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急.主と朝寝がしてみたい
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急.主と朝寝がしてみたい
或いは100年を守りし墓守、走馬灯に愛しき神子を想う。
「うああああああああ!!!!!」
空を劈く慟哭が、彼の世界を木霊した。
泣かせたいわけじゃないんだ。
悲しませたいわけじゃ……。
言葉を吐き出そうにも、黒い血が喉の奥から溢れてくる。
彼の涙を拭おうと差し出した手は、黒い枝に狭まれ、頬に届く前にミシミシと音を立てて人の形状を失う。
あと一歩のこの距離が、酷く遠く……。
失われる体の輪郭と、薄れゆく意識の奥で、かすかに聞こえる愛しき者の慟哭。
意識が消え去る刹那、走馬灯のように今までの出来事が脳裏を過る。
遥か遠い昔の、顔や名前すら忘れかけてしまっていた両親の顔、迷子になって泣いた森の中、散った桜を恨めしく睨んだあの並木道、期待と不安で張り裂けそうになりながら踏み出した異郷の地、世界を絶望に染めたあの災厄の日々……。
そして絶望が続く世界に目覚めて――
「指名依頼を出したのはあんたか」
「……ええ、そうです」
傭兵が依頼を受ける酒場の特級階級が使う個室に、フードで顔を隠した男が護衛を引き連れてやってきた。素性を隠そうとしていたようだが、男の装飾や護衛の装備からしてこの国の重鎮であることは間違いないだろう。
――ああ、そうだ。あの依頼を受けたのはこの男からだ。
「とある御身をこの首都から西方にある神殿に秘密裏にお連れ頂きたい。期限は問わず、報酬はアルステラ金貨300枚の即金払いです」
「成功報酬なしで即金払い……持ち逃げされるとは思わないのか?」
「あなたが“墓守”であるならば、そのような事はしないでしょう」
「……額が桁外れだ。期間も不明瞭で開示される情報も少ない。怪しいとしか思えないな」
「………数百年に一度お生まれになる神子が、この国の末皇子というのはご存じでしょうか」
「墓守の情報網で多少は」
「神子を“神代の神殿”にお連れし、祭壇に首を捧げて頂きたい。最期の瞬間まで悟らせずに」
薄く、息を吐く。
「……その様子だと、神子本人からも命を捧げることを最期まで隠し通せということだろうか」
「はい。皇帝は疑問を持たせることなく使命を果たせるように、神子を無垢のままにお育てになられました」
「無知のまま、だろう。それこそあんたが後ろに連れているような御大層な騎士殿たちに神輿を担いで連れて行かせればいいだろう。墓守に頼る必要ないんじゃないか?」
「それも考えましたが……国の者が護衛しましたら、あの方は最期まで神子としてしか生きられないだろうと……」
「国の者じゃないものが護衛すれば多少変わると?」
「あの方は生れ落ちた時から神子としてお育ちになられました。言動は多少……稚拙なところは見受けられますが、この使命に疑問を持つことなく健やかにお育ちになられました。我々が依頼したいのは、神子を“神代の神殿”に無事にお連れし、人柱にすること。期限は問わず。あの方が旅の途中に見聞きし、望まれることがあれば、それを最優先にすること。旅の中ではあの方のしたいようにさせて頂きたいのです」
「なるほど、死の間際の一時の自由というやつか。だが、そんな御大層な神子さまを連れて……なんて、盗賊などに襲われたら一発じゃないか?」
「そのような神聖なる神子さまが、たった一人の傭兵しか連れずに神殿を目指しているなんて、誰が信じましょうか。豪商が気の触れた放蕩息子を護衛に投げて厄介払いしたと思われるのが落ちです。それに、漆黒のグレイブ。あなたほどの腕前ならば、魔物だけでなく人からも神子をお守りできるでしょう」
「……まぁ、墓守の中で一番強い者を。との指名依頼だからな。ある程度なら……一個師団ぐらいならば切り抜けられるな」
「その名を継ぐ何代目かは存じ上げませんが、魔物討伐を専門とする傭兵団。その中でも一等強いあなたならば、この任務を成し遂げられるでしょう?」
魔素が濃くなり大型の魔物も大量に跋扈するようになると、人類を殺し尽くさないようにと神子が生まれる。
数百年に一度繰り返されるその世界のサイクルを知ってはいた。
だが、まさか自分がその神子を神殿に連れていく役目を果たすことになるなんて……と最初は皮肉に思ったっけ。
引き合わされた神子は、あまりにも当初に想像していた身を犠牲に人々を救う聖人の像とはかけ離れたものだったけれど。
何度、宰相の言っていた“多少……稚拙”の評価が詐称すぎて、説明責任違反すぎじゃねーの!? って何度も思ったことか。
宰相にくれぐれも神子を安全にお連れしてくださいね、の念押しから10秒後には勝手にお池にはまるし……。
勝手に触るな、掴むな、口に入れるな。いきなり走り出すな。
なんて幼児に聞かせるような注意を何度もすることになるなんて、思いもしなかった。
