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その八十五 氷瀑
しおりを挟むコハクが予想した通り、朽ちた神殿を抜けた先には滝があった。
ただし、この時期、水はほとんど流れていない。あらかたが白く固まり氷瀑と化している。
あらゆるものを白く染めあげ、凍えさせる極寒の地。
峻烈な自然だからこそ産み出せる荘厳なる氷結の芸術。
吊り天井の罠を発動させて、山狗の子を生き埋めにした大狒々ザクロマダラは、揚々と氷の滝を望めるお気に入りの場所へと向かう。
手の中の獲物はすっかりおとなしくなっている。先ほど山狗の子がやられるところを目の当たりにして、ふたたび気を失ってしまったようだ。
お気に入りの場所は滝沿いに崖を少しばかり登ったところにある、突き出た岩場。
ふだんであれば落ちてくる激流により近寄ることもかなわぬ場所だが、この時期だけは立ち入れる。
そんな場所を我が物として独占する。
背後に凍った滝を従え、下からこちらを見上げる旗下の者どもを指図するのは、たいそう気分がいい。そこで喰らう生肉はさぞや美味なことであろう。
こしゃくな山狗の骸はあとでサルどもに命じて掘り出させればいい。
◇
凍える崖を獲物片手に器用にもよじ登っていく大狒々。
あと少しでお気に入りの場所へ到着する。
嬉々として次の岩へと手をかけたところで、ふいにコツンという小さな音が鳴った。
音が聞こえたのはずっと下の方から。
てっきり自分が氷の欠片でも蹴飛ばして落としたのかと、音の正体を確認しようとしたザクロマダラ。
首をひねり視線を下へと向けたところで、ちらりと見えたのは自分へと向かってくる……黒銀の突風?
ザシュッ!
刹那、顔面に走ったのは焼けるような痛み。ごぼりと血が溢れる。それが滂沱の涙となって頬から顎へと伝わり、胸元をも濡らす。
大狒々の赤い双眸、その視界が突如として失せた。
爪による一閃。
黒銀の突風のように視えたものの正体は、コハク。山狗の子の銀地に黒がまじった毛並みが高速で移動する姿であったのだ。
軽快に岩場をシュタシュタ駆け登った山狗の子。勢いのままに大狒々へと追いすがり、これを追い抜きざまに爪による斬撃を見舞う。
目元を真一文字に斬り裂かれたザクロマダラが驚愕す。
「なっ、どうしておまえがここに」
「運がよかった。梁のおかげで助かった」
闇の中、雨あられと降り注ぐ天井の建材たち。
吊り天井の罠の虜となったところで迫られた選択。
行くか、戻るか。
風の流れから、先に進んだほうが近い、生き残れる可能性が高い。そう判断したコハクは迷うことなく駆け出した。
懸命に落下物をかわしながら出口を目指す。
しかしようやく辿り着いた出口にて待ち受けていたのは、無情にも固く閉じられた鉄格子。
万事休す。
このままでは生き埋めにされて、押しつぶされるしかないという状況。
そこにたまさか落ちてきたのが、いっとう立派な太い梁。ぺしゃんこにされかけるのをからくも回避するコハク。
梁がズドンと落ちたひょうしに、床の一部が壊れて隙間ができた。
ギリギリ通り抜けられそうな大きさ。
いちかばちか、コハクはそこに飛び込んだ。
途中あちこちで擦り、傷をこさえながらもどうにか床下を抜けて、窮地を脱したコハクはそのまま朽ちた神殿を突破。建物の裏手へと。
這い出た先で目撃したのは、滝沿いに崖をよじ登っている敵の姿であった。
山狗の子を罠にハメて仕留めたと、すっかり油断していた大狒々は、足下より忍び寄る存在に気がつくのが遅れた。
その代償として払わされたのが二つの目玉。
深々と斬り裂かれてしまったがゆえに、これはもう治らない。
痛みと屈辱でカッと頭に血がのぼらずにはいられないザクロマダラ。
そんな大狒々の耳元で風がささやく。
「悪いけど、冬毬は返してもらう」
言うなりがぶりと腕に喰い込んだ牙に、ザクロマダラが悲鳴をあげる。
たまらず手放したのは、ずっと握っていた獲物の娘。
はずみでぐらり、大狒々の体勢が崩れる。ここは滝沿いの崖。あわてて近くの岩を掴もうとするも、盲となった身ゆえにのばした手が空を切った。
岩を掴み損ねた大狒々は、そのまま崖を転げ落ちていく。
「ギャアァアァァァァァーッ」
氷や岩にぶつかりながら遠ざかっていく断末魔の叫び。
その姿を背に冬毬を乗せた山狗の子はじっと見ていた。
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