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四 斎藤一之章:My heart

誠義(五)

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 明け方ごろだろう。オレは刀を抱いて壁に背を預けて、うとうとしていた。夢と現の狭間、どこか遠くで鶏が鳴くのを聞いた。
 平穏は突如、破られた。
 どんと大きな音がした。不寝番の隊士三人が如来堂に転がり込んできた。
「起きてくれ! 敵襲だ、薩摩の炎の化け物だ!」
 埃くさい講堂で寝ていた全員が跳ね起きた。次の瞬間、また、どんと大きな音がして建物が揺れた。
「伊地知か! どっちの方角だ?」
「南です、斎藤さん。霧で何も見えない向こうから、いきなり炎が飛んできたんです。土塁ごとぶち抜くつもりなんでしょう」
「伊地知のほかには?」
「わかりません。霧が濃くて、視界がまったく」
 左手の甲の環が疼《うず》いた。精神を研ぎ澄ます。目を閉じる。耳でも鼻でもないどこかで音を嗅ぎ取る。
「少ないな。二十かそこらだ」
 とはいえ、こちらは十三人。しかも、そのうち三人は、北の見張りに出たまま戻っていない。
 どん、と音がした。先の二回よりはるかに大きい。煙の匂いが漂《ただよ》い出す。土塁をやられて、敷地内の木が燃え始めたらしい。
 如来堂を捨てよう。霧にまぎれて逃げる。行き先は、城西の佐川さんと軍を合すればいい。
 隠れ処を捨てる心づもりは初めからできていた。この城跡は、刀や鉄砲はともかく、大砲で攻撃されたら防衛のしようもない。土塁は低いし、そもそも川沿いの低地に建っている。ちょっとした高台に登って見下ろせば、丸裸だ。
 外へ、とオレは顎《あご》をしゃくった。うなずいた隊士が講堂の戸を開け放った。
 炎が噴き込んだ。隊士が炎に呑まれる。絶叫。またたく間に火だるまになった隊士がのたうち回る。火を消してやる術はない。
 オレは刀を抜いて、燃え盛る人影の首を刎《は》ねた。縁へ走り、雨戸を蹴り開ける。外へ飛び出す。隊士たちが続く。
「北へ向かえ! 先に行け!」
「さ、斎藤さんは」
「オレは殿《しんがり》だ」
 葉を落とした古木が枝から枝へ炎を伝わせる。油でも撒《ま》いたかのような燃え方だ。伊地知の念が込められているのか。
 環が騒ぐ。赤い環を狩れと、オレを急き立てる。
 立ち込めていたはずの霧は炎に炙《あぶ》られて消え失せた。熱、煙、光。どんと音がして、如来堂が傾《かし》ぐ。燃え上がる。
 火の粉を浴びて飛び出してきた最後の一人に、北への退避を命じる。オレは如来堂から離れながらも、業《ごう》火《か》を睨み続ける。火勢など物ともせずに、伊地知が姿を見せるに違いない。
 銃声が聞こえた。
 オレは、はっとして振り返った。再び銃声。悲鳴と怒号。銃声、銃声、銃声。失策を知る。敵は濃霧の危険を押して、城跡の敷地に入り込んでいたらしい。
 どうする? 一瞬迷った。そして北へ、銃声の方角へ駆け出した。
 木立が途切れるところで隊士が五人、倒れている。一人、手前の木陰に腕を押さえてうずくまっている。無傷は二人と、オレだけだ。
「斎藤さん、この先は無理です。顔がわかるほど近くに土佐の連中がいます。十五か二十か、その程度の人数ですが」
「土佐? 見知った顔があったか?」
「指揮を執っているのは板垣退助だと思います」
 伊地知だけじゃなく、板垣もいるのか。オレは舌打ちした。
「完全に抜かったな。オレが馬鹿だった」
 毎夜、宿営を奇襲するオレたちの正体を、敵が勘付いたんだろう。追手は必ず撒いてから隠れ処に戻っているつもりだったが、甘かったらしい。あるいは、この付近の農民が敵に告げた見込みもある。
 部下に前進を命じる声が聞こえた。間違いない、板垣の声だ。蒼い環がちりちりと痛む。オレは体を低くした。