慌しくも必死で。
神経質になることが馬鹿らしくなってくるような。
彼の寄り道をひとつひとつ丁寧に拾い上げて、最期の巡礼の旅を歩んだ。
本当に……まったく。
死んだ目をしているって。
そりゃそうなるだろうよ。
この世界はあまりにも残酷で、人類の敗北しか見いだせない。
感情を動かすことなく、あまり今を生きる者たちへの過干渉にならないように……静かに静かに……失われてしまった旧世代の墓を守ってきた墓守にとって、彼は少々刺激的過ぎた。
「あ、今星が光った! あれはなんだ? なんで星が落ちてくるのだ?」
「昔本で読んだことがある! あれは蜂蜜が出てくるという巣だろう? なんで私を小脇に抱えて走り去るのだ! ただ突いただけじゃないか! おい待てなぜ逃げる! はやくあの蜂蜜を私に献上するのだ!」
「私の部屋のベッドが硬いから、代われ。ん? グレイブがどこで寝れば良いかと? その隅っこで蹲って眠っていればいいじゃないか。とにかく寝れないから代われ」
ああ、本当に死んだように生きてきたのに、理不尽と感情の塊がいきなり飛び込んできたんだ。
坊ちゃん、クソ坊……愛しの神子。
あの命の輝きを、自らの手で摘み取らなければならないなんて。
最初から旅の最後がわかりきっていたはずなのに。
だからこそ、あまり思い入れないようにと。
……そんな自制は途中でできなくなったけれど。
この森が終わったら。
――“神代の神殿”にたどり着いてしまう。
“神代の神殿”にたどり着いたら。
――この命を殺さなくてはならない。
反吐が出そうな神が与えたという代々の神子に伝わる名前を聞いた夜。
パチパチとはねる薪の火を見ながら、彼に尋ねた。
「ええ、神代の神殿はこの深い森を越えた先です。間もなく着きますよ」
「ふふ、楽しみだ。民草よ、待っていろ。私の祈りが神に届けば、魔物に怯えることもなくなる!」
「坊ちゃんは……嫌になることはないんですか?」
「何がだ?」
「だって、坊ちゃんの肩に世界の救済が掛かっているってなかなかのプレッシャーでしょう」
「何を言っている? 神子として生れ落ちたときからの私の使命だ。私だけしか成し得ないことだぞ。この私が祭壇で祈りをささげるだけで数十年は魔物の脅威が去るのだ。神子としてそのためならばこのような旅も厭わない!」
彼の瞳には一切躊躇は見えなくて……純真で無垢な輝きで満ち溢れていた。
もう間もなく、旅の終わりが訪れる。
だからこそ、あの古代遺跡を見つけた時、暗い望みを抱いてしまったのだ。
この施設の中だけならば、魔素も魔物も遮断して生き続けることができる。
彼が彼として生き続けることが……果たして彼の望みを絶ってまで叶えることが……彼にとっての幸福になるのかはわからない。
酷く醜くて感情的な…願い。
ただ、彼に生きていて欲しい。
……傲慢なのに、チョロくて馬鹿可愛い…あのジーンに生きていて欲しい。
彼の神子としての使命をねじ伏せてでも……もう家族に会うことができなくなるとしても……。
それでも、俺はジーンに生きていてほしい。
俺の望みにまみれた暗い願い。
それを叶えるために、取引をした。
あの“神”と呼ばれる管理者に。
ジーンを寝かしつけた最初の夜。
俺は長く白い廊下を渡り、外に出た。
夜風に木々が揺れる。
管理者は、空気に溶けるように存在する。
きっとどこかでこの様子も見ているだろう。
「管理者よ! 取引がしたい!! 神子の命の代わりに、何を差し出せば対価となる!!」
俺の声だけが森に吸い込まれ、何も返ってくる音はしない。
『取引? 珍しいですね。あなたたち旧世代の者たちは、もうこの世界に干渉しないのでは?』
シンと静まり返った中で、男とも女ともとれる奇妙なノイズの入った声が頭に響く。
「個人的な、取引だ……。他の者は関係ない」
『ふふふ、良いですよ。この星の管理がうまく行き届きすぎてね。この数百年刺激がなくて厭きていたところです。現在大量発生している大型の魔物、それと今後数十年は産まれるであろう魔物をあの神子の血でもってして治めようとしていたのです。その魔物たちをあなたが代わりに狩り取れば、対価としてもよいでしょう』
「……神子による神の奇跡の代行か。反吐が出るほど嬉しいぜ」
『そうですね、ふふふ、たしかあなた方が思う神とは試練を与える者の事でしたね? 100年、この地に魔物を集めましょう。100年の間、魔物の中から濃縮された魔素を献上しなさい。それができたのなら、今世の神子を解放しましょう』
「100年…だと……っ」
『人の身では、100年は生きられない? ええ、承知しておりますよ。神子の体を不変のものに作り変えましょう。それならば、試練が終わった頃には死んでいた、なんて酷いことにはならないでしょう?』
「……そうだな」
『しかし、ぬかるみのような試練ではつまらないでしょうし、神子を連れて逃げ出されても叶いません。神子を眠らせましょう、100年の間。すべてが終わるその瞬間まで。契約を途中で投げ出されてはたまりませんからね。あなたが成し遂げるまで、神子は眠り続けるのです」
