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其の百七十五 出世頭
しおりを挟む小谷村、滞在三日目。
藤士郎が喉の渇きで目を覚ますとすでに昼になっていた。
巌然の姿はなく、村長宅の家人によれば一刻ほど前に出かけたとのこと。村人らを慰撫して回りながら、例の枯れ井戸を調べるそうな。
だから藤士郎は人別帳の残りを当たることにした。それから村長に漁網か蚊帳がないかを訊ねると。
「漁網はない。いちおう蚊帳はあるが穴あきのぼろ。でも鳥網なら」
村を縦断しているのが水無川なのでろくに魚は獲れぬ。代わりに山で網を広げて立て掛けておけば、ときおり鳥が引っかかる。周囲は峻険にて猟師も分け入るのを躊躇するほど。だからどうしても待ちの狩りとなる。だからここでは田を荒らす雀はむしろ歓迎される。小さかろうとも肉は肉というわけだ。
ゆえに鳥網は大切で村共有の財産。
さすがにこれは借りられないので、藤士郎は蚊帳の方を所望する。狂骨を絡め捕り足止めするだけなので、穴が開いているのは問題ない。
人別帳の調査も半ばを過ぎてからかなりはかどっている。
年代が進むほどに紙の質が明らかに変わったからだ。難解であった文字も読みやすくなっている。でも戦国の世に入ったところで、さすがに人の出入りがぐっと増えてきた。もっともそのほとんどが賦役(ふえき)や徴兵であったが……。
「他所では忌避されることでも、堂々と村を出られるからここではちょっとした出稼ぎ扱いだったみたいだね。戦で亡くなった者が少ないのは優秀だったからというよりも、用心深くてうかつに前に出なかったからだろう。そのまま行方をくらます者がいないのは、残された家族が気になってか、あるいは人質にされてか……おや?」
で、ちょうど天下分け目の関ケ原があった後ぐらいのところで、藤士郎は気になる記録を発見する。
自力で村を出た者がいたのだ。
六太という男。小作の六男坊ながらもよほど優秀であったらしく、近在にあった寺の住職の推薦を受けて修行をしに都へと上っている。そして英舜(えいしゅん)という名を授けられ立派になって村へと凱旋しているのだが、戻ってすぐに亡くなっていた。その死因については何も記されておらず。村始まって以来の秀才、出世頭にもかかわらず、名前のところにただ棒線が引かれているだけ。郷土の希望、誇りともいうべき人物にしては、あまりにもあっさりしている。他と同じ扱いといえば聞こえがいいけれども、どうにも腑に落ちない。
「狂骨になるのは僧侶の者が多いから、条件は合致しているか」
藤士郎は蚊帳を用意してくれた家人に、試しに英舜のことを訊ねてみた。
すると「あぁ、そういえばそんな御方がいたと爺さまから聞いたことがあります。なんでもこの村に寺を建てようとしてくれたんだとか」とのこと。
村の期待を一身に背負って都へ行き、大きな寺で修行に励み、ついには認められて村へと戻り、村の悲願であった寺の建立に尽力。しかし志半ばにて倒れた。
「そのわりには故人を称える碑もなければ、石塔や墓も見かけなかったような」
首を傾げる藤士郎。散々に村中を駆け回ったがそれらしい物はどこにもなかった。
清廉高潔な人物ゆえに、自分の死後にそういった扱いを嫌って何もしないように遺言を残したことも考えられるけれども……。
帰ってきた巌然にさっそくこの事を報告すると「なるほど、そういうことか」と独りごちる。
「何がなるほどなんですか?」
「あぁ、なんとなく話の筋が読めた」
「自分で報告しておいてなんですけど、あれだけのことで?」
「十分よ。わしも若い頃には諸国行脚をした身。だから村、とくに貧しい処の人心の機微はよくわかっている」
村は閉鎖社会ゆえに、共同体の意識が強く、かつ内々での序列が明確である。
そんな中で小作の六男が突出した才能を持って生まれ、出世し凱旋。
これを喜び諸手を上げて歓迎する者がいる一方で、妬み嫉みゆえの相当な反発もあっただろう、強い危機感を抱く者もきっといたはず。
とどのつまり、ずっと見下していた相手にえらくなられては面白くないということ。
くだらない理由だが、根っこに感情があるからやっかいだ。
「あくまで憶測だが」との前置きにて巌然は言った。「その英舜とやら、おそらく村の人間に殺されたな。しかもそれを揉み消せる立場の者が絡んでいる」
それすなわち人別帳を管理する立場でもあるということ。
つまりは……。
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