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男が悲鳴をあげた正体を知り、集まっていた人々は呆れた顔をして去っていく。
男と同じように悲鳴をあげ怯えるような弱き女性はここにはいない。
俺も本当は見て見ぬふりをして部屋に引っこもうと思ったが、誰も助けてくれず去っていく後ろを切ない顔で追う男を見て、このくらいはしょうがないとため息をついて、ドアに大量に詰まっているいかがわしいチラシの類を丸める。
「勝手に入るぞ」
そう宣言して俺は、玄関までのこのこ向かってきたゴキブリに向かって勢いよく腕を振り上げる。
スパンという小気味いい音が響き、命中したゴキブリは潰れ、動かなくなっていた。丸めたチラシを広げて、それでゴキブリを包むと、振り向く。
男は「あ、あ、ありが……」と言いかけて、ゴキブリが包まれた紙を持って近づく俺を避けるように横に飛びのいた。
そこに、騒ぎをききつけた大家の鈴木さんが現れた。旦那さんをなくし、一人でこのアパートの管理をしている年配の女性だ。
「けんちゃん、何事かと思ってきてみれば……」
隣の住人を気安く名前を呼んだ鈴木さんは、俺の方を見て「あら、生田(いくた)くん。ごめんなさいね。お騒がせして」と頭を下げた。
「けんちゃんも謝りなさい。ゴキブリが出たくらいで……って、けんちゃん!」
鈴木さんはドアが開いたままの男の室内を見た瞬間、眦を釣りあげて叫んだ。
「このゴミの山はどうしたの! ダンボールもそのままで……」
ちらっと見えた室内があまりにも散らかっていたのは俺も見えた。それがまだ開けていないようなダンボールがあったことも、コンビニの弁当の殻やペットボトルが散乱していたことも、ばっちり目撃した。
「こんな状態だからゴキブリなんてでるのよ! 片付けなさい! そのうち隣から苦情がくるからね! そうなったら、出て行ってもらうから!」
男はしゅんとした様子で鈴木を窺っている。苦情に発展する前に、きつく注意してくれる大家はありがたい。それにこのまま放置していれば、遠くない未来、俺の部屋までゴキブリが寄ってきそうだ。異臭が漂ってきても困る。そういう意味もかねて俺からもチクリと忠告する。
「とりあえず殺虫剤でも買って来たら? 一匹いたら百匹いるとかいわれてるし」
俺にとって簡単に殺せるただの害虫でも、この男にとってゴキブリは殺せないほどの敵らしい。信じられないようなものを見るように唇を噛んで肩を震わせている。
「けんちゃんのお母さんから頼まれたから入れたけど、こんなんじゃ本当に出て行ってもらうわよ! 今すぐに片付けなさい!」
その台詞からどことなく大家とアパートの住人以上の関係が感じられる。だが、俺にとってそんなことはどうでもよくて、平穏に暮らせればいいだけだ。
自室に引っこもうとする俺を、鈴木さんに怒られた男が縋るように見てくる。同情心がないわけではないから、手伝ってやってもいいが……どうにもうんともすんとも言わないこの男とは合わない気がする。
それは男が着ている『アイ・ラブ・嫁』と書かれたピンク色のTシャツや、さり気に散らかっている部屋に見えた、そこだけ綺麗に並んだフィギュアの数々のせいじゃない。
男がどういう仕事をして生計を立てているのか未だに判断がつかないが、言いたいことも言えない、挨拶すらしない人間とは正直関わり合いたくない。
男と同じように悲鳴をあげ怯えるような弱き女性はここにはいない。
俺も本当は見て見ぬふりをして部屋に引っこもうと思ったが、誰も助けてくれず去っていく後ろを切ない顔で追う男を見て、このくらいはしょうがないとため息をついて、ドアに大量に詰まっているいかがわしいチラシの類を丸める。
「勝手に入るぞ」
そう宣言して俺は、玄関までのこのこ向かってきたゴキブリに向かって勢いよく腕を振り上げる。
スパンという小気味いい音が響き、命中したゴキブリは潰れ、動かなくなっていた。丸めたチラシを広げて、それでゴキブリを包むと、振り向く。
男は「あ、あ、ありが……」と言いかけて、ゴキブリが包まれた紙を持って近づく俺を避けるように横に飛びのいた。
そこに、騒ぎをききつけた大家の鈴木さんが現れた。旦那さんをなくし、一人でこのアパートの管理をしている年配の女性だ。
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隣の住人を気安く名前を呼んだ鈴木さんは、俺の方を見て「あら、生田(いくた)くん。ごめんなさいね。お騒がせして」と頭を下げた。
「けんちゃんも謝りなさい。ゴキブリが出たくらいで……って、けんちゃん!」
鈴木さんはドアが開いたままの男の室内を見た瞬間、眦を釣りあげて叫んだ。
「このゴミの山はどうしたの! ダンボールもそのままで……」
ちらっと見えた室内があまりにも散らかっていたのは俺も見えた。それがまだ開けていないようなダンボールがあったことも、コンビニの弁当の殻やペットボトルが散乱していたことも、ばっちり目撃した。
「こんな状態だからゴキブリなんてでるのよ! 片付けなさい! そのうち隣から苦情がくるからね! そうなったら、出て行ってもらうから!」
男はしゅんとした様子で鈴木を窺っている。苦情に発展する前に、きつく注意してくれる大家はありがたい。それにこのまま放置していれば、遠くない未来、俺の部屋までゴキブリが寄ってきそうだ。異臭が漂ってきても困る。そういう意味もかねて俺からもチクリと忠告する。
「とりあえず殺虫剤でも買って来たら? 一匹いたら百匹いるとかいわれてるし」
俺にとって簡単に殺せるただの害虫でも、この男にとってゴキブリは殺せないほどの敵らしい。信じられないようなものを見るように唇を噛んで肩を震わせている。
「けんちゃんのお母さんから頼まれたから入れたけど、こんなんじゃ本当に出て行ってもらうわよ! 今すぐに片付けなさい!」
その台詞からどことなく大家とアパートの住人以上の関係が感じられる。だが、俺にとってそんなことはどうでもよくて、平穏に暮らせればいいだけだ。
自室に引っこもうとする俺を、鈴木さんに怒られた男が縋るように見てくる。同情心がないわけではないから、手伝ってやってもいいが……どうにもうんともすんとも言わないこの男とは合わない気がする。
それは男が着ている『アイ・ラブ・嫁』と書かれたピンク色のTシャツや、さり気に散らかっている部屋に見えた、そこだけ綺麗に並んだフィギュアの数々のせいじゃない。
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