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56.キス
しおりを挟む翌朝。
食堂で向かい合って座るリュカは、いつも通りだった。
「……何だ、その顔」
ゼファールが言うと、リュカはパンをちぎりながら首をかしげる。
「?」
「……いや」
寝不足なのは、ゼファールだけだ。
リュカは何にも気づいていない。
昨日と同じように食べて、飲んで、
「今日は、剣の稽古ある」とか、そんな話をする。
(……覚えていないのか)
それが少し、寂しかった。
でも――
同時に、ほっとしている自分もいる。
昼間も、特別なことはなかった。
すれ違えば挨拶をして、
近づいても、近づいただけ。
そして夜。
寝室に入ると、リュカはいつも通り服を脱ぎ、ベッドに座った。
ゼファールは、少し緊張している。
「……今日は」
何か言おうとして、やめた。
リュカは気づかない。
布団に入る前、ふと、ゼファールのほうを見る。
「……」
ほんの一瞬、迷うような間。
それから、当たり前のように、人の姿のまま、ゼファールの隣に腰を下ろした。
肩が、触れる。
ゼファールの呼吸が、わずかに乱れる。
(……近い)
リュカは、気にしていない。
ただ、自然にそうしただけだ。
少し、体重を預ける。
「……おやすみ」
声は小さい。
また、触れるかどうかくらいの口付けをすると、
そのまま――白い光に包まれて、オオカミの姿になった。
次の瞬間には、いつものように、ゼファに身体を寄せて眠っていた。
安心しきった呼吸で。
「……」
ゼファールは、天井を見つめたまま、動けないでいた。
(……ずるいな)
人の姿で近づいて、触れたいと思わせて。
そのまま、本能に戻ってしまう。
逃げたわけじゃない。
リュカにとっては、ただの「眠り方」だ。
分かっている。
分かっているのに。
そっと、オオカミの背に手を置く。
温かい。
信頼されているんだな。
それだけで、十分なはずなのに。
「……本当に、ずるい」
返事はない。
リュカは、安心しきって眠っている。
ゼファールだけが、
その距離の意味を、考え続けていた。
次の夜。
灯りを落とした寝室。
リュカは、布団の端に座ったまま、まだ人の姿でいた。
最近は少し違うけど、いつもなら、もうオオカミになっている時間だ。
「……」
ゼファールは、その背中を見て、少しだけ迷ってから――動いた。
リュカが何か話す、その直前。
肩に手を置き、ほんの一瞬、距離を詰めて。
軽く、口づける。
「……っ!?」
リュカが、目を見開く。
顔が、みるみる赤くなる。
「な、な……!」
言葉にならない。
リュカは、オオカミに戻ることも忘れて、その場で固まっている。
ゼファールは、しまった、という顔をするでもなく、
少し困ったように、でも優しく笑った。
「……お前は」
静かな声で。
「本当に、かわいいな」
次の瞬間。
ばふっ、と音がしそうな勢いで、
青灰の毛並みが広がった。
耳がぴん、と立ち、尻尾が一気にもふもふに逆立つ。
「……」
ゼファールは、一瞬驚いてから――吹き出した。
「はは……」
そして、ためらいなく手を伸ばす。
もふもふの背。
逆立った毛を、ゆっくり撫でる。
「そんなに照れるな」
オオカミの姿のリュカは、低くうなるような声を出していたけど、逃げはしない。
むしろ、少しだけ、体を寄せる。
「……ほら」
ゼファールは、楽しそうに微笑みながら、その温もりを受け止めた。
「おやすみ、リュカ」
返事はない。
ただ、もふもふになった尻尾が小さく揺れていた。
翌日、朝の廊下で会っても、リュカはいつも通りだった。
「おはよう」
「おはようございます」
声も、態度も、変わらない。
昨日の夜のことなど、まるでなかったかのように。
ただ――目だけが、合わない。
(……分かりやすい)
ゼファールは何も言わず、リュカの様子を見ている。
昼も同じだ。
剣の稽古の報告、魔術の課題、食事の席。
完璧だ。
あまりに、完璧すぎる。
感情を隠せているつもりなのだろうか。
ゼファールは、何も触れない。
からかわない。
蒸し返さない。
ただ、少しだけ、目を細める。
(……かわいい)
そして夜。
寝室に入ると、リュカはいつもより静かだった。
服を整え、ベッドに座る。
「……」
今日も、すぐにはオオカミにならない。
ゼファールは、待つ。
リュカは、少し迷ってから、人の姿のまま、横になる。
距離は、昨日より少しだけ、近い。
ゼファールは何も言わない。
しばらくして、リュカが小さく息を吐く。
「……おやすみ」
声が、少しだけ硬い。
「ああ」
ゼファールも、静かに返す。
それから、白い光が揺れて、リュカはオオカミになる。
いつものように、自然にゼファールに寄り添う。
でも――
今日は、ほんの少しだけ、
体重の預け方が違う。
(……)
ゼファールは、そっと背に手を置く。
撫でるでもなく、離すでもなく。
「……お前」
小さく、独り言のように。
リュカは眠っている。
何事もなかったように。
それでも夜ごと、二人の距離は、確実に縮んでいった。
言葉も、約束もないまま。
ただ、触れないぎりぎりのところで。
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