無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音

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第四部

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迅さんの腕の中で、俺はしばらく泣き続けた。
涙が止まらず、胸の奥から震えがこみ上げる。
それでも迅さんは何も聞かず、ただ背を撫でていた。

やがて、嗚咽の合間に、小さく口を開いた。
「……天城さんが……」
震える声で名前を出すと、迅さんの手がわずかに止まった。
「……“結婚してるって言っても、番じゃないから”って……。
冗談みたいに言われて……でも、たぶん冗談じゃなくて……」
声がかすれる。
「怖くて……でも、迅さんに言ったら、心配かけると思って……言えなかった……」

迅さんは静かにうなずいた。
「……そっか」
その一言に、責める色はなかった。
ただ、俺の心を受け止めるように。

「……ごめんなさい……っ。
俺、仕事なのに……仕事だったのに、あんな人に抱きしめられて……」
涙に濡れた顔を隠そうとする俺の頬を、迅さんがそっと拭う。
「直樹」
低い声で名前を呼ばれる。
「もう、無理するな。
おまえは優しすぎて、何でも自分のせいにする」
そう言って、改めて抱きしめる。
その腕の力強さに、胸がまた熱くなる。

「……迅さん」
顔を上げると、目が合った。
その瞳に、もう嘘はつけなかった。
「俺を――番にしてください」
途切れ途切れの声で、けれど確かに言葉にした。
「……もう、離れたくない。誰にも、触れられたくない……」

迅さんは短く息を吐き、そして微笑んだ。
「……ああ。わかった」
言葉は少ないのに、その声がやさしくて泣けた。

「でも、もう天城とは二人で会うな。仕事でも、誰かと一緒に行け」
「……はい」
「おまえが何かされたら、俺はきっと冷静ではいられない」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

泣きながらうなずき、また迅さんの胸に顔をうずめる。
その夜は、迅さんとの距離がいっそう深まっていくようだった。


朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込む。
昨夜泣き疲れて眠ってしまった。
目を覚ました瞬間、自分が迅さんの腕の中にいることに気づいた。

大きな手が、まだ背中に添えられたまま。
呼吸のリズムが心地よくて、しばらくそのまま動けなかった。

けれど、もう時間だ。
迅さんが起き出して、俺も続いて起きる。
小さく身を起こし、シャツの襟を整える。
鏡を見ると、少し目が赤い。
それでも、胸の奥には昨日までなかった強さがあった。

「……行ってきます」
会社の前で、迅さんからお弁当の袋を受け取る。
迅さんが、少しだけ眉を寄せる。
「本当に大丈夫か?」
「はい。仕事、だから」
俺は笑ってみせた。
笑いながらも、指先は微かに震えていた。

迅さんが、ゆっくりと歩み寄る。
ネクタイを直してもらいながら、小さく息をつく。
「……あんなことがあったばかりだ。無理はするな」
「うん。でも、逃げたくないから。
迅さんが守ってくれたから、もう大丈夫です」

その言葉に、迅さんはしばし俺を見つめ、静かに頷いた。
「……そうか。じゃあ、行ってこい」
ほんの一瞬だけ、頭を撫でてから、
「気をつけてな」
その声が優しくて、胸が熱くなる。

冷たい風が頬を撫でた。
昨日までの自分とは少し違う気がした。
迅さんの温もりが、まだ背中に残っている。

――大丈夫。
僕にははちゃんと、迅さんがいてくれるんだ。

そう心の中でつぶやきながら、まっすぐ職場へ向かった。


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