2 / 16
プロローグ
点滅する巨大繭
しおりを挟む
地上――ロドリネ。
空は網膜の裏側のように不健康で、雲は白ではなく灰色の紙が蜘蛛の巣に絡み張り付いている。
ビルの骨が折れ曲がっては糸に吊られ、どの角度にも“線”が走っている。風が吹くたび、その線はきしみ、化学的な溶剤の匂いを撒いた。
フウカは《霊葬》二式を肩に担ぎ、足場の悪い瓦礫の上を躍る。軽い。彼女の骨格は小さいが、筋肉は縄のように締まっている。
「あたい、先行く。死角は任せたよ、クシェル」
「任せろ」
(胃は……まだ持つ、まだ何もしてないだろ俺)
クシェルは崩れた駅舎の天井に伏射の姿勢を取る。スコープを通すと、世界は罫線で仕切られた静物画になる。遠くで何かが揺れた。立体交差の上、粘つく糸の塊が、心臓の拍動に合わせて膨らんでは縮む。
その塊から、ひとつ、二つ、白く細いものが垂れた。足だ。幼体の蜘蛛が、脱皮したばかりの薄い殻を引きずり、地表へ落ちる。その足が瓦礫に触れた瞬間、金属が酸に触れたような音が立った。
足裏の推進拘束具《ブーツリグ》が圧縮空気を吐き、彼女の身体を弾丸のように搬送する。蜘蛛幼体が振り向くより早く、フウカは肩越しに一式を構え、短く息を吐いた。
祝詞は舌の裏で始まり、喉頭で震え、銃身の中の透明な弾腔に文字の形で沈殿する。――発射。
弾は音を持たない。空気の密度だけが一瞬、紙を裂いたように薄くなる。幼体の頭部が遅れて崩れ、黴の芽のような黒い微粒子が空へ散った。
スコープの中で、クシェルは息を止める。
次の個体が、フウカの真上の梁にいた。糸を吐く準備をしている――酸糸。装備に付いた瞬間、繊維が焦げ、関節が固まる。
「上」
短い声と同時に、彼は偏向投射を撃った。
弾道は曲がる。金属ではなく、祈文で書かれた曲線に沿って。梁と梁の隙間をなぞるように滑り、幼体の眼球の縁に吸い込まれた。白濁した液が飛散し、糸の準備は潰えた。
フウカが指を立てる。「ナイス。……やっぱ遠眼は、あんたが一番だ」
「作業だ」クシェルは視線を引かずに言う。
(褒め言葉は毒だ。甘い匂いで胃に膜を張り、後で剥がれるときに血が出る)
風が変わった。
都市の奥から、低い波長が押し寄せる。音ではない。胃の内側と鼓膜の間――人の身体の“空洞”だけが共鳴するやつだ。
遠く、巨大なものが、笑った。
アリアドネ。
名を知る前から、存在は身体に刻まれている。視界にはまだ現れない。しかし、糸が、都市の全方位で同じリズムを刻み始めた。点滅。点滅。点滅。
フウカの頬に、光が網目状に走った。「来る、ね」
「まだだ」クシェルは答えながら、自身の掌に滲む汗を袖で拭った。汗は冷たい。だが手は震えない。震えるのは胃だ。
(平坦、平坦。臆病は内部の家具。人前に出すな)
「目標まで、あと六百。巣核の温度、上昇中」
基地からの通信が耳内骨導に落ちる。その直後、別の声が微かに混じった。基地の周波数ではない。
――こちらへ。
耳の奥の、血の味がする場所で、誰かが囁いた。
フウカは歯を食いしばる。「黙ってろ。あたいの耳は貸し出し中じゃない」
クシェルは返事をしない。返せば絡まる。言葉は糸だ。一本出せば、千本が絡む。
二人は瓦礫の谷を滑り降り、点滅する繭の中心――女王の喉元へ、歩幅を合わせた。
空は網膜の裏側のように不健康で、雲は白ではなく灰色の紙が蜘蛛の巣に絡み張り付いている。
ビルの骨が折れ曲がっては糸に吊られ、どの角度にも“線”が走っている。風が吹くたび、その線はきしみ、化学的な溶剤の匂いを撒いた。
フウカは《霊葬》二式を肩に担ぎ、足場の悪い瓦礫の上を躍る。軽い。彼女の骨格は小さいが、筋肉は縄のように締まっている。
「あたい、先行く。死角は任せたよ、クシェル」
「任せろ」
(胃は……まだ持つ、まだ何もしてないだろ俺)
クシェルは崩れた駅舎の天井に伏射の姿勢を取る。スコープを通すと、世界は罫線で仕切られた静物画になる。遠くで何かが揺れた。立体交差の上、粘つく糸の塊が、心臓の拍動に合わせて膨らんでは縮む。
その塊から、ひとつ、二つ、白く細いものが垂れた。足だ。幼体の蜘蛛が、脱皮したばかりの薄い殻を引きずり、地表へ落ちる。その足が瓦礫に触れた瞬間、金属が酸に触れたような音が立った。
足裏の推進拘束具《ブーツリグ》が圧縮空気を吐き、彼女の身体を弾丸のように搬送する。蜘蛛幼体が振り向くより早く、フウカは肩越しに一式を構え、短く息を吐いた。
祝詞は舌の裏で始まり、喉頭で震え、銃身の中の透明な弾腔に文字の形で沈殿する。――発射。
弾は音を持たない。空気の密度だけが一瞬、紙を裂いたように薄くなる。幼体の頭部が遅れて崩れ、黴の芽のような黒い微粒子が空へ散った。
スコープの中で、クシェルは息を止める。
次の個体が、フウカの真上の梁にいた。糸を吐く準備をしている――酸糸。装備に付いた瞬間、繊維が焦げ、関節が固まる。
「上」
短い声と同時に、彼は偏向投射を撃った。
弾道は曲がる。金属ではなく、祈文で書かれた曲線に沿って。梁と梁の隙間をなぞるように滑り、幼体の眼球の縁に吸い込まれた。白濁した液が飛散し、糸の準備は潰えた。
フウカが指を立てる。「ナイス。……やっぱ遠眼は、あんたが一番だ」
「作業だ」クシェルは視線を引かずに言う。
(褒め言葉は毒だ。甘い匂いで胃に膜を張り、後で剥がれるときに血が出る)
風が変わった。
都市の奥から、低い波長が押し寄せる。音ではない。胃の内側と鼓膜の間――人の身体の“空洞”だけが共鳴するやつだ。
遠く、巨大なものが、笑った。
アリアドネ。
名を知る前から、存在は身体に刻まれている。視界にはまだ現れない。しかし、糸が、都市の全方位で同じリズムを刻み始めた。点滅。点滅。点滅。
フウカの頬に、光が網目状に走った。「来る、ね」
「まだだ」クシェルは答えながら、自身の掌に滲む汗を袖で拭った。汗は冷たい。だが手は震えない。震えるのは胃だ。
(平坦、平坦。臆病は内部の家具。人前に出すな)
「目標まで、あと六百。巣核の温度、上昇中」
基地からの通信が耳内骨導に落ちる。その直後、別の声が微かに混じった。基地の周波数ではない。
――こちらへ。
耳の奥の、血の味がする場所で、誰かが囁いた。
フウカは歯を食いしばる。「黙ってろ。あたいの耳は貸し出し中じゃない」
クシェルは返事をしない。返せば絡まる。言葉は糸だ。一本出せば、千本が絡む。
二人は瓦礫の谷を滑り降り、点滅する繭の中心――女王の喉元へ、歩幅を合わせた。
0
あなたにおすすめの小説
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる