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三 沖田総司之章:Tragedy

士道に背くまじき事(二)

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 山南さんと伊東さんを交えて子どもたちと遊んでから、半月ほど後のことだ。二月も半ばで、壬《み》生《ぶ》寺《でら》の梅は満開を過ぎている。寺の広い庭で新参の隊士に剣術を指導していたら、斎藤さんがおれを呼びに来た。
「斎藤さん、どうしたの? いつにも増して暗い顔してるけど、女にでも振られた?」
 からかうおれに、斎藤さんは眉根を寄せた。
「山南さんが脱走した」
 時が止まったように感じた。短い一言に込められた意味が大きすぎて、頭が考えることを拒んだ。
「脱走? 何それ? 山南さんが、脱走?」
「ああ」
「何言ってるの、斎藤さん? 下手な嘘なんて、斎藤さんらしくないよ」
 空っぽな言葉がおれの口からこぼれていく。斎藤さんが、嘘ではない、と小さくかぶりを振った。そうだよね。わかっている。斎藤さんは嘘なんかつかない。でも、山南さんが脱走するって、それも信じられるわけがない。
「本当だ、沖田さん。山南さんがいなくなった」
「ちょっとそのあたりを散歩してるとか……勘違いじゃないの?」
「部屋に書き置きがあった」
「書き置き? 何て書いてあった? 山南さんの筆跡に間違いないのか?」
「山南さんの字で、江戸に行く、と」
「それだけ? たった一言だけで、山南さんがいなくなったって?」
 斎藤さんはうなずいて振り返った。近藤さんと土方さんが難しい顔をして、壬生寺の山門をくぐるところだ。
 一張羅を着た近藤さんは、二条城から帰ったばかりなんだろうか。最近は稽古にも顔を出さないから、新参の隊士がうろたえてざわついている。おれは木刀で庭石を打った。びしり、と鋭い音が響く。
「誰が休んでいいと言った? たかが素振りと甘く見るな。全員、腰の位置が高い。もっと重心を落とせと、何度繰り返せばわかる?」
 素振りのやり直しを命じようとしたら、斎藤さんがおれを制した。
「新兵の稽古はオレが預かる。沖田さんは、近藤さんたちから話を」
 斎藤さんはおれと目を合わせない。稽古の様子を眺めるふりのまなざしは冷たく乾いている。ぞくりとした。今の斎藤さんは、仲間だった人を斬るときの目をしている。
 近藤さんと土方さんに駆け寄る。二人が何かを言うより早く、おれは、さっきと同じむなしい問いを口にした。
「山南さんがいなくなったって、嘘だよね?」
 近藤さんが低く呻《うめ》いて、おれの肩に手を載せた。言葉はない。土方さんが深い息をついて、おれに答えた。
「嘘をついてどうする? 斎藤から聞いただろう。山南さんは、江戸に行くと書き置きを残して、屯所から脱走した。おそらく今日の夜明け前だ」
「花街にでも泊まってるんじゃないの? ほら、山南さんには馴染みの芸妓がいるし、酒もそう強くないから、つい飲みすぎて寝込んじまってるんじゃ……」
 近藤さんがおれの言葉を止めた。
「総司」
 名を呼ばれただけで、背筋が伸びる。近藤さんはお説教もお小言も垂れない代わりに、ただ一言に込める気迫が凄まじく強い。
 近藤さんと目配せをした土方さんが、近藤さんの代わりにおれに告げた。
「山南さんは今、大津にいる。斎藤が島田さんを連れて確認してきた。島田さんが今も山南さんを見張ってるが、続報はないから、大津から動いちゃいねぇいはずだ。総司、おまえは今すぐ山南さんを追え」
 とっくに血の気が引いていたはずの顔から、さらに熱が失せるのを感じた。
「おれが、山南さんを追う? 待ってよ、土方さん。おれに山南さんを斬らせるつもり?」
 新撰組にはいくつか絶対の禁則が存在する。新撰組を無断で抜けること、「脱走」もその一つで、破る者がいちばん多い禁則だ。すでに何十人もの隊士が脱走して、九割はおれや斎藤さんが捕らえて、規則どおり死なせた。
 だから山南さんも斬れ、と? おれのこの手で?
