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一 沖田総司之章:Heroes

池田屋事件(一)

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 京都の夏の蒸し暑さは、江戸よりもずっとひどい。ぐるりと山に囲まれた町に淀《よど》むのは、ただの暑気と湿気だけじゃない。千年前からの恨みつらみが発する妖気もまた、ずいぶんと濃密だ。息苦しいほどに。
 鴨川からいくらも離れていない小路を、北に向かって駆けている。おれとともに走るのは、新撰組三番隊組長、斎《さい》藤《とう》一《はじめ》。一番隊組長のおれ、沖《おき》田《た》総《そう》司《じ》と同年の二十一で、江戸にいた子どものころからの剣術仲間だ。
「斎藤さん、あっちに明かりが見えた」
「ああ。土《ひじ》方《かた》さんたちならいいが」
 尊《そん》皇《のう》攘《じょう》夷《い》の過激派、長州藩士がこの一帯のどこかで雁《がん》首《くび》をそろえて、密談をおこなっているらしい。京都はまもなく祇《ぎ》園《おん》祭《まつり》のにぎわいに包まれる。それに乗じて、長州藩士は京都の町じゅうに火を放って天皇を誘拐する計画を立てているという。
 東西に走る三条通と四条通の間、鴨川を挟むこの近辺には、旅館や料亭が並んでいる。新撰組は今、局長の近《こん》藤《どう》勇《いさみ》、副長の土方としぞうの二組に分かれて、旅館や料亭の御用改めに回っている。
 おれと斎藤さんが近藤さんたちから遅れたのは、祇園でちょっと絡まれていたからだ。色っぽいおねえさんたちが相手なら楽しい話だっただろうけど、残念ながら、敵は妖《あやかし》堕《お》ちした尊攘派の志士だった。
 刀の腕と剛毅な気質で鳴らす新撰組でも、妖を迎え撃てる隊士はそう多くない。おれと斎藤さんと、今回は屯《とん》所《しょ》の留守役を担う山《さん》南《なん》さんくらいのものだ。
 だから、おれたちは今、急いでいる。密談中の長州藩士は、きっと妖堕ちしたやつも連れている。妖気に対抗できない近藤さんや土方さんたちだけじゃ危険だ。
 斎藤さんは、おれより数歩先を行く。段だら模様を染め抜いた浅《あさ》葱《ぎ》色の羽織と、袖章には誠の一文字。
「派手だなあ」
 つぶやくと、斎藤さんが横顔だけで振り返った。
「羽織か?」
「ああ。普段は地味なものしか着ない斎藤さんが身に付けると、なおさら派手に思えるね。田舎臭いはずの浅葱色が、妙に鮮やかに引き締まる。でも、本当はこういう色は嫌いだろう?」
「好んでは着ない。ただ、この格好なら名乗る必要がない。便利だ」
「なるほどね。浅葱色の羽織に寡黙な長身の美丈夫で、おまけに刀を右に差した左利きとなれば、新撰組三番隊組長、斎藤一であることを、名乗るまでもなくみんな理解するってわけ」
「ああ。そして、勝手に怯《ひる》んで道を開けてくれる」
「そうだね。斬らなけりゃいけない数が多いだけに、相手が弱腰の雑魚《ざこ》に成り下がってくれれば楽だ」
 斎藤さんはいつも、無駄や隙がない。しゃべり方も考え方もそうだし、その左手が使う剣も、削ぎ落としたように簡潔で端正だ。
 走る脚をわずかに緩めて、斎藤さんはおれの横に並んだ。おれの肩を横目で指して言う。
「沖田さんだって、その黒猫」
「うん、確かに。ヤミを連れていれば、おれがおれであることを名乗る手間が省ける」
 金色の目を光らせて、にゃあ、とヤミが鳴いた。二股の尻尾が、ゆらゆら揺れる。
 前方に見えた明かりの正体が唐突に、はっきりした。
「君は何じゃ! そこで何をしちょる! いつから僕らを尾《つ》けとった!」
「いや、君、問うとる暇はないっちゃ。おい、娘、そこへ直れ!」
 長州訛りの不穏な会話だった。君だの僕だのと耳慣れない言葉で相手や自分を呼ぶのは、松《しょう》下《か》村《そん》塾《じゅく》絡みの連中以外にはいない。おれたちの敵、尊攘派だ。
 おれと斎藤さんは目を見合わせた。言葉はいらない。面倒くさいけど、放っておくわけにはいかないよね? おれがちらりと刀の柄に手を触れると、斎藤さんは黙ってうなずいた。
