138 / 483
其の百三十八 王子稲荷行
しおりを挟むびょうびょうと風が哭く。
舞い上がる砂塵。
顔をそむけてやり過ごす。向かい風にてこちらの足が鈍る。
見上げると黄金色の残光がみるみる細くなっていた。
東の空の彼方より藍色が世界を浸蝕する。
迫る夕闇。夜が来る。
追いたてられるようにして先を急ぐ一行。
前後に並んで進む駕籠ふたつ。前には足が不自由な桑名以蔵が、うしろには美耶が乗っている。美耶の駕籠を守るようにして並走するのは、九坂藤士郎。
目指すは板橋にある関東稲荷総司の王子稲荷。
藤士郎から、諸々の事情を聞いた美耶の決断は速かった。
「わかりました。みんなを巻き込むわけにはいかないわ。すぐに場所を変えましょう」
だが守りを捨てて考えなしに飛び出したとて、黒狐の餌食にされるだけ。
緊急事態につき田沼の殿さまの伝手を頼ってもよかったのだが、敵は得たいの知れぬ物の怪である。かえって被害が広がりそう。なにより「あの方に大きな借りはつくりたくない」と美耶。いかに同志とてそこはそれ、一線はある。物の怪も恐いが、時の権力者もおっかない。
そこで藤士郎はお馴染みの知念寺の巌然を頼ろうとしたのだが、あいにくと急用にて不在。弟子の堂傑によれば二三日は戻らないという。ならばと芝増上寺の幽海に相談したところ、王子稲荷神社に庇護を求めることを強く勧められた。
幽海いわく。
「その娘さんは高位の稲荷の加護を授かっているようだ。おそらくは先祖の縁と思わられる。しかしそれゆえに仏の加護がちと効きにくい。水と油のようにはじいてしまう。これではせっかくの加護を打ち消しかねん。だが同じ稲荷であれば相性がいい。きっと力を貸してくれるはずだ」
こうして美耶は一時的に王子稲荷神社に避難することにしたのだが、ではどうしてわざわざ逢魔が刻を選んで松坂屋を出立したのかというと、理由はできるだけ他の人を巻き込みたくないという美耶の意向ゆえ。
早朝では木戸が開いてない。一町ごとに設けられてある木戸は、夜四つに閉じられ開くのは朝六つ。当然ながらそれに合わせて民草も動くので、江戸の朝は意外に人出が多いのだ。
では夜更けとなると、これはこれでかえって目立つ。木戸番や夜回りなんぞの目に留まれば、たちまち不審がられて「ちょっとそこの番屋まできてもらおうか」となりかねない。
その点、夕暮れ間近は動くのに都合が良かった。
みな家路を急いでおり気もそぞろ。急速に人の姿が減り、一部の盛り場をのぞき町中は閑散となる。だから少々急いだとて誰も気にしない。
◇
頃合いをみて松坂屋を出た美耶、九坂藤士郎、桑名以蔵の三人連れ。
あらかじめ手配しておいた小舟に飛び乗り、隅田川をずんずん遡る。綾瀬川との合流地点である鐘か渕を横目に、舟の舳先を西へ。荒川へと入り千住大橋を潜りその先へ。左前方に飛鳥山が見えてきたところで舟を岸へと寄せた。このまま王子稲荷の裏手につけてもよかったのだが、そこだと駕籠が拾えない。
桑名以蔵は義足に杖持ち、美耶は大店のお嬢さま、ふたりの足は急ぎには不向き。もたもたしていたら追いつかれかねない。ゆえに途中で駕籠を拾うことにした。
さいわい駕籠はすぐにつかまったもので、代金をはずんで先を急がせる一行。
途中までは順調であった。
けれども急に風が強くなり、びゅうびゅうと。これを正面や横合いから受けて駕籠が暴れる。中の者は揺られて「うわっ」「きゃあ」
威勢がよかった駕籠かきの雲助たちも押さえるのにひと苦労で、とてもまともには進めやしない。
そのせいで王子稲荷の玄関口である飛鳥山を目前にして、一行は失速する。
するとそれに合わるかのようにしてゆらりと動く影ひとつ。
道の先、辻の脇にある松の木陰から姿をあらわしたのは、頭巾姿の女。
先回りされた!
慌てて駕籠を反転させようとした藤士郎。
しかし、背後はすでに塞がれていた。ぞろぞろとあらわれたのは黒い狐の面をつけた男たち。顔は隠されているが見覚えのある道着姿……小木野道場の者たちであった。
1
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
高槻鈍牛
月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。
表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。
数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。
そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。
あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、
荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。
京から西国へと通じる玄関口。
高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。
あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと!
「信長の首をとってこい」
酒の上での戯言。
なのにこれを真に受けた青年。
とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。
ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。
何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。
気はやさしくて力持ち。
真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。
いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。
しかしそうは問屋が卸さなかった。
各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。
そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。
なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる