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みつる月
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学校帰りなんとなく顔を見たくなって、生吹の診療所に向かった。
平仁と会えない日々が続くと、なぜか生吹に会いたくなる。というより、俺には平仁の情報はひとつも入ってこないので、生吹ならば何か知っているのではないか、と探りを入れたいところではあった。
何かあったら智也に言えと言われているが、別に俺の身に危険なことがあるわけもなく、奴は口が堅すぎて訊いても何一つ話してくれないだろう。
診療所のドアを開けると、今日は誰もいないのか人の声はしない。気配も感じなかったので生吹もいないのかと思って衝立の向こうに回れば、奴は簡易ベッドで横になって呑気に寝ていた。
患者がいない時はこんなに自由気ままにしているのかと思えば、羨ましさを感じつつ呆れるしかない。
来てしまった手前、このまま帰るのも癪なので、椅子に座って机の上の書類を眺める。オメガに対する論文のようなものや、書きかけの研究データのようなものまであって、不用意に触らないようにしながら、書かれた『発情期のフェロモンについて』という文章に目を留めた。
生吹は元医者だ。大学病院の勤務医だったと聞いたことがある。オメガという第二の性の中で医者という職業を選択したことに驚きを感じずにはいられない。並大抵の努力がなければなしえなかっただろう。それを手放してしまった後悔はないのかと不思議に思う。安易に手放したくてしたわけではないだろうが、生吹からは未練のようなものは感じられない。
ただ、こういう記事を読んだり、研究をしたりするぐらいだから、やはりなんらかの思いがあって今でも勉強をしているのだ。いつも飄々としていて掴みどころがない男だが、面倒や努力は惜しまない。
「叶人……?」
振り向くと、生吹が欠伸をしながら上半身を起こした。目が覚めたらしい。
「いつ来た?」
「つい、さっき。寝てたから起こすのもかわいそうだし、どうしようかと思った」
ベッドから立ち上がった生吹は、晒していた書類を隠すように片づけた。
コンビニから買ってきたアイスコーヒーを差し出すと、顔を綻ばせて受け取る。
「ありがと。あー目が覚める」
一気に飲み干して椅子に座った生吹は、寝癖のついた頭をがしがしと掻いて、ほどきかけている髪を結いなおした。
「今日はどうした?」
「最近会ってなかったから、顔見に来ただけ」
「ふーん。発情期でもなさそうだし、平仁と何かあったわけじゃないんだな?」
俺の顔色や様子を見て生吹が言った。会うとどうしても体調や平仁の話になる。
「別に……あいつと喧嘩なんかしてない」
顔を逸らして小声で口早に話すと、生吹は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「何にやにやしてんの。気持ち悪いなあ。あ、いいことあった?」
笑っていなかったはずだが、生吹の勘の良さに舌打ちしそうになる。
「ない。お前こそ何その顔」
面白い玩具を見つけた子供のようににやにやしているのは生吹のほうだ。
「いや……平仁と何かあったでしょ? すんごいいやらしい顔してた」
「いやらしい顔って……」
話すか話さないか躊躇ったが、生吹は俺以上に平仁のことを知っているだろうと判断して口を開いた。
「お前は平仁の組のこととか知ってんだよな?」
「そんなに詳しくはないけどね。俺は一般人だし。噂ぐらいかな……って、叶人は平仁にあんま興味なさそうだったからそういう内情も知らないんだと思ってた。平仁も隠してる感じはしたし」
「うん。知らなくてもよかったと思うんだけど……番になったじゃん。知るべきだと思った。このままじゃいけないって感じてたし」
素直に吐露すると生吹は「へーそう思ったんだ?」と軽く返す。奴にとって俺と平仁の関係は所詮他人事、どうでもいいと感じているかもしれないが、こう見えて意外にもお節介だということは知っている。
「……平仁が組を抜けるって言ってきてさ」
もう聞いているのかと思って話を振れば、生吹はびっくりした表情で俺を見た。
「ほんとに? それはすごい。叶人の存在が平仁を変えるかー」
感慨深げに頷いている生吹はどこか嬉しそうだ。それに、平仁が組を抜ける理由を言い当てるあたり、俺と平仁をよく見ていたのだと思う。俺ですら平仁が組を抜けようとしている理由を知って驚いたのに、生吹は納得している様子だ。
