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其の四十四 そして狐はいなくなった
しおりを挟む包丁を持った暴漢に襲われた旦那さま。
さいわいなことに命には別状なかったものの、おもいのほかに深い傷を負い、しばらく右腕を使えない状況となる。
急報を告げに店へと駆け込んで来た者より、旦那さまが怪我をしたと知らされたとき、女はおもわず家を飛びだそうとした。
しかしそれは店の者らによって止められた。彼らは知っていたのだ。現在、街の中に流れる不穏な空気や噂のことを……。そんなところに当人がのこのこ出ていけば、きっとろくなことにならない。
「いまはいけません。奥さまにまでもしものことがありましたら、旦那さまがどれほど心をお痛めになりますことか。だからどうかどうか、ここはこらえてください」
頼りとする主人が傷つけられ、ただでさえみな動揺しているというのに、自分がとり乱してさらなる迷惑をかけるわけにはいかない。
だから女はぐっと我慢して、その助言に従うしかなかった。
◇
はや陽が暮れようとしている。
旦那さまはなかなか帰ってこない。
治療に手間取っているのであろうか。
やきもきしながら待つ女。
そこへようやく報せが届いたとおもったら、それは旦那さまからではなかった。
遣いは影山家からのもの。
訃報であった。
昨夜の空襲で影山秀子が亡くなった。
工場での監督業務中に焼夷弾の直撃を喰らったそうな。
強硬に本土決戦を唱える陸軍より大量の保存食の注文が入り、それをさばくためにここのところ昼夜を問わず、工場は稼働していたそう。
空襲警報が聞こえたので、すぐさま作業を停止して敷地内に設けた防空壕へと避難するようにと、従業員らを誘導しているさなか、いきなり天井を突き抜けて落ちてきた爆弾が彼女の身を斬り裂き、たちまち炎に包まれたという。
影山秀子が死んだという報せを受けたとき。
女は驚きや悲しみよりも、ぼんやりこんなことを考えていた。
「あぁ、ついに秀子さんの口から真相を聞くことはかなわなかったか……」
思ったことがつい独り言となって女の口より零れ出る。
自分で発した声を耳にした瞬間、はっとして、同時にぞっとなり肌が粟立つ。悪寒に襲われ血の気がひく。
人が死んだ。
それもかつて友人であった者がだ。
だというのにその死をとくに悼むでもなし。
平然とそんなことを考えていた己の冷酷さに、女は心底震える。とたんに自分のことがよくわからなくなった。自分はこんなにも冷たい人間であっただろうか。ここでの暮らしがそうさせたのか。それとも元からそういう性根なのだろうか。
わからない。
女には自分という人間がわからない。
◇
旦那さまが戻ったのはとっぷり陽が暮れてから。
右腕を包帯でぐるぐる巻きにして、肩から吊るした状態での帰宅。
傷の範囲が広く、縫うのにおもいのほか時間がかかったとのこと。
筋は切れておらず、しばらく養生すれば、いずれ元のように動くとの診断結果をきいて、女はほっと胸を撫で下ろす。
しかしそんな女の顔をしげしげと眺め、旦那さまは言った。
「私が留守の間になんぞありましたか?」
怪我をして大変なのだから、余計なことは耳に入れない方がいいだろうと、極力明るくふるまっていた女であったが、旦那さまの目は誤魔化せない。
だから追求されるままに「じつは……」と影山秀子の訃報について教えると、旦那さまはやや沈痛な面持ちにて「そうか、彼女も逝ったのか」
それきり黙り込むふたり。
どちらもあのことについては口にしなかった。なんとなく故人を辱めるようにて、どうにも気がとがめたからである。
いまさら真相が明らかにされたとて、どうしようもない。だからいまはただ影山秀子の冥福を祈るばかり。
そしてついに運命の日が訪れる。
こっくりさんが最初の客の来訪を告げた八月六日。
かつて経験したことがないほどの破壊の鉄槌が、広島の地に振り下ろされた。
遠く離れた地からでも視認できるほどにも超大なキノコ雲、すべてを薙ぎ払う暴風、死者も生者も鞭打つかのように降る黒い雨……。
たったひとつの爆弾が何もかも吹き飛ばしたという報に、日本中が震撼した。
だが破壊の鉄槌は一度では終わらない。
三日後の八月九日、今度は長崎の地が地獄の業火に包まれる。
圧倒的な破壊の力。これを前にして軍人さんがやたらと唱えていた、大和魂や愛国心とかいうものは路傍の塵芥とかわらず。
それをまざまざと見せつけられ、思い知らされ、呆然となった状態にて迎えた八月十五日。
ラジオより流れる玉音放送をもって、長らく続いた戦争はようやく終わった。
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