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932 しつじ

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 黒いリムジンが横づけされて、運転席から姿を見せたのは車とおそろいの色をした燕尾服を着た長身の男性。
 後部座席のドアを開き、シートに座っていたご婦人を恭しくエスコートして車外へと導く。
 場所はミヨちゃんたちが下校中に通りかかる、とある一軒家の前。
 こじゃれたお宅にて隠れ家的カフェとかをしていてもおかしくない雰囲気のお宅。じつは革製品の工房を兼ねている家。
 腕がよくていい品を造っているとのウワサはミヨちゃんにも届いていたが、さりとて小学二年生には縁のない話。職人の手による革製品は素晴らしいけど高いのだ。
 よって幼女たちはとくに気にすることもなく素通りしていた。
 どうやらあの超お金持ちっぽいご婦人は、工房に注文すべくわざわざ足を運んだようである。
 それにしても……。

「あれってしつじだよねえ? 少女マンガではわりと定番なんだけど、実物ははじめて見たよ」

 執事。
 それは身分や地位のある人のそばにて仕える者のこと。
 公私に渡って主人を支えるがゆえに、有能さはおしてはかるべし。

 なんちゃらカフェとかにいるコスプレのニセモノじゃない。
 本物を目にしてミヨちゃんは大興奮。

「ふーむ、いかにも気配り上手のデキる人っぽい」

 とくに根拠はないが、なんとなくそう断じたミヨちゃん。
 実際のところ、その勘は当たっているっぽい。
 リムジンを停車するときの静かさは、たしかな運転技術の証。滑らかにすーっと止まったもので無粋なブレーキ音とかは皆無であった。
 ドアを開けて姿を見せることにはじまる一連の仕草もまたよどみなく、一朝一夕ではとても身につかないもの。あくまで自然にさりげなく、そしてスマートに。
 似たようなサービスはタクシーのおっちゃんもしてくれるけど、あっちのはなんだかドタドタしておりたどたどしい。ありがたいけどちょっと野暮ったい。

「……というか『お手を』とかナチュラルに手を差し出せて、それを当たり前のように受けられるあの女の人もすごい」

 立派な執事には、それにふさわしい主人がいる。
 得難い主人だからこそ、優れた執事がそばにはべる。
 どちらかが欠けたら意味がない。ステキな光景がとたんに滑稽なものに成り下がってしまう。
 主人と執事は二人で一組のペアなのだ。

「もっともそんなスゴイしつじなのに、主人のお嬢さまと恋仲になるのが少女マンガなんだよねえ。物語として読んでいる分にはドキドキできるけど、実際にやったら主人に手をつけることになるから、しつじ失格になっちゃうよね。よくよく考えたら、あれってけっこうヒドイかも」

 ファンタジーはファンタジーだからこそ楽しめる。
 そいつを現実に落とし込んだとき、だいたいロクなことにならない。
 壁ドンとかも、いくらイケメン相手でもたぶん怖いだけのような気がする。
 居丈高にオレさま節とか炸裂されたら、ふつうに嫌いになりそうだし。

「うーん、しつじかぁ。でもやっぱりちょっとあこがれるよねえ」

 ミヨちゃんがしみじみそんな言葉を口にしたところで、おもむろにヒニクちゃんがぼそり。

「本物にもいろいろいるけど」

 某国の某王室に長年仕えていたとある執事。
 手記という名の暴露本を執筆してボロもうけ。
 キツイわりに報酬が低いみたい。あくまで栄誉だけなんだとか。
 ……なんぞと、コヒニクミコは考えている。


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