 路地に駆け込む。景気よく手に手に提灯を掲げた武士が、一斉にこちらを向いた。
「あの羽織、新撰組か!」
「出会え出会え、殺せっちゃ!」
「殺セ殺セコロセコロセコロセコロセ!」
 全員の額に、赤黒く入り組んだ紋様の環《ワ》がある。両目が異様に光っている。がうがうと唸《うな》るだけの男は、伸び切った牙が口の中に収まらず、顎《あご》が開きっぱなしだ。
「見事に全員、妖堕ちしてるね」
 籠《こ》手《て》の内側で、右の手の甲が、ずくんと疼《うず》いた。環が共鳴したんだ。
 おれの環は未完成だ。時をかけて蝕《むしば》む病のように、人ならぬ力は少しずつ、おれの中に根付きつつある。時をかけずに環を成すと、たいていの者は精神をやられて妖に堕ちる。目の前の、異様な気配をただよわせる尊攘派の連中みたいに。
 ふと、若い女の声がした。
「何やのん、今度は壬生狼《みぶろ》まで出てきはって。今の京都は人殺しであふれ返っとるんやわ」
 京言葉だ。一歩踏み込むと、壁を背にした声の主が尊攘派にぐるっと囲まれているのが見えた。髪型や服装から察するに、十五、六の商家の娘。きっ、と目尻の釣り上がった丸い目が、どこか猫に似ている。
 おれは娘に笑ってみせた。
「無差別に人を斬ってるような言い方、しないでもらえる? おれたちが斬るのは、新撰組の士道に反するやつらだけだよ。妖堕ちして武士の志も何もかも忘れてしまった馬鹿な連中、とかね」
 猫みたいな目とおちょぼ口で、娘も笑った。
「あんたはんに何ができはりますのん? 環を持つ者の力場で動けるんは、環を持つ者だけ。どないな剣豪でも、力場に呑まれたら、よぉ動きまへん」
 娘が自分の右手の甲を指差した。蒼い環がある。文字ならぬ文字で輪《りん》廻《ね》の理《ことわり》を示すものだと、斎藤さんが教えてくれた。
「あの環、オレと同じか」
 斎藤さんが左の手の甲に触れてつぶやいた。籠《こ》手《て》の下には蒼い環が隠されている。
 生まれつき蒼い環を持つ者は、力を得ようという欲から成された赤い環を断ち切ることができる。男だったら特別な刀と一緒に生まれて、女だったら呪術の類が使えるという。
 娘は威勢がよかった。
「壬生狼のお二方、巻き添えを食らいとぉなかったら、さっさと立ち去りよし」
「まさか、こいつら全員相手に一人で戦うつもり?」
「ええ。うちひとりで十分やわ」
 つんと澄ました一言が、尊攘派の連中の神経を逆撫でしたらしい。連中の気迫が熱を孕《はら》んで膨れ上がった。いや、気迫ではなく狂気と呼ぶべきか。
 おれと斎藤さんが同時に刀を抜き放った。おれの肩からヤミが跳び下りる。眉をひそめる娘に、おれは再び笑ってみせた。
「助太刀するよ、お嬢さん」
 言うが早いか、おれは、娘とおれたちの間を隔てるように立つ志士を一人、一刀のもとに沈めた。妖に変化しようとした中途半端な格好が無様だ。倒れ伏す志士の死体を踏み越えて、おれは娘を背に庇《かば》った。
 町屋の建ち並ぶ狭い路地が、ぐにゃりと歪む。環の発する力場がおれたちを取り込んだ。
 何度経験しても、力場の風景は薄気味悪い。長さの尺度が歪んで、奥行きが消える。そこにあったはずの建物は、地面に染め抜かれた絵に成り代わる。狭いはずの路地が道場よりも広く押し延べられる。夜でもなく昼でもない薄明るさは、まるで逢《おう》魔《ま》が時だ。
 娘が目をしばたたかせた。
「あんたはんたち、動けはりますの?」
「動けるよ。助太刀するって言ったでしょ?」
 おれの言葉に、斎藤さんもうなずく。
「環を成そうとする者と環を断つ者だ」
「ちなみに、おれが前者で、斎藤さんはあんたと同じく生まれつきの環の持ち主だよ」
 志士たちの姿が変化する。体が膨れ上がって毛むくじゃらの野獣と化して、着物が破れて弾けた。爛々《らんらん》と光る両目から理性が欠け落ちる。全部で九体。
「こんなん、大したことあらへんわ」
「公平に三匹ずつ倒すってことでどう?」
 おれが提案すると、娘は悪態をついた。
「あんたはん、先に一匹倒さはったでしょう。公平と違います」