「待て! そんな……っ」
『ああ、しかしそうですね。たしか同胞が言っていました。“希望がなければ人は生きられない”と。あなたへの希望として、1年に1回……我々の収穫祭の日に彼を起こしましょう。その1日をご褒美に残りの日々を使いなさい』
「………っ」
『そうそう。いいことをお伝えしましょう。神子はその構造から魔素を一定取り込まないと生きていけないのですが、あの保護施設は抗魔がしっかりとしていますからね。取り込むことが困難になるでしょう。1年に1度起きた際にはしっかりと中に魔素を注いでやってくださいな』
……普通の人ならば体を壊すような魔素の濃い森の中で、一層元気になった彼の様子からある程度は予想していたけれど……それをここで示唆するなんて。
「……俺の体液にも魔素は溶けているからな」
唾液でも血でも。
『ふふふ、あなたならば知っているはずです。魔素が一番濃くなるのが何の液体なのか。原生物の交尾程滑稽で面白いものはないですからね! はははっ』
本当に、このクソ野郎が。
『魔素は神子の体に一定は蓄積されていますのでしばらくは持つでしょうが、いつまで持ちますかね。ふふふ……面白い見世物を期待しておりますよ』
「ちっ契約を、守ってくれよ管理者。必ず、必ず100年後に彼を解放しろよ」
『約束は守りましょう』
「それとここからは純粋な願いだ。もし俺の体が蓄積する魔素に耐え切れず、魔物化するようなことがあったら……蓄積された膨大な魔素によって、今まで産まれた魔物の中でも一等凶悪な物が生まれるだろう。だから、魔物ではなく魔樹に構造を作り変えてくれ。濃い魔素を放出する魔樹ならばお前たちにとっても損はないだろう」
『ふふふ、その願い承知いたしました。あなたがこれからの100年、狂うことなく戦い続けられるか、とても楽しみですね』
そうして、俺の100年にわたる長い戦いが始まった。
ジーンは本当にびっくりするぐらいにその状況をすんなりと受け入れて(いや本当になんで一切疑問も持たずにこちらの言葉を受け止めるんだ!? と頭を抱えたけれど)一切何も気づかずに日々を過ごした。
いきなり無礼にも犯そうとしている男だというのに、ジーンは素直に受け入れるし……。
本当はすぐにでもジーンの中に魔素を含むものを注がないといけないとは思っていたが、想像以上に16年の歳月がかかってしまったし。
……最後のほうは本人はあまり気づいていなかったが、ぼんやりと魔素不足のせいか呼吸がしづらそうだった。
呼び寄せられる魔物を倒し、その濃縮された魔素を放出させる日々。
魔物の肉を裂けば血油で滑り、剣が駄目になる。
“斬る”というよりも“砕く”ほうが似合いの無骨な大剣。
魔物の群れが途切れた時に川の水で血汚れを落とし、剣を研ぐ。
数日に一度、保護施設に戻って物資を生成装置で作りながら、眠るジーンの顔を見に行く。
それがここ数十年の日課になっていた。
終わらない悪夢の中で、唯一。
収穫祭……ジーンの起きる日だけが心の支えだった。
もう無理なんじゃないか。もう、俺の心は削れてもう終わらない戦いを続けていくことは無理なんじゃないか。
そう、心が死にかけている時にだって、ジーンは変わらず馬鹿可愛かった。
「はっははは!! なんだそのくたびれた姿は!」
「開口一番それ……殴りたい……この笑顔……」
どんな絶望の最中だったとしても、ジーンはジーンのままだった。
俺の愛したあの子はいつだって横暴で、いつだって傲慢で……そして少しだけ甘えるようになった。
このまま抱き合って朝まで迎えてみたい。
けれども、朝にはジーンの起きない次の1年が始まるのだ。
あんなにも生の輝きに満ちているのに、朝になっても起きることはない。
たった1日、邂逅が許されたその日にはたくさん抱き合ってたくさん語らいあった。
燃える水の話、いにしえの神話、忘れかけていた国の言葉。
1年のうちたった1日を希望に魔物を屠る。
噂を聞きつけた同胞には愚か者めと顔を顰められた。
けれども100年の間、だんだんと強くなる魔物の群れに限界を感じながらも。
ただただ彼の未来のために。
そして――
解放の時が訪れた。
神が彼に伝えた言葉は一番知られたくないことばかりだった。
本当に、彼には何も知ってほしくなかった。いや知ってほしかった。
別れたかった。いや離れがたかった。
心が二分する、矛盾した想い。
彼の慟哭が聞こえる。
どうか、どうか。
管理者ではない神よ。いるのならば、いてくれるのならば。
どうか、俺の愛しい者を幸せにしてほしい。
ジーンを、あの子が幸せに生きられる道を。
目まぐるしい瞬きのような走馬灯が途切れ、意識が消える。
姿形は変わっても、あの子の傍に――
**************************
天まで届くかのように高く伸びた木の枝が、その周囲を覆う。