「それで、にやにやしてんだ? まあ、組を抜けるとか簡単じゃないけど……叶人のためを思うなら早いほうがいいだろうね」
「やっぱ、難しかったりする……」
いきなり生吹が立ち上がる。誰かが引き戸を開けて入ってきた気配に、衝立の上から様子を見た生吹につられて立ち上がった。
足を引きずった一人の男が慌てた様子で入ってきた。
「あーまずい」
生吹は呟いて衝立を回って男に駆け寄る。見たことがあると思ったら、以前ここに来た時にすれ違った男だ。
「先生、少し匿ってくれ」
目つきの悪い柄の悪そうな男は、そう言って生吹の腕を縋るように掴んだ。生吹は俺のほうをちらと見て「叶人は今すぐ帰れ」と促した。ただならぬ雰囲気から帰ったほうがいいとわかっているが、また蚊帳の外に出されているような、かかわるなと言わんばかりの態度に少しむっとする。
そうしている間にも男は勝手に衝立の中に入っていった。焦ったように生吹が後を追う。
「俺のところに来ても困ります。森田さん」
その苗字には聞き覚えがあった。智也のアパートにいたときに柄の悪い男たちの口から出たものだ。組の金とか持ち逃げとか物騒なことを言っていたから覚えている。
「もう行く所がねえんだよ」
うろうろと歩き回る森田に、言い聞かせるように生吹が言った。
「平仁と連絡を取ったほうがいい」
「ダメだ! 殺される!」
生吹が言い終わる前に森田は声を荒げて震えだした。
こんな男でも平仁が怖いのかと驚く。それに『殺される』とは随分物騒な言葉だ。
「平仁はそんなことはしない。きちんと話をすれば……」
「あんたは奴の怖さを知らねえから、そんなことが言えるんだよ!」
生吹が早く出て行けとばかりに、携帯電話を持っていた手で俺の背中を引き戸のほうに押した。
「少なくとも他の人に見つかるよりはいいのかと思いますが?」
「見つかるわけにはいかねえって言ってんだろ!」
「ここにいてもずっと隠れられるわけがないでしょう」
「わかってる!」
生吹が動こうとしない俺の腕を強引に掴んだ瞬間、静かに引き戸が開いた。
身を屈めて中に入ってきたのは平仁だった。一瞬だけ視線が交差する。平仁は顔色一つ変えなかったが、なぜこんなところにいる? という文句が聞こえるようだった。
森田が慌てた様子で椅子をひっくり返して逃げようとするが、寸前のところで平仁の背後から出てきた智也が対峙するかのように前にふさがった。
「ちくしょう!」
左手に、奥に続くドアがあるだけで、逃げ道はない。じりじりと森田が右に左に移動する。
その様子を智也が両方の拳を握りしめてボクシングの構えを取り見つめていた。
「来るのが遅いよ」
生吹は携帯電話の通話を切った。見ると、平仁も携帯電話を持っている。生吹はずっと平仁と通話状態を続けたまま森田と話をしていたのだ。
智也の背後に立った平仁が一歩前に出た。すると森田は一歩後ろに下がる。足が悪い森田がここから逃げられる可能性は低い。
「東屋さん、俺はやってない」
震える声で森田は言うが、平仁の声は冷たかった。
「それなら逃げる必要はないだろう」
いきなり森田は側にあった椅子を掴んで振り回した。どうしたって、この場を逃げ切れるわけがないのに抵抗を続ける森田に、智也は振り回していた椅子を掴んで強く手前に引いた。反動で森田が床に倒れる。勝負はついたも同然だった。
智也が無理やり森田を立ち上がらせて、引きずるようにドアに向かって歩いていく。
その後を無言で平仁がついて出て行こうとする。
こういう場で引きとめてする話もないが、思わず腕を掴みたくなる。すんでのところで耐えたが、後姿をひたすら目で追う。
元気なようだし、今は姿を見ただけでもいいのだと言い聞かせる。森田の出現によって、何かが変わるのかはまったくわからないが、現状が少しでもいい方に変わってくれたらと願わずにはいられない。
生吹が屈んで椅子を立てる。
「いやー、びっくりしたね」
たいして驚いてなさそうに、生吹が言う。
「ここでもあんなことってあるんだな」
「まあね。さすがに暴力沙汰はないけど、扱う患者がそっち系の人ばかりだから」
「ふーん」
そこにいきなり引き戸が開いて「先生、いるか?」と人が入ってきた。
何事もなく普通に入ってくる男は、慣れた様子で衝立の中まで入って行く。
「ああ、中村さん。どうしました?」
今度こそ、生吹は俺の腕を掴みドアを開けて追い出した。