 木立の向こうに、鉄砲を構えた敵が並んだ。こちらの位置に気付いてはいないようだが、いきなり。
「撃て!」
 鉄砲が一斉に火を噴いた。目と鼻の先の木の枝が吹き飛んだ。板垣の号令で、敵は弾を込め直す。そしてまた斉射。オレたちが威嚇に耐え兼ねて飛び出すのを誘っているんだろう。
 隊士の一人がささやいた。
「斎藤さん、手前が囮《おとり》になるので、脱出してください」
「囮?」
「手前はどうも逃げ切れそうになくて」
 脂汗を浮かべて苦笑して、隊士は自分の脚を指差した。袴《はかま》が赤く濡れている。
「今、撃たれたのか?」
「痛いもんですね。叫んじまいそうですよ。やるなら一思いにやってくれってんだ」
「馬鹿、何を言ってる」
「斎藤さん、脱出してください。手前は覚悟ができてるんで。いや、手前だけじゃなくて、斎藤さんに付いて会津に戻った隊士は全員ですよ。辞世を懐《ふところ》に入れて、いつでも死ねる支《し》度《たく》は整ってた。でもね、斎藤さんにはまだ死んでほしくないんです」
 愕然とした。腹の底が冷えていく。
「死ぬためにオレに付いてきたってのか?」
「逃げたくはなかった。近々死ぬってわかってる。でも、怖いのが長く続くのは嫌だ。ねえ、斎藤さん、手前は今、生きてきた中でいちばん怖い思いをしています。怖いんです、死ぬのが怖い。だから早く死にたい。死んだらもう、死ぬことは怖くないでしょう?」
「やめろ。あんたも連れて逃げる」
 隊士は笑った。えくぼのできる、幼いと言えるほどに若い顔だった。不意を突かれたオレは、だから、止めることができなかった。
 叫びながら木の陰から飛び出した隊士を、銃口が一斉に狙った。十数の鉄砲が鳴った。それを背に聞く。オレは反射的に駆け出していた。敵の気配のないほうへ、ただ逃げる。
 悲鳴が立て続けに上がった。振り返って、立ち尽くした。
 囮を言い出した者だけじゃなかった。あの場にいて命のあった隊士全員が、刀を抜いて決死の反撃を仕掛けていた。
「馬鹿野郎……」
 殺し合いの場に身を投じれば、いつ死んでもおかしくない。新撰組は人を殺しすぎた。いつ滅ぼされても文句は言えない。
 でも、死んでもいい覚悟で戦うことと自ら死に急ぐことは、まったく違うはずだ。
 会津で戦って生き延びるのは望みが薄いと、オレだってわかっている。だからこそ、一日でも一刻でも長く生きられるように、オレに付いてきた隊士を生かしてやれるように、必死で戦う覚悟だった。
 無駄だったのか? あんたたちは死に場所としてオレを選んだんだろう? オレがそんなに死にたがりに見えたのか?
 風が渦巻いた。熱波が流れてきた。木立は燃え始めている。
 気配がゆっくりと近付いてきた。何者かと問うまでもない。逆立つ赤い髪の男が炎を背にしてそこにいる。
「見付けたど、斎藤一! 新撰組は会津ば離れたどん、おはんの姿ば見たち言う藩士のおってな、探ってみたらどげんじゃ、ほんなこつ斎藤のおった」
 伊地知は高らかに笑った。
 オレは刀の鍔《つば》をむしり取った。妖刀が声なき声で唸《うな》る。
 伊地知が大声で呼ばわった。
「板垣さあ、こっちじゃ!」
 哄笑が返事だった。
「そう大声を出さんでも聞こえゆう。環断の刀の鍔を外せば、わしの刀も共鳴するきのう。斎藤一、久しぶりじゃ。会いたかったぜよ」
 板垣が木立の陰から姿を現した。刀は鞘に収まったままで、手には拳銃がある。六発か七発、連射できる型だ。銃口は無論、オレに向けられている。
 オレは舌打ちした。
「幹部が二人掛かりでお出ましか。こんな古寺を襲うだけなら、大砲の数発も打ち込むだけで事足りるだろうに」
 伊地知が手のひらを揺らめかせた。その手に招かれたように、何もない宙に炎が生じる。
「今日は特別じゃ。おはん達《どん》ば確実に潰さんばいかん。城壁の外には三百の兵ば置いちょっどん、やはり、こん目で事実ば確かめんばち思うた。後顧は根絶やしにすべきじゃっでな」