魔素を含む黒い葉が、花びらのようにひらひらと降り注いだ。
「神よ! この世界の神と呼ばれる者よ!! お前は知りたくはないか!! 希望がなくとも人がどれだけ狂わずにいられるか!!! 世界に厭きたお前と取引がしたい!!!」
未来を託された白い髪の青年は、泣きじゃくった跡の残る顔で虚空を睨みつけた。
その瞳は赤く燃え上がり、強い輝きを帯びていた。
『どうしました、神子よ。もうあなたは自由なのですよ? ふふ、道しるべを失った世界を、あなた1人の足で生きていかなければ』
「あなたは言った。何万年もの間管理してきて一番面白い100年だったと。ならば、ここでその道楽が終わるのは惜しくはないか!?」
『……話を聞きましょう』
「この男が私の代わりに魔物を100年倒してきたのなら……。たった1人で耐え抜いてきたのなら、私はこの男の10倍の時を1人で生き抜こう!!」
神子と呼ばれた青年は強い意志をもって宣言する。
「千年だ! 千年!! 千年の間、この血を持って魔物を抑えよう!! どうだ!! お前の同胞たちは“人は希望がなければ生きていけない。長くは持たない”と言った! だからこそ、1年に1度この男に与えられる希望が私だったというのならば、千年の間……希望も持たずに人が耐えられるかどうか、お前たちは知りたくはないか!!?」
『千年……1人で……狂わずに……?』
「ああ! 一度も狂わずに。毎日血を捧げる。この血になんらかの魔物を倒す効果があるのだろう? 命もなくば難しいか?」
『いいえ、“神代の神殿”の祭壇とは神子の持つ抗魔の血を世界に拡散する装置に他なりません。命ではなく大量の血でも十分でしょう。あなたを不変の生物にしましたが、痛覚も他の生物と変わりません。むしろ精神などは他と比べて脆弱なほどでしょう。なのに、千年も耐えうると?』
「ああ、耐えてみせよう。何万年も生きる神と呼ばれるものたちよ。おまえたちの娯楽となろう。人がどれだけ耐えられるのか。狂わずに生きられるのか。その代わり……その代わりに私のものを返せ。私の……私のラーイを……彼を……返してくれ……」
『ふふ……ふふふ……いいでしょう。いいでしょう。遺伝子操作は我々の領分。魔樹から記憶と記録を抽出して、複製を作ることなど造作もないことでしょう。千年もの長き間を孤独と絶望に耐えられるのならば、そっくりそのまま返して差し上げましょう』
「約束だぞ! 約束したぞ神よ!! 私は、私は千年の孤独を耐え抜こう!!!!」
その瞳は赤く煌めき、千年にわたる長い長い孤独が幕を上げた。
生命が生まれ、育み、その生を謳歌する。
命を繋ぎ、後世に託し、その生を閉じていった。
文明が芽生え、隆盛し、朽ちる。その姿が伝承として語り継がれていった。
神殿の近くにある大木は、その姿を一切変えることなく季節によって涙を落とすかのように黒い葉をはらはらと落としていく。
春が過ぎ、夏を迎え、秋の実りが地面を満たすころ、冬のベールが山を包む。
命が廻り季節が廻り、多くの人の瞬きを過去へと押し流した。
その大木は、数百年も前からそこにあり、不思議とその周りには魔物は寄り付かなくなっていた。
数万年前の星の消滅の余波が、空を満たす。
流星群が空を覆い、そのきらめきが天文台の記録として後世に伝えられていった。
その世界は魔物の脅威が薄れ、神の祝福と崇められ、奉られた。
しだいに、その祝福が常となり、神の存在も忘れかけられた。
その大木の根元に刺さる折れた遺物は、すでに風化して黒鋼の塊と化していた。
しかしそれはずっとそこにあり、主の姿を思い起こさせる唯一のものとなっていた。
何千何万もの朝と昼を繰り返し。
多くの生命の循環を見つめ。
長い長い孤独を越え。
そして――
**************************
はらり、と頬に落ちたものは、最初なんだかわからなくて、ふっと手で触り取り除いてみると、どうやら灰色の葉のようだった。
軋む身体にぼんやりとした視界。赤と白のような虹彩が目に入ってくるが、それがなんなのか、よくわからない。
声を出そうとしたが、喉が渇きすぎていて、喉の奥が引き攣れる。
「あ……はは……はははっ! お前は! ずいぶんと寝坊助だな! もう朝寝を過ぎて昼前になってしまったぞ!!!」
今度は、ぽた……ぼたぼたと上から水滴が降ってくる。
歪む視界を瞬いて、ぼんやりとした焦点を合わせる。
そこには、枯れた大木の下で俺を覗き込むとても美しい人の形をしていた。
赤と白の装束を着た、世界で一番愛しい者の姿をした使者。
そうか、死後の天使の迎えというやつか。
俺の生まれ故郷にそって、似たものを遣わしてくれたのか。日本風とは洒落が利いている。
「雷、雷。何をぼんやりとしているんだ。私がだぞ、この私が膝枕をしてあげているというのに……感謝して、喜べ! 感涙して崇め奉れ。いや、そんなことはいいから……はやく私をぎゅっとしろ」
ああ、本当に……どこまでも坊ちゃんそっくりな言い回しがクソ可愛いな……って。
