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036 狂った世界

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 帝の寵愛を受けたネーシャはやがて三人の娘を産んだ。
 産まれた子らを溺愛するような夫ではなかったが、それでもときおり顔を見せる程度には愛情を示していた。
 世間一般の家族のあり方としては、けっして恵まれていたわけではない。
 しかしレイナン帝国の王族としてみれば、これでもかなり異例のこと。
 産み落としたあとは知らんぷりにて、次期帝位争いの渦中に放り込むばかり。あとは喰いあうのみ。それが帝国の王族としての生き方。必要なのは強き王。それ以外は不要。
 だというのに、まがりなりにも家族のていを成している。
 これをまのあたりにして他の妃たちは激しい嫉妬と淡い羨望、それから怒りを覚えずにはいられない。「どうしてあの女だけが、どうしてあの女の娘たちだけが」と。
 加えて他の子どもたちは三姉妹を警戒した。
 最大の脅威。次期帝位争いにおける障害となるやもしれぬと考えたのである。

「あの母子たち、邪魔だな」

 という気配が次第に水面下にて濃厚になっていく。
 しかし生来の性格もあってか表舞台に立とうとしない、目立った動きのないネーシャは与えられた離宮からめったに外に出ることはなく静かに暮らしている。娘たちもそれに倣った生活態度に終始。
 母娘たちにしてみれば、ただ当たり前に日々を慎ましやかに過ごしているだけなのだが、害意を抱く者たちからするとどうにもやりにくい。つけ入る隙がない。
 野心と陰謀渦巻く嵐のような世界にあって、周囲の色に染まることなく、環境に毒されることもなく、清廉さを保っている。
 超大国の王族たちや貴族たちにとっては、あまりにも奇異で異質な存在。

「なぜ求めない?」「なぜ主張しない?」「なぜ欲しない?」「なぜ虐げない?」「なぜ手をのばさない?」「なぜ掴まない?」「なぜ奪わない?」

 なぜ、何故、ナゼ……。
 わからない。理解できない。
 無知や未知はときに恐怖へと通じることがある。
 潜在的に育まれたそれが芽吹いたのは、末娘のラクシュが六歳になってすぐのこと。

 発端は、ネーシャ母娘たちの健康診断。
 その際の診断結果と採血された品を裏から手をまわして入手したのは、第四王子。
 当時より魔道狂いで悪名を馳せていた彼は、ずいぶんと前からネーシャの身に宿るチカラに着目していた。だが相手は仮にも帝の寵愛を受けた女性にして自分と同じ王族ゆえに、うかつなマネはできない。
 しかし手に入らないモノほど欲しくて欲しくてたまらなくなる。
 ましてや第四王子は一本の呪槍を造るためだけに数万の女たちを生贄に使ったり、古代の遺物を実験と称して安易に解放しては被害を拡大させることを厭わず、王族の特権と財を惜しみなく投入しては非道な実験をくり返すような人物。
 じりじりと焦らされるばかりの黒い欲望。暗くよどんだ執着へと転化してゆくのにさして時間はかからなかった。
 その想いが高じるあまり診断結果らを求めたのだが、手に入れた血液を調べたところ思わぬ発見をして第四王子は狂喜乱舞する。

  ◇

 ラクシュたちの平穏は唐突に終わった。
 帝が第四王子と彼の旗下である研究者たちを多数引き連れて離宮に来訪。
 そのまま母ネーシャと二人の姉を連れ去ってしまったのである。
 一人とり残されることになったラクシュは泣いて追いすがろうとした。
 そんな彼女の前に立ちふさがったのは父である帝。
 帝は幼子を冷徹な眼差しにて見下ろし淡々と告げる。

「あれらの身に流れる血には特別なチカラがある。帝国にさらなる繁栄をもたらす可能性があることがわかったので、以後はその身柄を第四王子の管轄下にある施設預かりとする」

 これがどれほどむごい話であるのかは、まだ幼かったラクシュにはわからない。たまさか自分だけが受け継がなかったがゆえに助かったことも理解できない。
 ただ「イヤだイヤだ」と感情のままに泣きわめくばかり。
 そんな娘に父がかけた言葉は慰めでも謝罪でもない。

「余が憎いか、ラクシュ。非力な己が悔しいか、ラクシュ。ならば強くなれ。誰よりも強くなって頂点に立て。さすればおまえはその苦しみから解放される」

 瞬間、六歳の幼女の双眸にボッと激しい怒りの金炎が宿る。
 この日以降、大切な人たちを取り戻すためにラクシュは死に物狂いという言葉ですらもが生ぬるいような過酷な試練を己に課す。ひたすらチカラを求め、知恵を求め、自身を高めることに邁進し、突き進む。

  ◇

 存分にチカラを蓄え、同志をも得て、なおも急成長を続けるラクシュ。
 特に軍に在籍するようになってからの活躍は目覚ましく、いつしか周囲より美獣や金狼などと呼ばれ畏怖されるまでになる。
 そしてついに王族同士の共喰いに本格参戦するにあたって、まず最初に選んだ獲物が第四王子の勢力であった。
 第四王子がある種の天才であったことだけはラクシュも認めざるをえない。
 犯した悪行は数多あるが、もたらした恩恵や成果もまた少なくはなかったからである。だからとてけっして相容れる相手ではないが。

 あらゆる手段にて敵陣営を蹴散らし、ついには第四王子の首級をもあげ、彼が特に大事にしていたという研究施設へ踏み込んだとき。
 ラクシュを待っていたのは絶望の光景。
 姉二人はすでに亡く、骸は研究資料用として解体、瓶詰されてきれいに棚に陳列されていた。
 かろうじて生きていた母は両手足を失い、つぎはぎだらけの肌にて、全身に管を通された状態で筒状のガラスの水槽内に浮かんでいるばかり。
 ひさしぶりに再会した母と末娘。
 母の唇が弱々しく動く。娘が耳を寄せてどうにか聞き取れた言葉は「もう死なせてください」であった。
 かつて慈愛の光に充ちていた双眸は白濁しており、焦点は定まらず、すぐ目の前にいる自分の娘のことも正しく認識できていない。
 生きながらすでに死んでいるネーシャ。
 ラクシュはひと筋の涙を流すと、無言のまま自らの手で母の願いを叶えた。
 ひとしきり施設内の調査を終えたラクシュは、最後に建物へと火を放つ。
 それは弔いの炎。
 天を焦がす焔を前にしてラクシュは誓う。
 こんなマネを平然と許す帝も、そんな男が支配する国も、そこでのうのうと暮らす民たちにも、必ず相応の罰を与えずにおくものか、と。


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