「後顧? ほかの部隊と連動しているということか?」
「聞きたかか? さて、どげんする、板垣さあ? おしゃべりくらい許すけ?」
 板垣は無造作に歩く。いや、無造作に見えて計算ずくだ。オレが伊地知と板垣の二人を同時に視界に収められないように回り込もうとしている。
 オレも動く。板垣がオレを撃てば伊地知に当たり得る位置へと。
 板垣がオレの意図を読んだらしく、にたりと笑った。
「根性の据わっちゅう男じゃ。部下は全滅、自分も絶体絶命、城壁の外には三百の官軍兵が控えちゅう。それでも抗《あらが》う意欲があるがか。新撰組の古参兵を根こそぎ殺すがは惜しいっちゅう声も納得ぜよ」
「板垣さあ、おいは、そろそろ新撰組も会津も生け捕りにすっとが上策ち思う。焼き尽くしてもよかどん、滅ぼすより従わすっほうが、こいからの時代の役に立つじゃろう」
「まっこと、おんしの言うとおりじゃ。これからわしらは国を富ませにゃあならん。人手は多ければ多いほうが良《え》い。生け捕りも手じゃ。殺すがはいつでもできるけんど、生き返らすがはできんきのう」
 伊地知と板垣が笑い合う。オレは刀を持つ左手に力を込める。伊地知の左目が赤く光り、板垣が一歩踏み込んだ。
 斎藤、と伊地知がオレを呼んだ。
「何だ」
「斎藤よ、おい達《どん》に降《くだ》れ。生かしてやるど。仕事ば与えちゃる」
「仕事だと?」
「城に行って、松平かた保《もり》に降伏ば説け。今日じゅうに城ば明け渡すなら、城内の者は全員が命拾いする。明日以降になれば、日に日に死者が増ゆっじゃろう」
「どういう意味だ? 明日以降、何が起こる?」
 板垣が撃鉄を起こした。
「今日、日光方面からの増援が若松に到着する。この増援があれば、越後方面を固めた会津軍を叩ける。越後方面は只《ただ》見《み》川《がわ》を挟んでわしら官軍と会津軍が睨み合いゆうけんど、今まではわしらも若松の拠点確保に手を取られて、越後方面への援軍が出せんじゃった」
「只見川の会津軍の背後を突くつもりか」
「そうじゃ。只見川を取れば、越後街道もわしら官軍が掌握できる。つまり、米沢以外のすべての街道が塞がるわけじゃ。会津は、さて、どうするつもりかよ?」
「だから、今のうちに降伏しろと?」
「痛い目を見るがが好きなら、意地を張り通せば良《え》い。けんど、官軍が充実すれば、今までのように生易しい砲撃では済まんぜよ」
「生易しい、砲撃……」
 鶴ヶ城は今でもすでに、一日に何十発もの砲撃を食らっている。無茶な方法で被害を食い止めては怪我人を出して、死者も出しているはずだ。これが生易しいというのか。
 伊地知の手の上で、いくつもの火球がお手玉のように跳ねた。
「官軍がすべて到着したら、鶴ヶ城総攻撃の開始じゃ。南東から鶴ヶ城を見下ろす小田山が、わっぜ優れた砲台になる。小田山ば中心に彼方此方《あしこそこ》に大砲ば据えて、毎日、鶴ヶ城ば撃ってやろう。おい達《どん》がいくつ大砲ば持っちょるか、当ててみれ」
「知るか」
「五十門じゃ! 砲弾も沢山《どっさい》ある。五十門の大砲で一日に五十発ずつ、合計二千五百発、撃ち込んじゃる計画じゃっど。二千五百発の砲弾に、士魂の誉《ほま》れ高き会津の武士は、何日耐ゆっじゃろか? 賭けてみるけ、斎藤?」
 風に熱波と火の粉が混じった。炎が木々を舐める音のほかは奇妙に静かだった。隊士たちの決死の反撃はいつの間にか止んでいる。
 板垣がまた一歩踏み込んで、引き金に指を掛けた。
「この拳銃は引き金が甘いがが難点でのう。一寸《ちっくと》した弾みで撃ってしまう。うっかり殺したらすまんぜよ。斎藤、そろそろ決断しい。わしらに降《くだ》るか、あくまで抵抗するか、どっちじゃ?」
 オレは奥歯を噛み締めた。言葉で答える必要などない。