「本物?」
「こんなに尊くて崇拝できる至高の存在が他にいるか?」
「いや、こんな言い回しのクソ坊は……ジーン坊ちゃんしかいないな」
本当に本物? と、綺麗に泣いているその頬に手を触れる。
……温かい。赤い瞳から流れ落ちた涙が、頬に当てた手を滑り落ちていく。
でも、俺は…俺は最期魔樹になったはずで……。
「はは、あははっラーイ……雷……私はやったぞ! やってやったぞ!! すべての烏を殺してやった! 三千世界の烏を殺し尽くして、すべての起請文を破り捨ててやった!! 私は、私は神を克してやったぞ!!!」
泣きながら笑う彼は、信じられないほどに神々しくて美しかった。
「……そうか。もう、起請文はないのか。もう……神に縛られることはなく、お前と抱き合えるのか」
「ああ、本当に……ふふふ、あの最後の神と呼ばれる管理者の悔しそうな声と言ったら! ちゃーんとお前を元に戻させたが支障はないな?」
「体は軋むが、まぁ、問題はない。何か……何かお前は神と取引したのか?」
「お前の100年に比べたら、なんてことはなかったさ」
「本当に?」
「本当に。ただ少しだけ時間があったから、管理者たちにお灸をすえてやっただけだ」
「……どうやって……?」
「魔素というのは管理者たちの餌だったそうだな。食物連鎖を経て濃くなるように、この世界を作り変えたのだと。ならばと古代遺跡に残されていた記録を読み漁って、生成装置を作り変え、その魔素にちょっとだけ成分を変えてやったに過ぎない」
「記録……ああ、あの古代文明で記録された媒体か……成分を変えるってどうやって……」
「あっはは! お前たちの時代にはあったそうだな。麻薬というものが。一度摂取すると、同じものを摂取したくてたまらなくなる禁断の中毒性。それをこの世界で実験的に作った人工魔素に混ぜてやったのだ。そうしたらどうだ、管理者たちの中でその特性魔素の需要が高まり、その生成方法を知る私の言うことを聞かざるを得なくなったのだ! はははっ」
「………っ」
「ふふん! どうだ! 恐れ入ったか!」
「え、うちの馬鹿可愛いジーンがなんか頭の良さそうなことを言ってる。本物?」
「驚くのはそこじゃない!! ふん! お前が最初に言ったのだぞ。馬鹿みたいに年輪だけ増やしたお前みたいな木ではないからな。まっさらな分、すべてを吸収して知識を蓄え管理者たちを見返してやったぞ!」
俺の頬をつねる華奢な手は昔と変わらないのに、その手首の内側に無数に走る赤い線が痛々しく感じられた。
「なぁに、ちょこっとだけ、時間があったからな。1日に1回血を流すだけで良かったし。それ以外のすべての時間を知ることに使ったのだ」
「ジーン、空が……空気が澄んでいる」
「私が人工魔素装置を作ったからな。空気に噴霧して魔物を作るよりは合理的になったのだ。今では魔物の姿を見ることのほうが稀だぞ?」
「ジーン、お前の体は……」
「人工魔素を作れるようになった、といっただろう? 必要分は接種している。管理者は最後の最後まで悔しそうにしていて、時間の短縮は一切認めなかったがな……」
さらりと言うが、どれだけの時間がかかったのだろう。
ジーン、お前は……。本当にお前は……。
「雷、烏丸雷。ずっと……ずっと……会いたかった……お前に……ずっとただ…それだけが…それだけが望みで……」
またぽろぽろと泣き出した愛しい者を強く抱き締める。
「また、お前に会えるのを夢見ていた」
積もる千年のその先に。
―終―
或いは100年を守りし墓守、走馬灯に愛しき神子を想う。
「うああああああああ!!!!!」
空を劈く慟哭が、彼の世界を木霊した。
泣かせたいわけじゃないんだ。
悲しませたいわけじゃ……。
言葉を吐き出そうにも、黒い血が喉の奥から溢れてくる。
彼の涙を拭おうと差し出した手は、黒い枝に狭まれ、頬に届く前にミシミシと音を立てて人の形状を失う。
あと一歩のこの距離が、酷く遠く……。
失われる体の輪郭と、薄れゆく意識の奥で、かすかに聞こえる愛しき者の慟哭。
意識が消え去る刹那、走馬灯のように今までの出来事が脳裏を過る。
遥か遠い昔の、顔や名前すら忘れかけてしまっていた両親の顔、迷子になって泣いた森の中、散った桜を恨めしく睨んだあの並木道、期待と不安で張り裂けそうになりながら踏み出した異郷の地、世界を絶望に染めたあの災厄の日々……。
そして絶望が続く世界に目覚めて――
「指名依頼を出したのはあんたか」
「……ええ、そうです」
傭兵が依頼を受ける酒場の特級階級が使う個室に、フードで顔を隠した男が護衛を引き連れてやってきた。素性を隠そうとしていたようだが、男の装飾や護衛の装備からしてこの国の重鎮であることは間違いないだろう。
――ああ、そうだ。あの依頼を受けたのはこの男からだ。
「とある御身をこの首都から西方にある神殿に秘密裏にお連れ頂きたい。期限は問わず、報酬はアルステラ金貨300枚の即金払いです」
