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第1章 辺境編

第20話 ワイン工房の後継ぎ①

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 辺境伯の軍勢の駐留はまだ続いていた。
 アスターゼがヴィックスから聞いたところに寄れば、ホルス要塞の近くまでテメレーア王国軍が迫っていることと、ノーアの大森林からの魔物対策を行う必要性があるからだと言う。実際、ノーアの大森林と平原の境界付近の詰所は現在、大規模な改築工事が行われている。駐留する兵士の数も増やされると言う話だ。

 スタリカ村の奇跡が起こった日から、村人たちに侮られなくなったアスターゼの下に1人の老人が訪れていた。
 特に親しい交流があった訳ではないが、顔見知りではある。
 彼を出迎えたニーナは名前を知っているようではあったが。

 この家はヴィックスが住む家だけあって、ちゃんとした客間、応接室のような部屋を備えている。伊達にコンコルド辺境伯の懐刀ふところがたなをやっている訳ではないのだ。

 そこへ通されてお茶をすすっているのは、ニーナ曰く、コーホルと言う90過ぎの老人である。何故かアスターゼに用があると言うので、ニーナと共に応接室に同席しているのだ。

 ちなみにヴィックスは辺境伯軍が来てから留守にしがちになっている。
 何やら色々と動いているようで忙しいのだろう。

「急な来訪にも関わらずすまないな。ニーナさん……」

「いえ、私は特に忙しい身ではありませんから」

 コーホルはニーナに向けていた体をアスターゼの方へ向けると、丁寧な口調で切り出した。

「アスターゼ君だね。砦跡での戦いでは見事な活躍だったようだね」

「いえ、あれは村の皆が一致団結して亜人に立ち向かった結果ですよ」

 アスターゼとしてはとっとと本題に入って欲しかった。
 老人は前置きが長い。
 単刀直入に切り出して欲しいと思うアスターゼであった。

「わしは思っていた。『てんしょくし』なる意味の分からない職業を神より与えられ、将来性皆無の穀潰しが村に誕生したと聞いて苦々しくな……」

 喧嘩を売っているのか分からないがけなされていることは確かなようだ。
 この老人、中々良い性格をしているようである。
 アスターゼは彼が何を言いたいのかイマイチ掴めずに適当に相槌を打っておいた。隣のニーナも複雑そうな表情をしている。

「しかし、それはわしの思い違いだった。砦跡での戦いは君の能力のお陰で生き残った者も多いと聞く」

「はぁ……」

「あの戦いでわしの長男と次男、そして孫までも命を落としてしまった……」

 あの戦いは激戦だった。
 亜人たちが力押しをしてくれたお陰で何とか勝てたとアスターゼは考えている。
 上手く組織だった戦いをされていたら被害は更に甚大なものになっていただろう。戦いを思い起こしながら耳を傾けるアスターゼに、コーホルは淡々と話し続ける。

「幸い、戦いに加わらなかった曾孫が一人生き残ってのう。二○○年近く続いてきたわしのワイン工房が絶えずに済んで喜んでいたのじゃが……」

「その曾孫が将来、黒魔術士になって人々を魔物から助けたいと言いだしてのう……」

 つまりはこう言うことだ。
 せっかくワイン工房の大事な後継者が生き残ったのに、工房を継ぎたくないと言いだして困っている。
 だから転職士の能力を使って何とかしてくれと言ったところだろう。

 ちなみに黒魔導士と言うのは火や水、風、土などの元素の力を使って自然を操り、敵を攻撃する魔術士のことだ。
 平たく言えば、魔法使いである。

「曾孫さんはおいくつなんですか?」

「10歳じゃ」

 10歳ならば、砦内で待機していた村人たちの中にいたのだろう。
 アスターゼが戦いに向かう際に、修道僧モンクに転職させた村人の1人でもある。

職業ジョブは?」

「農民じゃな」

「なら問題ないじゃないでしょう? この国は特に職業管理の厳しい国の1つですし、農民の職業を授かったのなら農民として生きるように強いられると思いますが」

「それがあれから君の名を出さない日はなくての、このまま外でも自分の夢を吹聴し続ければお偉方や他国の耳にも入りかねん」

「わしはそれで君に迷惑が掛かるような気がしてならんのだ」

 ――この狸爺たぬきじじい

 このまま話が大きくなれば、アスターゼはより国家により強く縛り付けれらることとなり、下手をすれば他国へ拉致されて使い潰されるぞとコーホルはあんに言っているのだ。もちろんそうなれば、彼の曾孫の身自体も危なくなることも理解しているだろう。

 現時点でドレッドネイト王国に何の動きも見られないが、王国としては、転職士の存在が明るみに出るのは避けたいだろうし、昨日の辺境伯の様子からしても自らの戦力として取り込むつもりなのだから必ず何か手を打ってくるだろう。

 コーホルの言い様では、むしろ自分たちに不利になる交渉の仕方だと思うのだが、彼にしてみれば一か八かの大勝負なのかも知れない。

 アスターゼとしては、他国に自分の能力を知られるのが最も厄介な未来だと思っている。せっかく昨日の謁見で辺境伯に多少の自由を認めてもらったところなのである。コーホルが王国中央や他国へ行って、アスターゼの能力を密告されるのが一番怖いことではあった。

 アスターゼはそう考えながらも、人間の愚かさにほとほと愛想が尽きていた。
 前世からそうであったが、何故、素直に誠心誠意お願いすることができない?
 この世界では職業に縛られる人々のために生きようと志した自分が滑稽に思えてくる。

 ――だから嫌いなんだよ人間って奴は

「もう職業とは何の関係もないな。あんたの態度は気に喰わないが、曾孫さんのためだ。一応、説得だけはしてみようじゃないか」

 アスターゼはそう言い捨てると、外へと飛び出した。
 背後で乱暴な音がするのと同時に、ニーナの声が聞こえる。
 向かうは丘の上の平原だ。
 アスターゼは家から砦跡の方へ向かい、高台になっている丘陵地帯へと全力で走った。

「くそッ! くそッ!」

 何故こうも侮られるのか?
 自分がまだ子供だからなのか?
 いや、違う。人間は少し優しい態度を見せれば、すぐに付け上がる。
 常に他人のあらを探していて、それを見つけては優越感に浸っている。
 アスターゼは丘の上まで来ると、仰向けになって寝転んだ。

「雨が降りそうだな……」

 空にはまるでアスターゼの心にかかった雲のようにどんよりとした黒雲が流れてきていた。
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