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千人殺し
しおりを挟む観音峠での合戦より、既に一週間が過ぎた。
その間、荒木新兵衛と荒木銀は、真木の屋敷に世話になっていた。
しかしそれも、今日で終わりとなる。
屋敷の玄関に、二人の夫婦が立っていた。
新兵衛は、旅装を調えた銀姫を見ている。
「ぬ? 何じゃ。何かあるなら申してみよ」
不思議そうな顔をした銀姫は、首を傾げる。
そして、自分の格好を見直した。
「……似合わぬか?」
鶯色をした小袖の上に、地味な内掛を羽織っている銀姫だった。
今までの絢爛豪華だった着物に比べれば、見た目も値段も着心地も、天と地ほどに離れていると言えよう。
ただ、新兵衛が見ていたのは、着物のことではなかった。
銀姫の左眼があった部分――つまりは、眼帯を気にしていたのだ。
流石に合戦の後、銀姫は医者に治療してもらったのである。
本気で眼球に懐刀を突き立てていて重症だったのだが、幸いにも眼窩の奥まで刃が達しておらず、命に関わることはなかった。
「いえ、どうして自分が、もっと急がなかったのかと思っていたのです」
「後悔するのはよせ。後悔する分、私を愛してくれればそれでよい。許す」
「……はあ、その」
「うん? 照れておるのか。気にするでない。接吻でもしてやろう」
「いえ、ですから」
皆が見ております、と新兵衛は首を曲げた。
そこには、真木家の面々が勢揃いして正座をしていた。
ただ、忠宗と佳代だけがいなかった。
彼らと銀姫とは、顔を合わせ辛いのは誰もが知ることなので、気づかないふりをしていた。
その代わり、真木家当主代行として真木直近が、玄関の板の間に座していた。
「本当によろしいのですか、銀姫様」
「よい。それと、もう姫ではないぞ」
銀姫は着物の袖を持って、それを広げて見せた。
どこからどう見ても、町娘の格好であった。
「はい。では、鷹峰銀様は、合戦で命を落とされました。そう報告しておきましょう」
言って、直近が遠くを見た。
「恐らく浄州は、高石殿が引き継がれるものと思われます」
「ふむ、高石か。あやつは真面目すぎるきらいはあるが、言葉を返せば実直そのものよ。悪いようにはならぬじゃろう」
「……しかし、残念です。やはり後を継ぐは銀姫様が適任――――」
「無理じゃ。もう私は、新兵衛のものじゃからな。のう、お前様?」
満面の笑みで、新兵衛に顔を向ける銀姫であった。
「そこで拙者に話を振るのですかっ」
直近も同じように、新兵衛を見た。
その真摯な眼差しを、新兵衛は見返した。
「拙者はまだ、身も心も未熟者に御座います。ですから、銀を離したくありませぬ。どうしても銀を奪いに来られるなら、受けて立ちましょう」
途端、直近は破顔一笑した。
「くわっはっは、これはこれは、ご馳走様としか言いようがありませんな。流石は銀姫様、既に新兵衛殿の行動はお見通しのようですわい」
「むふ」
口に手を当てて笑う銀姫であった。
訳がわからないのは、当の本人である新兵衛だけだった。
「な、なにか?」
手玉に取られた新婿を哀れに思ったか、直近が白状した。
「演技にて候。まあ、国の主に戻っていただきたいのは本心ですが、それも無駄だと知っております。脚本はすべて、そこにおられるご婦人が提案されたことになりましょうな」
「……演技」
新兵衛が細目で銀姫を睨むと、彼女は抱きついてきた。
「そう怖い顔で睨むでない、ほんの冗談じゃ。それでも私は、離したくないと言われて、心の蔵が止まるほど嬉しかったがの」
手を叩いて喜ぶ直近である。
「それはそれは、止まらなくて良かったですな」
「まったくじゃ」
仲間外れにされた気分の新兵衛は、礼をしてから踵を返した。
「世話になりました。では、御免」
新兵衛に抱きついている銀姫も否応なく方向転換されることになったので、そのまま手を振った。
「うむ。この新婚旅行が終われば、またこの屋敷に顔を出そう。そのときはよろしく頼むぞ」
真木家の一同は、全員揃って頭を下げて見送った。
玄関を出た新兵衛と銀姫は、関所の門に向かって歩いた。
そこに、人影が二つあったからである。
一番初めに、小さな影が走り寄ってきた。
その手には、白い花束があった。
「あ、あの」
「どうしたのじゃ、佳代」
「これを」
銀姫は、その花束を嬉しそうに受け取った。
「ありがたい……そうか、花摘みをしておったのか」
「また、今度」
「うむ。次に会うときには、一緒に花摘みをしようぞ」
佳代は感情を眼一杯顔に浮かべ、泣き始めた。
その佳代をあやすように、頭を撫でるもう一つの影があった。
忠宗である。彼は新兵衛を見た。
「俺は全然、あんたのことが羨ましくないよ。それだけは言っておくぜ」
「そうですか」
新兵衛は、頷いただけだった。
忠宗の言ったことに納得できるところがあり、尚且つ、忠宗の言葉の裏にある気持ちを汲んでいた故の所作であった。
「では、さらばだ」
今度は、銀姫から別れの挨拶を切り出した。
その場にいた四人はそれぞれに手を振って、別れた。忠宗と佳代は、暫くの間、遠ざかっていく二人の背中を見守っていた。
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