「コーヒーごちそうさま」
目の前で引き戸が閉まる。
仕方がないと、俺は歩き出した。
平仁と会えない日々が続くと、なぜか生吹に会いたくなる。というより、俺には平仁の情報はひとつも入ってこないので、生吹ならば何か知っているのではないか、と探りを入れたいところではあった。
何かあったら智也に言えと言われているが、別に俺の身に危険なことがあるわけもなく、奴は口が堅すぎて訊いても何一つ話してくれないだろう。
診療所のドアを開けると、今日は誰もいないのか人の声はしない。気配も感じなかったので生吹もいないのかと思って衝立の向こうに回れば、奴は簡易ベッドで横になって呑気に寝ていた。
患者がいない時はこんなに自由気ままにしているのかと思えば、羨ましさを感じつつ呆れるしかない。
来てしまった手前、このまま帰るのも癪なので、椅子に座って机の上の書類を眺める。オメガに対する論文のようなものや、書きかけの研究データのようなものまであって、不用意に触らないようにしながら、書かれた『発情期のフェロモンについて』という文章に目を留めた。
生吹は元医者だ。大学病院の勤務医だったと聞いたことがある。オメガという第二の性の中で医者という職業を選択したことに驚きを感じずにはいられない。並大抵の努力がなければなしえなかっただろう。それを手放してしまった後悔はないのかと不思議に思う。安易に手放したくてしたわけではないだろうが、生吹からは未練のようなものは感じられない。
ただ、こういう記事を読んだり、研究をしたりするぐらいだから、やはりなんらかの思いがあって今でも勉強をしているのだ。いつも飄々としていて掴みどころがない男だが、面倒や努力は惜しまない。
「叶人……?」
振り向くと、生吹が欠伸をしながら上半身を起こした。目が覚めたらしい。
「いつ来た?」
「つい、さっき。寝てたから起こすのもかわいそうだし、どうしようかと思った」
ベッドから立ち上がった生吹は、晒していた書類を隠すように片づけた。
コンビニから買ってきたアイスコーヒーを差し出すと、顔を綻ばせて受け取る。
「ありがと。あー目が覚める」
一気に飲み干して椅子に座った生吹は、寝癖のついた頭をがしがしと掻いて、ほどきかけている髪を結いなおした。
「今日はどうした?」
「最近会ってなかったから、顔見に来ただけ」
「ふーん。発情期でもなさそうだし、平仁と何かあったわけじゃないんだな?」
俺の顔色や様子を見て生吹が言った。会うとどうしても体調や平仁の話になる。
「別に……あいつと喧嘩なんかしてない」
顔を逸らして小声で口早に話すと、生吹は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「何にやにやしてんの。気持ち悪いなあ。あ、いいことあった?」
笑っていなかったはずだが、生吹の勘の良さに舌打ちしそうになる。
「ない。お前こそ何その顔」
面白い玩具を見つけた子供のようににやにやしているのは生吹のほうだ。
「いや……平仁と何かあったでしょ? すんごいいやらしい顔してた」
「いやらしい顔って……」
話すか話さないか躊躇ったが、生吹は俺以上に平仁のことを知っているだろうと判断して口を開いた。
「お前は平仁の組のこととか知ってんだよな?」
「そんなに詳しくはないけどね。俺は一般人だし。噂ぐらいかな……って、叶人は平仁にあんま興味なさそうだったからそういう内情も知らないんだと思ってた。平仁も隠してる感じはしたし」
「うん。知らなくてもよかったと思うんだけど……番になったじゃん。知るべきだと思った。このままじゃいけないって感じてたし」
素直に吐露すると生吹は「へーそう思ったんだ?」と軽く返す。奴にとって俺と平仁の関係は所詮他人事、どうでもいいと感じているかもしれないが、こう見えて意外にもお節介だということは知っている。
「……平仁が組を抜けるって言ってきてさ」
もう聞いているのかと思って話を振れば、生吹はびっくりした表情で俺を見た。
「ほんとに? それはすごい。叶人の存在が平仁を変えるかー」
感慨深げに頷いている生吹はどこか嬉しそうだ。それに、平仁が組を抜ける理由を言い当てるあたり、俺と平仁をよく見ていたのだと思う。俺ですら平仁が組を抜けようとしている理由を知って驚いたのに、生吹は納得している様子だ。
「それで、にやにやしてんだ? まあ、組を抜けるとか簡単じゃないけど……叶人のためを思うなら早いほうがいいだろうね」
