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809 化かし合い
しおりを挟む包丁を手にした黄色いレインコートの男。
男が真っ直ぐこちらに向かってくる。動いたひょうしにフードの陰よりちらりとあらわとなった目元、瞳孔が異様に膨らんでおり血走っている。
正気じゃない……これがありもしない不老不死という幻想にとり憑かれた愚者の目か。
そんな相手と対峙するこちらとしては周囲の目もあるので、あまり派手な化け術は使えない。
だから、おれは部分重ね化けにて、腕を盾にしてしのぐつもりであったのだが……。
互いの距離が五メートルぐらいにまで接近したところであろうか。
ほんの一瞬にして迫る黄色い影が視界よりかき消えた。
黄色いレインコートの男を狩ったのは、トラ美こと弧斗羅美。
横合いから飛び出し、むんずと男の頭を掴んだトラ美、勢いのままに向こうの路地裏へと引きずり込んだのだ。
その姿は、まさしく森林の王者が獲物を「ガオーッ」と仕留めるソレ。
大型肉食獣が持つ圧倒的チカラ。
いかに常軌を逸した狂信者であろうとも、生粋の人間である黄色いレインコートの男に抗う術はない。
勝負は一瞬でついた。
路地裏の暗がりにて光る金の双眸はトラ美のもの。
無言のまま、ぱちぱちとまばたき。目にて「もう大丈夫」との合図を受けて、おれは警戒を解く。
とっさにおれが背に庇ったので、何が起きたのかわからない伯魅はきょとん。
こっちを不思議そうに見上げる幼子に、おれは「なんでもない」と笑って誤魔化す。
じつはおれというか、伯魅には密かに動物界が派遣した腕利きの警護が付けられている。トラ美もそのうちのひとり。ふだんは陰に潜み息を殺し、いざというときには先のように飛び出し対処する。
通常のボディガードのように、保護対象に四六時中張り付いていないのは、物々しい雰囲気にて伯魅に余計な心理的負担をかけないため。
迷信に惑わされて伯魅をつけ狙う、愛葉会の狂信者どもはやっかいだが、それよりも鬼姫さまの機嫌を損ねたときに生じる反動の方が危険と、上は判断したようだ。
まぁ、判明している能力ひとつとっても尋常ではないので、それも無理からぬことか。
◇
ぷるぷるぷる……。
ジャケットの内ポケットに入れていたガラケーが震えた。
スチャっと取り出し、パカンと開閉。
「もしもし」
「……四伯、おまえのところの雑居ビルの周辺に、複数の不審者がうろついている。片付ける間、マスターのところへでも行っていてくれ」
用件だけ告げてさっさと電話を切ったのは、カラス女であった。
今回はことが鬼族絡みなだけに、高月警察も裏で全面バックアップ。よって不良刑事の安倍野京香もこうして出張っているわけ。
なお彼女が口にしたマスターとは、おれの行きつけであるバー「フェール・アン・ドゥトール」の主人の柴田将暉のこと。
ダンディとは彼のためにあるような言葉にて、若輩者のくだらない絡み酒にも眉をひそめることもなく、静かに余裕の笑みを浮かべている男。
この阿呆と変態だらけの高月の地において、おれが心から尊敬できる数少ない人物のうちのひとりでもある。
ちなみにその正体はイヌのシベリアンハスキーである。
「よし、ちょこっと寄り道していくか」
「よりみち? どこいくの、パパ」
「大人の社交場、いうなればパパの秘密基地みたいなところかな」
「ひみつきち!」
目をキラキラさせて、こっちを見上げてくる伯魅。
やたらと喰いつきのいい娘に、おれはちょっと苦笑いしつつ、手を繋ぎ直す。
◇
バー「フェール・アン・ドゥトール」は雑居ビルの半地下にある。
地下へと向かう階段を降りていくごとに、薄暗くなっていく中、辿りついた先には重厚な扉が待つ。板チョコみたいな格好にてすごく重たそうな扉だが、じつはとっても軽やかかつ静かに開閉したりする。
店内はカウンター席メインにて、テーブル席が三つばかりとこじんまりとしたもの。ほどよい照明の灯りが目に優しく、ほっとさせてくれる。天井はさほど高くはない。奥行もしれているけれども、不思議と圧迫感は感じない造りになっている。
内装は木目を基調としたシックなもので統一されており、過度な調度品は一切なし。落ちついた雰囲気にて、大人が静かに酒とタバコを愉しめる、絶妙に居心地のよい憩いの空間。
「やあ、いらっしゃい、尾白さんと小さなレディ」
あいかわらずの渋い声でお出迎えしてくれるマスター。臆面もなくさらりと「レディ」とか言えちゃうのが、さすがであろう。
テーブル席に案内されて、注文し待つことしばし。
おれの前にはいつものホットコーヒーが、そして伯魅の前にはプリンアラモードが置かれる。
スプーン片手に伯魅が目の前のスイーツに夢中になっているのを横目に、マスターがこそっとおれに耳打ち。
「これまでのところ確保された襲撃者は八名、みな年齢職業性別もバラバラで、どうやらおもいおもいに動いているようだ。例の会の関係者であることは間違いないようなんだが」
それを聞いておれは眉根を寄せる。敵勢の動きが散発にて、どうにもまとまりがないからだ。こういうのが一番性質が悪い。ある程度、まとまって動いてくれれば動きを掴みやすいし、何より目立つ。そこいら中に痕跡が残る。極端な話、指揮系統を潰せばおしまい。
けれども個々に思いつきで勝手に動かれては、ひとつひとつ探し出して叩き潰す必要がある。
とどのつまり、玄人の犯罪も怖いけど、素人の犯罪もまた違った怖さがあるということ。
悪事には悪事なりの常識というものがある。
だというのに素人は平気でセオリーを破ってくるから困りもの。
現状、おれたちは背後にいる首魁により、揺さぶりと持久戦を仕掛けられている。
ただのイカレポンチ集団かと思いきや、どうしてどうして。
敵もさるもの。こちらが疲弊なり油断なりして、警護の手が緩まるのを待つ算段のようだ。
だがお生憎さま、化かし合いで動物相手に勝負を吹っかけるたぁ、千年はやい。
けちょんけちょんにしてやんよ。
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