 斬撃を繰り出す。ただ一閃で古木が傾《かし》ぐ。板垣が発砲する。しかし木が狙いを狂わせ、銃弾を阻む。
 駆ける。たちまち伊地知が間合いに入る。妖刀の刺突。炎が盾を成す。熱が肌を打つ。構わず突き込む。
 完璧ではない手応え。砕けた炎がオレを襲う。蛇のように絡み付こうとする。オレは転がって、着物に移った火を消す。
 銃声が響く。目の前で土が抉《えぐ》れた。火薬の匂いが鼻を突く。
 跳ね起きる。木を盾にする。炎の塊《かたまり》が木を直撃する。別の木に身を潜ませる。銃弾が追ってくる。
 あれだけぺらぺらしゃべった以上、伊地知も板垣も、降伏しないオレを生かしておくつもりはないだろう。だが、オレは必ず生きてここから脱出しないといけない。知り得たことを会津勢に知らせなければ。
 ごうっと空気が唸《うな》った。手の形をした炎があたり一帯の木々を薙《な》ぎ払う。
 伊地知と目が合った。近い。判断は一瞬だった。オレは避けずに飛び込んだ。
「甘か!」
 衝撃。地に伏してから、起こったことを察する。倒れ掛かってきた木に打ち据えられた。伊地知は初めからこれを狙っていた。
 気が遠くなりかけるのを、どうにか持ち応える。伊地知が左脚を引きずって歩いてきた。睨み上げるのが精々だ。伊地知は笑いながらオレの左手を踏み付けた。
「そろそろ終わらせんと、おいも疲れ果ててしまう。もう一回、訊くど。おい達《どん》に降《くだ》るつもりはなかか?」
「舐めるな。降るわけがない」
 伊地知がオレの手を蹴った。刀が弾け飛ぶ。伊地知はオレの顔に手のひらを向けた。
「よう言うた! 斎藤一は最期まで気骨のある男じゃったち覚えちょってやっど。骨も残らんごつ焼き尽くしてくれる!」
 伊地知の手に光が集まる。
「死ねるもんか……!」
 オレの手の甲の環が吠えた。爆発的な力がほとばしる。腕が千切れそうなほどに環の力は勢いづく。
 環が妖刀を呼んだ。妖刀が宙を滑って飛び、オレの手に戻る。柄が手のひらに吸い付く。
 死に物狂いで刀を振るった。切っ先が伊地知の左脚に食い込んだ。伊地知が声を上げて引っ繰り返る。オレは跳ね起きる。
「斎藤一!」
 板垣の銃口がオレを狙っている。一か八か、オレは板垣に突進する。
 銃声より先に羽ばたきの音が聞こえた。板垣の顔に白い鳩が飛び付いた。狙いの狂った銃が火を噴く。オレは板垣に斬撃を叩き込む。
 手応えは軽かった。転がって避けた板垣のどこに傷を負わせたか、見極める暇もなかった。オレは板垣の手から拳銃を蹴り上げて、そのまま走った。
 逃げるオレの背中に板垣の声が飛んできた。
「後悔しいや、斎藤一! おんしらは必ず破れる。冬を待たずに滅ぶぜよ。おんし、戦で死んじょったがが幸せじゃったと思うばあ、苦しい目に遭うろう。後悔しいや。絶望しいや!」
 振り返らず走った。オレを導くように、白い鳩が先を行く。

 敵陣を突っ切って駆け抜けたオレは、城の西側、川原町口の郭門付近に土塁を築いて砦にした佐川さんの陣に合流した。思いのほかの深手をひどく心配されたが、治療は後回しだった。敵が会津に迫っていた。
 その日、九月五日、佐川さんは軍勢を引き連れて江戸街道へ出陣し、日光方面からの敵を押し返した。鹵《ろ》獲《かく》した武器や食糧は豊富で、会津軍の士気は高揚した。一方で、同日、越後街道の只見川の陣は敵軍に奪われた。
 命懸けの奮戦の日々だった。
 一つ勝って、二つ負ける。大きな神社や寺が一つ、また一つと奪われ、敵軍の砦となる。大砲が据えられて容易には近付けず、奪い返せない。町が侵され、無残に破壊されていく。
 板垣と伊地知が予告した鶴ヶ城総攻撃は、九月十四日を以て開始された。五十門の大砲から、一日に二千発以上の砲弾が放たれた。
 鶴ヶ城はまだ耐えている。
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