「やっぱ、難しかったりする……」
いきなり生吹が立ち上がる。誰かが引き戸を開けて入ってきた気配に、衝立の上から様子を見た生吹につられて立ち上がった。
足を引きずった一人の男が慌てた様子で入ってきた。
「あーまずい」
生吹は呟いて衝立を回って男に駆け寄る。見たことがあると思ったら、以前ここに来た時にすれ違った男だ。
「先生、少し匿ってくれ」
目つきの悪い柄の悪そうな男は、そう言って生吹の腕を縋るように掴んだ。生吹は俺のほうをちらと見て「叶人は今すぐ帰れ」と促した。ただならぬ雰囲気から帰ったほうがいいとわかっているが、また蚊帳の外に出されているような、かかわるなと言わんばかりの態度に少しむっとする。
そうしている間にも男は勝手に衝立の中に入っていった。焦ったように生吹が後を追う。
「俺のところに来ても困ります。森田さん」
その苗字には聞き覚えがあった。智也のアパートにいたときに柄の悪い男たちの口から出たものだ。組の金とか持ち逃げとか物騒なことを言っていたから覚えている。
「もう行く所がねえんだよ」
うろうろと歩き回る森田に、言い聞かせるように生吹が言った。
「平仁と連絡を取ったほうがいい」
「ダメだ! 殺される!」
生吹が言い終わる前に森田は声を荒げて震えだした。
こんな男でも平仁が怖いのかと驚く。それに『殺される』とは随分物騒な言葉だ。
「平仁はそんなことはしない。きちんと話をすれば……」
「あんたは奴の怖さを知らねえから、そんなことが言えるんだよ!」
生吹が早く出て行けとばかりに、携帯電話を持っていた手で俺の背中を引き戸のほうに押した。
「少なくとも他の人に見つかるよりはいいのかと思いますが?」
「見つかるわけにはいかねえって言ってんだろ!」
「ここにいてもずっと隠れられるわけがないでしょう」
「わかってる!」
生吹が動こうとしない俺の腕を強引に掴んだ瞬間、静かに引き戸が開いた。
身を屈めて中に入ってきたのは平仁だった。一瞬だけ視線が交差する。平仁は顔色一つ変えなかったが、なぜこんなところにいる? という文句が聞こえるようだった。
森田が慌てた様子で椅子をひっくり返して逃げようとするが、寸前のところで平仁の背後から出てきた智也が対峙するかのように前にふさがった。
「ちくしょう!」
左手に、奥に続くドアがあるだけで、逃げ道はない。じりじりと森田が右に左に移動する。
その様子を智也が両方の拳を握りしめてボクシングの構えを取り見つめていた。
「来るのが遅いよ」
生吹は携帯電話の通話を切った。見ると、平仁も携帯電話を持っている。生吹はずっと平仁と通話状態を続けたまま森田と話をしていたのだ。
智也の背後に立った平仁が一歩前に出た。すると森田は一歩後ろに下がる。足が悪い森田がここから逃げられる可能性は低い。
「東屋さん、俺はやってない」
震える声で森田は言うが、平仁の声は冷たかった。
「それなら逃げる必要はないだろう」
いきなり森田は側にあった椅子を掴んで振り回した。どうしたって、この場を逃げ切れるわけがないのに抵抗を続ける森田に、智也は振り回していた椅子を掴んで強く手前に引いた。反動で森田が床に倒れる。勝負はついたも同然だった。
智也が無理やり森田を立ち上がらせて、引きずるようにドアに向かって歩いていく。
その後を無言で平仁がついて出て行こうとする。
こういう場で引きとめてする話もないが、思わず腕を掴みたくなる。すんでのところで耐えたが、後姿をひたすら目で追う。
元気なようだし、今は姿を見ただけでもいいのだと言い聞かせる。森田の出現によって、何かが変わるのかはまったくわからないが、現状が少しでもいい方に変わってくれたらと願わずにはいられない。
生吹が屈んで椅子を立てる。
「いやー、びっくりしたね」
たいして驚いてなさそうに、生吹が言う。
「ここでもあんなことってあるんだな」
「まあね。さすがに暴力沙汰はないけど、扱う患者がそっち系の人ばかりだから」
「ふーん」
そこにいきなり引き戸が開いて「先生、いるか?」と人が入ってきた。
何事もなく普通に入ってくる男は、慣れた様子で衝立の中まで入って行く。
「ああ、中村さん。どうしました?」
今度こそ、生吹は俺の腕を掴みドアを開けて追い出した。
「コーヒーごちそうさま」
目の前で引き戸が閉まる。
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