「成功報酬なしで即金払い……持ち逃げされるとは思わないのか?」
「あなたが“墓守”であるならば、そのような事はしないでしょう」
「……額が桁外れだ。期間も不明瞭で開示される情報も少ない。怪しいとしか思えないな」
「………数百年に一度お生まれになる神子が、この国の末皇子というのはご存じでしょうか」
「墓守の情報網で多少は」
「神子を“神代の神殿”にお連れし、祭壇に首を捧げて頂きたい。最期の瞬間まで悟らせずに」
薄く、息を吐く。
「……その様子だと、神子本人からも命を捧げることを最期まで隠し通せということだろうか」
「はい。皇帝は疑問を持たせることなく使命を果たせるように、神子を無垢のままにお育てになられました」
「無知のまま、だろう。それこそあんたが後ろに連れているような御大層な騎士殿たちに神輿を担いで連れて行かせればいいだろう。墓守に頼る必要ないんじゃないか?」
「それも考えましたが……国の者が護衛しましたら、あの方は最期まで神子としてしか生きられないだろうと……」
「国の者じゃないものが護衛すれば多少変わると?」
「あの方は生れ落ちた時から神子としてお育ちになられました。言動は多少……稚拙なところは見受けられますが、この使命に疑問を持つことなく健やかにお育ちになられました。我々が依頼したいのは、神子を“神代の神殿”に無事にお連れし、人柱にすること。期限は問わず。あの方が旅の途中に見聞きし、望まれることがあれば、それを最優先にすること。旅の中ではあの方のしたいようにさせて頂きたいのです」
「なるほど、死の間際の一時の自由というやつか。だが、そんな御大層な神子さまを連れて……なんて、盗賊などに襲われたら一発じゃないか?」
「そのような神聖なる神子さまが、たった一人の傭兵しか連れずに神殿を目指しているなんて、誰が信じましょうか。豪商が気の触れた放蕩息子を護衛に投げて厄介払いしたと思われるのが落ちです。それに、漆黒のグレイブ。あなたほどの腕前ならば、魔物だけでなく人からも神子をお守りできるでしょう」
「……まぁ、墓守の中で一番強い者を。との指名依頼だからな。ある程度なら……一個師団ぐらいならば切り抜けられるな」
「その名を継ぐ何代目かは存じ上げませんが、魔物討伐を専門とする傭兵団。その中でも一等強いあなたならば、この任務を成し遂げられるでしょう?」
魔素が濃くなり大型の魔物も大量に跋扈するようになると、人類を殺し尽くさないようにと神子が生まれる。
数百年に一度繰り返されるその世界のサイクルを知ってはいた。
だが、まさか自分がその神子を神殿に連れていく役目を果たすことになるなんて……と最初は皮肉に思ったっけ。
引き合わされた神子は、あまりにも当初に想像していた身を犠牲に人々を救う聖人の像とはかけ離れたものだったけれど。
何度、宰相の言っていた“多少……稚拙”の評価が詐称すぎて、説明責任違反すぎじゃねーの!? って何度も思ったことか。
宰相にくれぐれも神子を安全にお連れしてくださいね、の念押しから10秒後には勝手にお池にはまるし……。
勝手に触るな、掴むな、口に入れるな。いきなり走り出すな。
なんて幼児に聞かせるような注意を何度もすることになるなんて、思いもしなかった。
慌しくも必死で。
神経質になることが馬鹿らしくなってくるような。
彼の寄り道をひとつひとつ丁寧に拾い上げて、最期の巡礼の旅を歩んだ。
本当に……まったく。
死んだ目をしているって。
そりゃそうなるだろうよ。
この世界はあまりにも残酷で、人類の敗北しか見いだせない。
感情を動かすことなく、あまり今を生きる者たちへの過干渉にならないように……静かに静かに……失われてしまった旧世代の墓を守ってきた墓守にとって、彼は少々刺激的過ぎた。
「あ、今星が光った! あれはなんだ? なんで星が落ちてくるのだ?」
「昔本で読んだことがある! あれは蜂蜜が出てくるという巣だろう? なんで私を小脇に抱えて走り去るのだ! ただ突いただけじゃないか! おい待てなぜ逃げる! はやくあの蜂蜜を私に献上するのだ!」
「私の部屋のベッドが硬いから、代われ。ん? グレイブがどこで寝れば良いかと? その隅っこで蹲って眠っていればいいじゃないか。とにかく寝れないから代われ」
ああ、本当に死んだように生きてきたのに、理不尽と感情の塊がいきなり飛び込んできたんだ。
坊ちゃん、クソ坊……愛しの神子。
あの命の輝きを、自らの手で摘み取らなければならないなんて。
最初から旅の最後がわかりきっていたはずなのに。
だからこそ、あまり思い入れないようにと。
……そんな自制は途中でできなくなったけれど。
この森が終わったら。
――“神代の神殿”にたどり着いてしまう。
“神代の神殿”にたどり着いたら。
――この命を殺さなくてはならない。
反吐が出そうな神が与えたという代々の神子に伝わる名前を聞いた夜。
パチパチとはねる薪の火を見ながら、彼に尋ねた。
「ええ、神代の神殿はこの深い森を越えた先です。間もなく着きますよ」