「細かいこと気にしないでよ」
「助言しますえ。大雑把な男の人なんて、京都の女は鼻にも引っ掛けまへん」
「それは困るな。京都には、あんたみたいにかわいい子がたくさんいるのに」
 軽口を叩きながら、妖の志士の様子を見やる。頭《かしら》はどいつだ? 完全に理性が飛んだ阿呆は問題ないけれど、知恵の回るやつがいると面倒だ。かろうじて言葉のわかるやつに指示を出して群れで襲おうとする。
 赤く燃える目と、ばちりと視線が絡み合った。ああ、こいつか。
「邪魔、するナッちゃ。池田屋、行カンとナラン」
「池田屋? そこであんたたちの仲間が密談をしてるんだね?」
「邪魔スルナッチャ。邪魔スル者、殺スコロスコロスコロスコロス!」
 斎藤さんと、一瞬の目配せで会話する。おれがあいつをやるよ。向かって左の、頭《かしら》らしきあいつとその周辺。斎藤さんは反対側からよろしく。
 承知、と鋭い斎藤さんの声が視線の中に聞こえた。斎藤さんの剣が鞘走る。
 おれは地面を蹴って飛び出した。
 一歩、沈み込むように低く構える。二歩、牙を剥《む》くように刀を身に引き付ける。そして三歩目、すでに標的はおれの間合いにある。
 刀を繰り出す。
 一突き。肥大した妖の心臓が、びくりと打ち震えて沈黙する。
 刀を引き抜く。振り向きざまに、袈《け》裟《さ》懸《が》けの斬撃。背後を取ろうとした妖の志士が、血を撒《ま》き散らして引っ繰り返る。まだ死んでいない。腹に飛び乗って心臓を仕留める。
 生臭い返り血。右手に伝わる短い断末魔。ぞくぞくと背筋を這い上がる興奮。思わず顔を上げて微笑む。さあ、次は誰が死にたい?
 突然、太い水柱が地面から噴き上がった。
「水之イマシメ、簡単には抜け出されへんえ?」
 胸の前で両手を合わせた娘が四方を睨《にら》む。無傷だった妖の志士が五体、すべて水柱の内側に閉じ込められて、ごぽごぽと気泡を口から吐きながら、もがいている。
 娘の右手の甲の環が鮮やかに輝いている。全身から立ち上る気が風のように、結い髪からこぼれた毛を舞わせる。淡く光る白い肌がひどくなまめかしくて、一瞬、見惚れそうになった。
 いや、何を考えてるんだか。自分自身を軽く笑い飛ばして、手近な標的に刀を一閃する。水柱ごと、野獣と化した首が飛んだ。降りかかるしぶきは血じゃなくて、涼しい香りのする水だ。
 視界の隅で、斎藤さんがもう一体、倒すのが見えた。おれも負けていられない。一、二歩、短く駆けて次の標的を屠《ほふ》る。
「約束と違いますやろ!」
 怒った声が飛んでくると同時に、斬り掛かろうと狙いを定めていた水柱が、鋭い音を立てて凍った。きらきらと氷片が飛ぶ。
「約束って?」
 振り返ると、娘は荒っぽい仕草で印を結んで、ぱんっと両手を合わせた。
「三匹ずついう割り当てやったのに!」
 二本だけ残る氷の柱が砕け散った。中に囚《とら》われていた妖の志士も同時にだ。鮮やかな術だった。
「あんた、けっこう怖いね」
 娘に笑いかけてやった瞬間、妖の志士たちが創っていた力場が崩壊して、京都の夏の夜が戻ってきた。
 蒸し暑い。そこここに死体が転がって、地に落ちた提灯が、張られた皮ごと燃えている。
 斎藤さんが刀を鞘に収めた。眉間のしわが深い。
「あいつら、池田屋と言った。場所は木屋町三条の北西だ」
「ということは、近藤さんが受け持ってる範囲? まずいね。あっちは人数が少ない」
「沖田さん、まっすぐ近藤さんの加勢に行け。オレが土方さんに知らせる」
「わかった。できるだけ急いでよ。そうじゃなきゃ、応援が到着するより前に、おれたちだけで尊攘派を片付けちまうから」
「承知」
 おれは刀をしまった。おれのそばに戻ってきたヤミが、するすると身軽に、おれの肩によじ登る。そして駆け出そうとした、その途端。
「待って!」
 おれは袖をつかまれて振り返った。羽織の裾《すそ》をつかまれた斎藤さんは、おもしろいほど跳びのきながら身構えた。おれと斎藤さんを呼び止めた娘が、膨れっ面で宣言した。
「うちも行きます」
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