「違う、総司。そうじゃねえ。俺も近藤さんも山南さんを斬りたくなんかねえ。斬るつもりがあるなら、斎藤が追い付いた時点で斬らせていた」
「土方さん、それは」
「考えなしに逃げ出す下っ端と、山南さんは訳が違う。何か思うところがあるに決まっている。そいつを腹の中に抱えたまま、山南さんは身を引こうとしているんだろう。でもな、それじゃ俺たちの腹が収まらねぇんだ。もう一度、きちっと話をしたい」
「じゃあ、おれは山南さんを連れて帰ってくればいいの?」
「ああ。山南さんは総司を弟のようにかわいがっているだろう? 俺や近藤さんじゃ駄目でも、総司なら山南さんを説得できるはずだ。頼む、総司。山南さんを連れ戻してくれ」
「山南さんにひどい扱いをしないよね?」
 おれは土方さんの目をのぞき込んだ。土方さんが小さく苦笑した。
「俺はそんなに信用がないのか?」
「信用してるよ。でも、土方さんは策士だから」
「策士か。確かにな。山南さんの脱走だって、俺がしょうもない策を弄したことがきっかけかもしれん」
 土方さんの苦笑が、色を変えて歪んだ。自嘲の笑みだ。「鬼の副長」と呼ばれ始めたころから、土方さんはときどきこんな笑い方をするようになった。
「しょうもない策って何?」
「屯所の移転の話だ。一昨日、西本願寺と正式に証文を交わした」
「初耳だね。そんなに話が進んでたんだ?」
「ああ。近藤さんと俺と伊東さんだけで話を進めていた。山南さんにも黙っていた。山南さんは西本願寺への移転に反対だったから」
「西本願寺との話がまとまった後で、山南さんは移転が決定したことを知った?」
 近藤さんと土方さんは苦しそうにうなずいた。
 目の前が暗くなるように感じた。試衛館のころのおれたちは、こうじゃなかった。意見が合わなければ正面から戦わせて、木刀を持ち出しての喧嘩になることもあったけど、隠し事も策略もなかった。
 どうして? 時間が流れたから? 仲間が増えたから? 江戸を離れて京都に来たから? あのころより金があるから? 有名になったから?
 足に温かいものが触れた。ヤミがおれにすり寄りながら、何もかも見通すような金色の目をしている。
 総司、と近藤さんがおれを呼んだ。おれはしゃがんでヤミを抱えた。近藤さんの顔を、今は見たくない。いや、違うな。自分がどんな顔をしているのか不安で、近藤さんのほうを向けない。近藤さんの声が再びおれの名を呼ぶ。
「総司よ、山南さんのことを頼む。連れて帰ってきてくれ。俺はもう一度、山南さんと腹を割って話したい」
「わかってる」
「花乃を連れていけ」
「花乃さんを? どうして? おれひとりで十分だよ」
「万全を期すためだ。山南さんは、完全な環を持っている。山南さんが本気で力を出せば、総司よりも強い」
 息を呑む。喉の奥で血の匂いがした。病んで腐りかけた肺の匂いだと思い込む。大事な人を前に剣を抜く、そんな不吉な血の予感だと認めたくない。
 にゃあ、とヤミが鳴く。新参の隊士が掛け声を発しながら素振りを続けている。斎藤さんに型を修正された誰かが、ご指導ありがとうございます、と声を張り上げる。
 ありふれた景色のそばで、おれは顔を上げないまま、無理やり微笑んだ。
「じゃあ、ちょっと大津まで物《もの》見《み》遊《ゆ》山《さん》に行ってこようかな。山南さんも琵琶湖を眺めながら、茶店の饅頭でも食べているんだろうし」
 ねえ、山南さん、そうだろう? 今、まだ生きているよね。屯所を勝手に抜け出した士道不覚悟だなんて理由で、自分で自分を斬ったりしていないよね。
 怖い。
 山南さんの行く先に血の海が待っているような気がして、ひたすら怖い。
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