ふしぎ京都クロスライン―壬生の迷子と金平糖―

馳月基矢

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二.学者とジャスミンティー

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***

「沖田総司を拾ったそうですね」
 苦笑交じりに、弦岡先生は言った。わたしは驚いて手を止めた。
 この部屋では雑談などめったにない。柔らかで丁寧な物腰の弦岡先生は、学問上の質問にはもちろん答えてくれるが、おしゃべりが本当に苦手らしい。

 そんな弦岡先生が、沖田の件を話題にした。何かよほど引っ掛かることでもあるのだろうか。
 わたしは言葉を選びつつ応じた。こんなとき、にぎやかにおしゃべりを展開できる話術があればいいのに。

「壬生で、拾ってしまいました。誰からお聞きになったんですか?」
「巡野くんからです。先日、文学部の書庫で会ったときに。彼は浜北さんの体調を心配していましたよ。無理はしていませんか?」

 大丈夫です、と反射的に返そうとして、やめた。わたしがお古の和服を身に着けている時点で、弦岡先生は、わたしの具合があまりよくないことを察している。
 わたしは正直に答えた。

「巡野の言うとおりです。ちょっと厄介な形で契約を結んでしまったので、紐付けが強すぎて。病人の沖田に栄励気を取られて、エレルギーの症状が出やすくなっています。胃腸がよくないし、肌も少しやられてしまいました」

「体調がすぐれないときは、私の手伝いを休んでもらってかまいませんよ。そう伝えるようにと、巡野くんにも言ったのですが」
「聞いてません。巡野はここが好きだから黙ってたんでしょう。どちらにせよ、お休みをいただくほどの体調不良でもありません」
「そうですか」

「あの……巡野は文学部のほうにも行っているんですね」
「たびたび会いますよ。文学部の建物を中心に、本部キャンパスのあちこちで目撃されているようです。同僚の先生がたもそうおっしゃっていました」

 わたしは少し驚いた。
「ほかの先生がたも巡野をご存じなんですか?」
 弦岡先生はうなずいた。
「彼は有名でしたから。我々くらいの世代で、文学部の歴史系の研究室に所属していれば、一度は彼の噂を耳にしたことがあるはずです。当時はまだ陳列館がロの字型だったのでね」

「そうか。巡野、陳列館をぐるぐる歩き回っていたんですね」
「私は彼を見掛けたこともあります。掃除のおばさんの中に霊視のできるかたがいらっしゃって、教えてくれたのですよ。『ほら、今、学士さんがお回りになってはるわ』と」

 弦岡先生はかすかな声を立てて笑った。学生時代を思い返すまなざしは、楽しそうにやわらいでいる。
 胸にチクリと痛みが走った。そんなふうに語れるような学生時代を、わたしは送っていない。
 わたしが手元に目を落とすと、弦岡先生も作業に戻った。

 どこかで鳥が鳴く声が聞こえる。チィチィと高い声。山育ちの切石なら、何という鳥なのか、すぐに教えてくれる。聞いても、わたしはいつもすぐに忘れてしまうけれど。

 弦岡先生の研究室は集賢閣の一階にある。開いた扉からは、廊下越しに中庭が見える。モミジかカエデか知らないが、葉を赤く染めた木が風にそよいでいる。
 研究室は天井が高い。壁一面に本棚がしつらえられている。本は四部分類にのっとってキッチリ整理されているようだ。

 大判の書籍や地図、拓本や巻物の類は、部屋の中ほどに置かれたラックに押し込まれている。もとは術で圧縮してあったものを解いてはチェックしているところだから、どうしても、ぎゅうぎゅうにならざるを得ない。

 わたしと弦岡先生は、ラックの横に出した大机の上で作業している。
 今日、圧縮を解いた包みからは、大量の写真が出てきた。沙漠の地下都市遺跡で発見された巨大な石碑の写真だ。文字が鮮明に写るよう、細切れに撮影したらしい。

