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其の三百五十四 果たし状
しおりを挟む長柄鋏にて襲いかかってきた植木職人を撃退した藤士郎であったが、町中での刃傷沙汰を起こしたもので、当然ながら騒ぎになった。
山向こうでの宿場町での火事の件もある。
嘉谷藩にとりなしてもらえれば、誤解は解けるのだろうが、いまは先を急ぐ身である。役人に捕まると十中八九、面倒なことになる。だから藤士郎らは、急ぎ出立するほかなかった。
二人と一匹は無言のまま、ひたすら足を動かし続ける。
ときおり背後を気にするも、さいわいなことに追捕はあらわれない。
これは想像だが、突然のことに町の役人らが対応できていないのであろう。穏やかそうな雰囲気の町であった。江戸とは違って殺しなんぞはめったに起こらないのかもしれない。
それにあの植木職人は刺客……自分の正体を示すような物は所持していないはず。
殺された者がどこの誰かもわからず、斬ったという侍も余所者にてすでに消えている。あっという間の出来事にて、経緯も動機も不明だ。
かけつけた役人たちにしてみれば、首を傾げることばかりのはず。
左馬之助ぐらい頭が回って動ける者がいるのならばともかく、並の役人は腰が重い。何をするにもとろとろしている。
おかげで、藤士郎たちはこうして距離と時間を稼げるのだから、ありがたい話だ。
◇
いよいよ藩境が近づいており、目指す嘉谷藩までは小高い丘と山一つのところにまでやってきた。
手前の茶屋に立ち寄り、休憩がてら腹拵えをする一行。
茶屋の老婆の話では、山越えといっても隧道(すいどう)があるとのこと。その隧道が掘られるまでは険しい山道を越えねばならなかったから、それは難儀したという。でもいまは隧道のおかげで女子どもで楽に抜けられるという。
またぞろ山越えかと内心で辟易していた藤士郎は、これをとても喜んだ。
疲労の色が濃い長七郎も、ほっとしている。
銅鑼はひたすらよもぎ団子をむしゃむしゃ喰らっている。でっぷり猫は、それこそ茶屋の団子をすべて食べ尽くすような勢いにて、よほど甘味に飢えていたようだ。
とはいえさすがに心配になった藤士郎が「銅鑼、お腹を壊しても知らないよ」と注意するも、返ってきたのは「うるせえ、団子でも喰わねばやってられん」との言葉であった。
旅先で旨い物でもたかるつもりだったのだろうが、それどころではない。すっかり当てがはずれた。銅鑼の機嫌はあまりよくない。
やれやれと藤士郎が肩をすくめていたら、洗い物をしに裏へと引っ込んでいた茶屋の老婆がふたたび顔を出すも、その手には文が握られていた。
「これ、お侍さんにって」
茶屋の裏で老婆が皿を洗っていたら、たったいま男から渡されたという。
文には『九坂藤士郎殿へ』と書かれている。
こちらの正体を知っての接触、だからとて味方ではない。なぜなら嘉谷藩の関係者ならば藤士郎ではなくて、長七郎に宛てて文を出すはずだからだ。
とたんに藤士郎たちの間に緊張が走った。
ちらりと見れば銅鑼は小さく首を振る。怪しい気配は何も感じなかったということ。それは藤士郎も同じ。おそらくだが文を届けたのは、雇われただけの無関係の者なのだろう。こちらに対してなんら含むところがないからこそ、警戒の網をたやすくすり抜けるからやっかいだ。
顔を見合わせてから、意を決し藤士郎は文に目を通すも、すぐに困惑することになった。
なぜならつらつら書かれてあったのは、まるで恋文のような内容であったからだ。
自分ではまだ綴って送ったことはないものの、恋文の代筆ならば藤士郎は内職で何度かやったことがある。だからある程度は耐性があったのだが、この文の内容はそれを悠々と越えるほどの甘さであった。
あまりのくどさに、読んでいるだけで胸焼けがしそう。
いっしょになって文を覗き込んでいた長七郎は赤面し、銅鑼はへちゃむくれの顔をさらに歪めて「なんじゃこら?」とぶつぶつ。
そんな甘い戯言は文の終盤まで続くも、最後にはこう結ばれてあった。
『今宵亥の刻、夫婦松の丘にて、ふたりきりにてお会いしたく候。紅夜佗』
文は紅夜佗からの果たし状であった。
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