の両端は林に囲まれており、夕暮れ前には暗くなった。人気も少なく、薄気味悪いことから、物の怪が出るという噂まで存在する。
そして現在、夕刻過ぎにもなるという時刻である。
浴衣を羽織った巨漢と、派手な半纏を着た小男が、二人で街道を歩いていた。
「よ、止しましょうよ、旦那ぁ」
小男は泣きそうな顔をしながら、巨漢に近寄った。
「このまま行ったら、道中で夜を越しちまう。こんな時間から馬も無しに次の宿場を目指すなぁ、危険過ぎますぜ」
小男の前を歩く巨漢は、首だけ動かして振り返った。
「何が危険だ、言ってみやがれ」
「あ、う、そいつは……」
小男は視線を逸らした。
夜道を歩くということが危険なことは、三つの幼子でも知っていることだ。
野犬や狼に狙われることだってあるし、土地によっては熊も出る。山賊に襲われないとも限らない。
暗闇で道を間違えることは、命に関わる大事となる。
だが、それを小男が巨漢に講釈したところで、凄まれて終わるのが落ちなのは明白だった。
「な、なんでもありやせん……」
「ちっ」
巨漢が舌打ちをして前を向いた。
彼とて馬鹿ではない。夜道がどれだけ危険なことかは承知していた。田舎生まれの彼には身に沁みている。
それでも、何とかなると思っていた。
知らぬ土地とはいえ、今はまだ熊の出る時期ではない。そもそも物の怪の類は信じていない。
野犬や狼が徒党を組んで襲ってくるのは面倒だが、犬畜生に負けるほど落ちぶれては無い。山賊にも負けるつもりは毛頭無かった。
後は夜道に迷わないことだけだが、この街道は一本道だった。側面の林にさえ入り込まなければ、自然と次の街に辿り付くことができる。
――――そうすれば、要らぬ恥を掻く心配はない。
巨漢は表情を怒りに歪めた。
先程の街で金を稼げなかったのも、こうして夜道を歩く羽目になったのも、すべてはあの男の所為だと思った。
町人たちの前で、格下だと思っていた男にあっさりと負けたのだ。
そんな街に長居していたのでは、散々に馬鹿にされてしまう。これからの商売だってやりにくい。
だから、夜道を歩くことになろうとも街を出た。
「腑に落ちねぇな……」
巨漢が呟くように言った。
後ろを歩いていた小男は、機嫌を伺うように半笑いになる。夜道ともなれば、この男だけが頼りであるから、心配するのも当然だった。
「何か、心配事でも?」
小男は背後を振り返った。
今なら引き返せば、日が完全に沈む前に街へ戻れるかもしれないと考えた。
巨漢は振り向かなかった。
「俺には、負けたときの記憶が一切ねぇんだ」
「……へぇ」
そりゃ、あれだけ気持ち良さそうに眠ってりゃ無理もねぇや、と思った小男だが、決して口には出さなかった。
「おめぇ、俺が負けるところを見てたか?」
「はぁ、いや、その」
「何か言ったって怒鳴りゃしねぇよ馬鹿ったれ。はっきり言いやがれ」
怒鳴らなくても手が飛ぶだろうが、という言葉を再び飲み込んだ小男は、昼間の光景を思い浮かべながら、言葉を選んで言った。
「あの男が何かした様子は、見えやせんでしたがねぇ。それよりも、旦那が何もしなかったのが不思議でさぁ」
「何もしなかった、だと」
「へえ、何もせずに腕を押さえられて……その、負けたみたいで」
「そうかい」
眉を寄せた巨漢は、己の自慢の腕を見ながら歩いた。
力勝負で負けるわけが無い。ならば、他に理由があるのだろう、と考えた。
そのとき、巨漢の行く道の正面に、人が立っていた。
巨漢は立ち止まって、その人影を睨む。
「誰だ。山賊でも出やがったのか」
「ひっ」
小男が、短い悲鳴をあげて林の中に隠れた。茂みを掻き分ける音が、静かな街道に響き渡る。
人影が一歩前に踏み出した。鉄具の擦れ合うような音がする。
「山賊、とな。俺の姿を見てから物を言え」
そう言って現れたのは、鎧兜を身に纏った武者だった。手には、姿に不釣合いな鉞を持っている。
「何だ、侍かよ。脅かしやがる。紛らわしい真似しやがって」
武者は溜息を吐いてから、巨漢を見て少し顎を上げた。
「そういうお前こそ、山賊じゃないのか」
「はあ? 俺が何したってんだよ。何も盗んじゃいねぇし、誰も殺しちゃいねぇよ」
「ほぅ」
武者は、左手で顎を擦りながら微笑んだ。
「俺はまだ何も言ってないぞ? 確かにお前の言った通り、この先にある峠で、俺の配下が細切れにされていた。しかも、鎧兜を剥がれていたのだ。誰かが盗んだのだろうなぁ」
「何が言いてぇんだ」
「お前がやったのではないか?」
「ふざけるな。俺ぁ何もやっちゃいねぇ! さっきまで街にいたんだ、どうやってあんたの部下を細切れにして追い剥ぎするってぇんだ!」
巨漢は苛立ちを隠さず、林の中に隠れた小男に向かって叫んだ。
「おい、おめぇも何か言ったらどうなんだ!」