「ふふ、楽しみだ。民草よ、待っていろ。私の祈りが神に届けば、魔物に怯えることもなくなる!」
「坊ちゃんは……嫌になることはないんですか?」
「何がだ?」
「だって、坊ちゃんの肩に世界の救済が掛かっているってなかなかのプレッシャーでしょう」
「何を言っている? 神子として生れ落ちたときからの私の使命だ。私だけしか成し得ないことだぞ。この私が祭壇で祈りをささげるだけで数十年は魔物の脅威が去るのだ。神子としてそのためならばこのような旅も厭わない!」
彼の瞳には一切躊躇は見えなくて……純真で無垢な輝きで満ち溢れていた。
もう間もなく、旅の終わりが訪れる。
だからこそ、あの古代遺跡を見つけた時、暗い望みを抱いてしまったのだ。
この施設の中だけならば、魔素も魔物も遮断して生き続けることができる。
彼が彼として生き続けることが……果たして彼の望みを絶ってまで叶えることが……彼にとっての幸福になるのかはわからない。
酷く醜くて感情的な…願い。
ただ、彼に生きていて欲しい。
……傲慢なのに、チョロくて馬鹿可愛い…あのジーンに生きていて欲しい。
彼の神子としての使命をねじ伏せてでも……もう家族に会うことができなくなるとしても……。
それでも、俺はジーンに生きていてほしい。
俺の望みにまみれた暗い願い。
それを叶えるために、取引をした。
あの“神”と呼ばれる管理者に。
ジーンを寝かしつけた最初の夜。
俺は長く白い廊下を渡り、外に出た。
夜風に木々が揺れる。
管理者は、空気に溶けるように存在する。
きっとどこかでこの様子も見ているだろう。
「管理者よ! 取引がしたい!! 神子の命の代わりに、何を差し出せば対価となる!!」
俺の声だけが森に吸い込まれ、何も返ってくる音はしない。
『取引? 珍しいですね。あなたたち旧世代の者たちは、もうこの世界に干渉しないのでは?』
シンと静まり返った中で、男とも女ともとれる奇妙なノイズの入った声が頭に響く。
「個人的な、取引だ……。他の者は関係ない」
『ふふふ、良いですよ。この星の管理がうまく行き届きすぎてね。この数百年刺激がなくて厭きていたところです。現在大量発生している大型の魔物、それと今後数十年は産まれるであろう魔物をあの神子の血でもってして治めようとしていたのです。その魔物たちをあなたが代わりに狩り取れば、対価としてもよいでしょう』
「……神子による神の奇跡の代行か。反吐が出るほど嬉しいぜ」
『そうですね、ふふふ、たしかあなた方が思う神とは試練を与える者の事でしたね? 100年、この地に魔物を集めましょう。100年の間、魔物の中から濃縮された魔素を献上しなさい。それができたのなら、今世の神子を解放しましょう』
「100年…だと……っ」
『人の身では、100年は生きられない? ええ、承知しておりますよ。神子の体を不変のものに作り変えましょう。それならば、試練が終わった頃には死んでいた、なんて酷いことにはならないでしょう?』
「……そうだな」
『しかし、ぬかるみのような試練ではつまらないでしょうし、神子を連れて逃げ出されても叶いません。神子を眠らせましょう、100年の間。すべてが終わるその瞬間まで。契約を途中で投げ出されてはたまりませんからね。あなたが成し遂げるまで、神子は眠り続けるのです」
「待て! そんな……っ」
『ああ、しかしそうですね。たしか同胞が言っていました。“希望がなければ人は生きられない”と。あなたへの希望として、1年に1回……我々の収穫祭の日に彼を起こしましょう。その1日をご褒美に残りの日々を使いなさい』
「………っ」
『そうそう。いいことをお伝えしましょう。神子はその構造から魔素を一定取り込まないと生きていけないのですが、あの保護施設は抗魔がしっかりとしていますからね。取り込むことが困難になるでしょう。1年に1度起きた際にはしっかりと中に魔素を注いでやってくださいな』
……普通の人ならば体を壊すような魔素の濃い森の中で、一層元気になった彼の様子からある程度は予想していたけれど……それをここで示唆するなんて。
「……俺の体液にも魔素は溶けているからな」
唾液でも血でも。
『ふふふ、あなたならば知っているはずです。魔素が一番濃くなるのが何の液体なのか。原生物の交尾程滑稽で面白いものはないですからね! はははっ』
本当に、このクソ野郎が。
『魔素は神子の体に一定は蓄積されていますのでしばらくは持つでしょうが、いつまで持ちますかね。ふふふ……面白い見世物を期待しておりますよ』
「ちっ契約を、守ってくれよ管理者。必ず、必ず100年後に彼を解放しろよ」
『約束は守りましょう』
「それとここからは純粋な願いだ。もし俺の体が蓄積する魔素に耐え切れず、魔物化するようなことがあったら……蓄積された膨大な魔素によって、今まで産まれた魔物の中でも一等凶悪な物が生まれるだろう。だから、魔物ではなく魔樹に構造を作り変えてくれ。濃い魔素を放出する魔樹ならばお前たちにとっても損はないだろう」
