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037 三つ目のお仕事、ピアニストのタマゴ、鈴の人
しおりを挟むわたしの家の近所にある下谷総合病院は大きくて立派だ。
もとは小さな町医者だったのが、先々代、先代とやり手続きにてあれよあれよと、いまの規模にまで成長した。近在の大学病院とも提携しており、たくさんの診療科を持ち、院内はモデルルームのようにキレイで、お医者さまをはじめとした看護師やスタッフたちはみな親切で優秀。
建物一階フロアには黒く艶めいたぴかぴかのグランドピアノが置かれており、不定期ながらも演奏会が催されている。敷地内にはカフェやら温室、屋上には散歩やリハビリに最適な庭園まである。
地元の人間からは「下谷さん」と呼ばれ親しまれている病院。救急車で運ばれることになれば、たいていの患者が行先をここに指定するほどの人気ぶり。
わたしも小さい頃からちょいちょい下谷さんにはお世話になっている。
そんな下谷さんに通院しているのが、三つ目にして最後のお仕事に関係している人物。
彼女の姿は温室にあった。
◇
どこかで見たことがあるようなものから、まるで知らないものまで。さまざまな草木にて埋め尽くされた温室内はちょっとしたジャングルを彷彿とさせる。
ここは年中一定の温度に保たれているから、わりと冬暖かく夏そこそこ涼しい。
そのわりに閑散としているのは、本館一階から長い渡り廊下を歩いてくる必要があるのと、この場に充ちている植物の濃密な青臭さのせい。とくにこれから本格的な夏を迎えようとするいまの時期はいっとうキツイ。
そんな温室の奥にはレンガでこしらえた水槽のような小池がある。
抹茶色をした水面には切れ込みの入った丸い葉がたくさん浮かんでいる。
チリン。
鈴が鳴った。とても澄んだ音色。
一人、小池のほとりにてたたずんでいた女性がふり返る。ひょうしに彼女が持つ白い杖に紐で結ばれた鈴がかすかにゆれた。
「どなた?」
こちらから接触するつもりであったのに相手からいきなり声をかけられて、わたしはしどろもどろ。
歳の頃は二十歳前半といったところ。背の中ほどまでのびた栗色の髪は軽く波うっている。木漏れ日を受けてきらめく髪がふわふわしており、とても柔らかそう。
いかにも良家のお嬢さま然としている色白細面のお姉さん。クリーム色のカーディガンを羽織っている姿がとても上品だ。
けれども、どうしてもわたしの意識は彼女の目元へと向かってしまう。
薄い色味のサングラスが放つ違和感。整った容姿の中であきらかに浮いている。
事前に生駒から彼女が目を傷めているという話は聞いていたけど、いざ前にしたらどう接していいのかわからない。ヘタに触れないのが正解なのか、それとも……。
そんなこちらの戸惑いを見透かされたらしい。
彼女から先に「ごめんなさいね。ご覧の通り目が不自由なものだから」と気をつかわれて、わたしは赤面する。あまりの情けなさにそばの小池にザブンと頭から飛び込みたいぐらいであった。
このお姉さんの名前は白石沙耶(しらいしさや)。
ピアニストを目指して音大に通っていたのだけれども、事故に巻き込まれて目が見えなくなってしまい、現在は療養のために休学中。
そんな沙耶さんが、病院の屋上にある庭園の片隅にて祀られてある小さな稲荷の社にお願いしたのは、自分の目が良くなること……。
ではなくて「鈴の人に会いたい」というものであった。
なんでも彼女が失意のどん底にいたとき、たまさかこの温室で出会ったその男性にずいぶんと励まされ救われたんだとか。
イラ立ち自暴自棄になりかけていた沙耶さん。彼女の手をとり、小池に浮かぶ葉っぱに触れさせながら彼は「これは睡蓮だよ」と教え、こう言葉を続けた。
「こいつはね、泥水が濃いほどに大輪の花を咲かせるんだ」
以来、ときおり会う機会を得て知己となった二人。杖につけてある鈴もその人からもらった品にて、沙耶さんはこの音色にどれだけ勇気をもらったことか。
いつしか沙耶さんは彼と会えるのを楽しみに通院するようになっていた。
だというのに、ある日を境にして鈴の人はふつりと彼女の前に姿をあらわさなくなってしまった。
もしかして嫌われてしまったのか、あるいは彼の身に何かあったのかも。あぁ、病気とかだったらどうしよう……。つのるは不安ばかり。
だというのに自分ではどうしようもない。
探そうにも彼の名前も、どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも、連絡先もわからないのだから。
氷が少しずつ溶けていくような、心と心がそっと触れ合いやさしく混ざり合うような二人の交流において、そんなものはどうでもよかったのである。
◇
この度、稲荷総会にて受理された白石沙耶の願い。「鈴の人に会いたい」
だがしかし、やっかいなのが捜す相手の正体が皆目わからないということ。
情報があまりにも少なすぎるのだ。これではどうしようもない。
そこで当事者から直接話を聞こうと、わたしと生駒はこうしてやってきたわけ。
それとなくこの場所のことやら、睡蓮のこと、あとは鈴の音なんぞをさりげに褒めつつ、どうにか聞き出せたことといったら、求める相手が沙耶さんと同じ鈴を持っていることだけであった。
話を聞き終えて「もう少しここにいる」と健気な沙耶さんを残し、わたしたちは温室をあとにする。
本館へと通じる渡り廊下をトボトボ歩くわたしの足どりは重い。
ぶっちゃけ鈴を身につけている人なんて巷にあふれている。小さい子からお年寄りまで忘れ物やら落とし物防止のために、家のカギとか携帯電話にストラップがわりにぶら下げている。わたしも自転車のカギに小さな鈴をつけてあるし。
「文字通り、鈴の人ってわけか」
今回のお仕事、あまりのハードルの高さにわたしは大きなタメ息ひとつ。
しかし生駒は「あの鈴、もしかしたら」とぶつぶつ思案顔。
なにやら思い当たるふしでもあるのだろうか。髪留めに化けている彼女にたずねようとしたところで、わたしはあわてて口をつぐむ。
廊下の向こうから白衣姿が近づいてくるのが見えたから。
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