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其の二百五十三 茶屋の男
しおりを挟む銀花堂を辞去した藤士郎は、そのまままっすぐ戻らずに知念寺界隈へと立ち寄ることにする。
いんちき札のことがちょいと気になったもので、巌然和尚に見てもらおうと考えた。ついでにおみつの茶屋で団子を買って、銅鑼への差し入れにするつもり。
門前通りへと入ったところで、藤士郎ははたと立ち止まる。
いつもより人出が多い。今日は市の日でもなければ祭でもなく、なんら法事がある日でもない。なのにやたらと盛況にて「はて?」
かとおもえば奥の方がなにやら騒がしい。
行き交う参拝客らの間で、ひょこひょこ出たり消えたりしているのは、つんつるてんの入道頭だ。
ごつい坊主たちが人混みをかき分けては「くそ、見失った」「あいつ、どこへ行った?」「逃げ足のはやい野郎だ」「あの罰当たりめがっ」なんぞといきり立っている。
騒いでいたのは知念寺の者たちであった。しきりにきょろきょろ、息せき切っては誰かを探しているらしい。
その中に親しい者も混じっていたもので、藤士郎は声をかけた。
「堂傑さん、堂傑さん、これはいったい何事だい? みんなえらく気が立っているみたいだけど」
堂傑は人間ではない。年経た鼬(いたち)の妖である。だがいろいろあって、いまでは巌然和尚に帰依して仏弟子となった。初めて会った頃は、藤士郎とさして変わらぬひょろひょろであった体も、寺での厳しい修業により、すっかりぶ厚くなっている。
「ああ、藤士郎さん。これはとんだお見苦しいところを。いえね、じつは……」
話を聞けば、例のお札と丸薬を扱う薬売りがここにもあらわれたんだとか。
しかもよりにもよって境内でいんちき商いをしたんだそう。
ここ知念寺界隈では、きちんと届け出さえすれば誰でも自由に商いをすることが許されている。所場代なんぞも求められないし、あがりを寄越せなんぞも言われないばかりか、何かあれば歩く仁王像との異名を持つ巌然和尚がみずから乗り出して、守ってくれる。
そんなありがたい場所で、よりにもよって悪さをするだなんて。
憤った寺の者らが、すぐさまとっちめてやろうとしての、この騒ぎであった。
「さっき銀花堂の若だんなに聞いたのですけど、薬の方がけっこう問題になっているって。でもこの様子だと、ひょっとしてお札の方も?」
「ええ、じつはそうなんですよ、藤士郎さん。それっぽい札だけにしておけばよかったのに、どうしてわざわざ贋印なんて押すのかなぁ。江戸の大きな寺には、若い頃に叡山で修行したという方も大勢いるんですよ。その方々がたいそうお怒りのようでして」
「あちゃあ、それはなんともはや」
薬種問屋の寄合も怖いが、寺社仏閣の寄合もおっかない。
いんちき商売をしている者どもは、適当に売りさばいて、そうそうにとんずらすれば良かったのだ。
なのにおもいのほかに売れ行きが良かったもので、つい欲が出たのであろう。
しかも大胆不敵にも寺社の軒先にのこのこあらわれたことからして、どうせ尻尾を掴まれることはないだろうと、高(たか)を括(くく)っている節がある。
その油断が命取りになるというのに……。
◇
堂傑と別れた藤士郎は、馴染みの茶屋へと。
「やぁ、おみつちゃん」
「あっ、いらっしゃいませ藤士郎さま」
元気よく働く看板娘の笑顔に、藤士郎は眩しそうに目を細める。
「今日はまた人出が多いねえ。何かあったっけ?」
「いえ、とくには……。たぶんこの人出は近頃流行っている風邪のせいじゃないかしら」
困ったときの神頼み、病が流行れば神仏に縋りたくなるのが人情というもの。
ゆえに大通りからは人が減り、その減った分の一部がこちらに流れてきているということ。風が吹けば桶屋が儲かるのたとえにて、そのお零れのおかげで茶屋も大忙しという次第。
「なるほど、そういうことか」独りごちた藤士郎は「忙しいところ悪いけど、団子を十ばかり包んでおくれ」と頼む。
注文した品がくるまでの間、邪魔にならないように脇に寄っていた藤士郎であったが、不意に鼻先をひくひくさせた。
お茶や団子の甘い香りに混じって、かすかに漂ってきたのは覚えのある匂い。
それはあの贋薬と同じ匂いであった。
てっきり自分の懐にある薬包からこぼれたのかと、たしかめてみるもそうではなかった。
だとすれば、いったい……。
藤士郎はそれとなく目線だけを動かし、匂いのもとを辿る。
すると行きついた先は茶屋の奥の奥、薄暗い隅っこにて背を丸めて茶をすすっている男の姿があった。
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