 このデータの圧縮を担当した術師は、おおざっぱさんのほうだ。写真を並べる順番がいい加減。
 発掘調査に同行した術師は二人いたそうで、もう一人のほうはいくらかマシな仕事ぶりだ。今回の資料はハズレというわけ。おかげで、わたしと弦岡先生はジグソーパズルに手こずっている。

 弦岡先生は独り言をつぶやいた。
「ウイグル文字と西夏文字と漢字のトライリンガルですね。モンゴル文字は出てこない。年号がほしいところです。どういう文脈で建てられた石碑なのか」

 三つの言語が入り交じる碑文の写真の山を、まずは言語ごとに分類する。この作業が終わったら、漢字で書かれた文章をつなぎ合わせる予定だ。
 漢字で書かれた古文、つまり漢文ならば、弦岡先生はさっと黙読するだけで意味を取ることができる。漢文で得た情報を頼りに、ウイグル語と西夏語のジグソーパズルを完成させる。

 遺跡から出土する古ウイグル語と西夏語は、弦岡先生も自在には解読できない。
 理解できる単語がぽつぽつとある。例えば「王」「将軍」「官軍」「人頭税」「来た」「軍を率いた」「勝利した」「義務である」。それらを手掛かりにして、文意が取れる箇所がある。

 漢文と照らし合わせると、この謎の単語はこの漢字に該当するのではないか、と見えてくることがある。これは否定文だから漢文ではこのへんのはずだ、と当たりが付くことがある。

 そんなふうにして、石碑の資料を一つひとつデータベース化している。資料は、現在作業中のものと同じように写真もあれば、拓本もある。総数は弦岡先生自身、把握していないらしい。とにかく膨大な量だそうだ。

 いつ終わるんだろうか。
 わたしはため息をついてしまった。
 ふう、と、弦岡先生も息をついた。いや、静かに笑ったのかもしれない。

「そろそろ時間ですね。お疲れさまです」
 わたしは驚いて懐中時計を確かめた。十四時五十八分。
「もう二時間経ってたんですね」
 集中していたせいか、時間が過ぎるのが速かった。しかし、作業は中途半端だ。このまま放り出すのは気持ちが悪い。

 写真の束を手放さないわたしの前に、弦岡先生は箱を置いた。
「では、写真をこちらに。今日でおよそ半分終わりました。来週も同じ作業をしましょう。漢文の組み立てと読解は再来週から。正月休みの前に読解が終われば御の字です」

「でも、それだと一つの碑文に時間をかけすぎることになりませんか? わたし、今日、まだ作業できます。あ、えっと……先生のご都合がよろしければ、ですけど」

 弦岡先生はかすかに首をかしげた。笑みは柔らかかった。
「私も時間はありますが、続きは来週にしましょう。一度に欲張るのは、あまり得策ではありません」

 わたしは目を伏せた。
 大机の上には、四つの山と一つの束がある。漢語、古ウイグル語、西夏語の山と、判読困難な文字および石碑の余白部分の山。

「すみません。わたし、作業が遅くて」
「そうですか?」
「物覚えがよくないって、自分でも思います。古ウイグル語も西夏語も、単語がなかなか覚えられないんです。単純作業に没頭しているだけで、学問的な部分には集中できてないかもしれません」

「文字表に頼ることなく、漢字とウイグル文字と西夏文字を見分けられるようになりましたね。それは、きちんと覚えている証拠です。初めは、文字の上下左右さえわからなかったでしょう。浜北さんは学んでいますよ」

 わたしはかぶりを振った。
「こんなんじゃ足りない……こんなつもりじゃなかったんです。わたし、大学に入るまでは、自分はもっと頭のいい人間だと思い込んでました。でも、本当は全然足りてなかった。足りてないんです」

 弦岡先生は、そっと笑うようなやり方で息をついた。
「お茶を淹れましょうか。休憩して、少しおしゃべりしましょう。浜北さんのご都合がよろしければ、ですけど」
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