すると、薄暗い林の中から、見覚えのある派手な半纏が見えた。
ゆっくりと歩いてくるように見えたが、それにしては妙な歩き方だった。
まるで、脚を動かさずに歩いているようだった――――。
「は、あ?」
ようやく小男が、巨漢の視界に入ってきた。
派手な半纏は真っ赤な血で染まり、新しい模様を作っていた。
小男の首から上は既に無くなっており、首の切断面から血が湧くように溢れだしている。
その小男の死体を、背後から吊り上げるようにして掴んでいた鎧武者が言った。
「これでよろしかったのですか、貴信様」
「構わん、直房。下手人の咎は、こいつらに負ってもらおう」
貴信と呼ばれた武者は、持っていた鉞を肩に担いだ。
その様子を見ていた巨漢は、一歩だけ後ろに下がった。その理由は、貴信の身につけている胴丸の家紋を見てしまったからである。
「丸に違笹ってこたぁ……」
それはこの地域を支配する守護大名の筆頭家老――――木津島貴信の家紋だった。
巨漢は逃げ出そうと思ったが、複数の侍によって、周囲を取り囲まれていることに気がついた。
どこにも逃げ場は無い。
狼狽する巨漢を見て、貴信は楽しんでいた。
「どうした。先程までの威勢は」
「さっきの口ぶりからすりゃあ、俺は逃げられねぇんだろうなぁ」
「当然だ。下手人に逃げられたとあっては、生き恥もいい所だ。これ以上、面倒なことは御免なのだよ」
巨漢は重心を下げて、貴信を睨む。
「……さっきから、何言ってやがる」
「俺は言ったはずだが? 俺の配下が五十三人も殺されたのだ。その責任は、誰かが取らねばなるまい」
「お偉いさんは考えることが違うねぇ。責任逃れのためには、見ず知らずの男に濡れ衣を被せるのもお手の物か」
貴信はそれを聞いて、憮然とした顔をした。
「話はそれだけで済むものか。追っ手にやった者が全滅した所為で、銀姫にも逃げられてしまってな。銀姫が俺の主君殺しを、皇帝に告げ口したら困るのだよ。流石に、皇帝覇軍は相手にしたくないものでね」
「しゅ、主君殺しだってぇ」
目を見開いて驚く巨漢だった。
主君殺しとなれば、木津島貴信は謀反人である。
捕まれば一族郎党の全員が処刑され、謀反を起こした本人は見せしめとして、生きながらにして地獄を味わう羽目になる。
「俺の決意がわかったかね」
「……ちっ」
巨漢は既に、前傾姿勢の体勢となっていた。
このまま無事に逃げられるとは思っていないが、一縷の望みはある。
護衛の一人もつけずに立っている木津島貴信を殺し、事態の混乱に乗じて包囲を突破するのが最善の策だろう。
そんなことを巨漢が考えていると、貴信が詰まらなそうな顔をした。
「で? いつになったら逃げ出すのだ」
巨漢と貴信の間に、殺気が満ちた。
「っけよい――――のこったぁぁぁぁ!」
低い体勢から、信じられない速度で飛び出す巨漢だった。
おおよそ見た目からは計り知れない勢いのぶちかましである。
それだけでも脅威に過ぎるのだが、更には豪腕から繰り出される張り手が飛ぶ。
貴信の兜が宙を舞った。
巨漢の放った張り手は勢いを殺さぬまま、側面の林にある一本の木にぶつかった。
轟音が響き、大気が揺れる。
張り手を受けた木は、ゆっくりと時間をかけてへし折れた。
巨漢の男は振り返って、貴信を探そうとした。
しかし、何も見えなかった。
なぜなら、頭の上半分がなくなっていたからだ。
巨漢は自分の頭を確認しようとして、そのままの格好で後ろに倒れた。
「まずまず、だな」
鉞を横薙ぎに振りきった格好の貴信は、血の一滴も付着していない己の得物を見た。
今まで小男を吊り上げていた武者が、小男を放り投げてから、貴信に近づいてきた。
「それが、例の『戦人』から渡された鉞ですか」
「うむ。中々に使いやすいが、先程は使いやす過ぎて勢い余ってしまったわ。身体が動けてしまうから、つい、兜が頭から落ちてしまった」
「流石は戦人、といったところですかね」
「まあ、奴が居なければ謀反を起こすにも手勢が足りなかったのは事実だ」
貴信は再び鉞を肩に担ぎ直し、左手を上げた。
周囲の林に散っていた部下達が、一斉に貴信の下へ集まり始めた。街道を塞き止めるほど集まった手勢は、およそ百人に上った。
これは、貴信の軍から精鋭だけを寄り集めた最大限の人数であった。
「さて、これから我々は銀姫を狩り出さねばならん。居場所は既に、戦人から聞いている」
猛禽類のように鋭く笑った貴信は、自らの鉞を夜空に掲げた。
百の精鋭もそれに習い、己の武器を高らかに天へ捧げる。
「まずは、誰にも知られぬよう、陣を整える。良いな」
精鋭たちは返事をする代わりに、一斉に武器を降ろした。
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