『ふふふ、その願い承知いたしました。あなたがこれからの100年、狂うことなく戦い続けられるか、とても楽しみですね』
そうして、俺の100年にわたる長い戦いが始まった。
ジーンは本当にびっくりするぐらいにその状況をすんなりと受け入れて(いや本当になんで一切疑問も持たずにこちらの言葉を受け止めるんだ!? と頭を抱えたけれど)一切何も気づかずに日々を過ごした。
いきなり無礼にも犯そうとしている男だというのに、ジーンは素直に受け入れるし……。
本当はすぐにでもジーンの中に魔素を含むものを注がないといけないとは思っていたが、想像以上に16年の歳月がかかってしまったし。
……最後のほうは本人はあまり気づいていなかったが、ぼんやりと魔素不足のせいか呼吸がしづらそうだった。
呼び寄せられる魔物を倒し、その濃縮された魔素を放出させる日々。
魔物の肉を裂けば血油で滑り、剣が駄目になる。
“斬る”というよりも“砕く”ほうが似合いの無骨な大剣。
魔物の群れが途切れた時に川の水で血汚れを落とし、剣を研ぐ。
数日に一度、保護施設に戻って物資を生成装置で作りながら、眠るジーンの顔を見に行く。
それがここ数十年の日課になっていた。
終わらない悪夢の中で、唯一。
収穫祭……ジーンの起きる日だけが心の支えだった。
もう無理なんじゃないか。もう、俺の心は削れてもう終わらない戦いを続けていくことは無理なんじゃないか。
そう、心が死にかけている時にだって、ジーンは変わらず馬鹿可愛かった。
「はっははは!! なんだそのくたびれた姿は!」
「開口一番それ……殴りたい……この笑顔……」
どんな絶望の最中だったとしても、ジーンはジーンのままだった。
俺の愛したあの子はいつだって横暴で、いつだって傲慢で……そして少しだけ甘えるようになった。
このまま抱き合って朝まで迎えてみたい。
けれども、朝にはジーンの起きない次の1年が始まるのだ。
あんなにも生の輝きに満ちているのに、朝になっても起きることはない。
たった1日、邂逅が許されたその日にはたくさん抱き合ってたくさん語らいあった。
燃える水の話、いにしえの神話、忘れかけていた国の言葉。
1年のうちたった1日を希望に魔物を屠る。
噂を聞きつけた同胞には愚か者めと顔を顰められた。
けれども100年の間、だんだんと強くなる魔物の群れに限界を感じながらも。
ただただ彼の未来のために。
そして――
解放の時が訪れた。
神が彼に伝えた言葉は一番知られたくないことばかりだった。
本当に、彼には何も知ってほしくなかった。いや知ってほしかった。
別れたかった。いや離れがたかった。
心が二分する、矛盾した想い。
彼の慟哭が聞こえる。
どうか、どうか。
管理者ではない神よ。いるのならば、いてくれるのならば。
どうか、俺の愛しい者を幸せにしてほしい。
ジーンを、あの子が幸せに生きられる道を。
目まぐるしい瞬きのような走馬灯が途切れ、意識が消える。
姿形は変わっても、あの子の傍に――
**************************
天まで届くかのように高く伸びた木の枝が、その周囲を覆う。
魔素を含む黒い葉が、花びらのようにひらひらと降り注いだ。
「神よ! この世界の神と呼ばれる者よ!! お前は知りたくはないか!! 希望がなくとも人がどれだけ狂わずにいられるか!!! 世界に厭きたお前と取引がしたい!!!」
未来を託された白い髪の青年は、泣きじゃくった跡の残る顔で虚空を睨みつけた。
その瞳は赤く燃え上がり、強い輝きを帯びていた。
『どうしました、神子よ。もうあなたは自由なのですよ? ふふ、道しるべを失った世界を、あなた1人の足で生きていかなければ』
「あなたは言った。何万年もの間管理してきて一番面白い100年だったと。ならば、ここでその道楽が終わるのは惜しくはないか!?」
『……話を聞きましょう』
「この男が私の代わりに魔物を100年倒してきたのなら……。たった1人で耐え抜いてきたのなら、私はこの男の10倍の時を1人で生き抜こう!!」
神子と呼ばれた青年は強い意志をもって宣言する。
「千年だ! 千年!! 千年の間、この血を持って魔物を抑えよう!! どうだ!! お前の同胞たちは“人は希望がなければ生きていけない。長くは持たない”と言った! だからこそ、1年に1度この男に与えられる希望が私だったというのならば、千年の間……希望も持たずに人が耐えられるかどうか、お前たちは知りたくはないか!!?」
『千年……1人で……狂わずに……?』
「ああ! 一度も狂わずに。毎日血を捧げる。この血になんらかの魔物を倒す効果があるのだろう? 命もなくば難しいか?」
『いいえ、“神代の神殿”の祭壇とは神子の持つ抗魔の血を世界に拡散する装置に他なりません。命ではなく大量の血でも十分でしょう。あなたを不変の生物にしましたが、痛覚も他の生物と変わりません。むしろ精神などは他と比べて脆弱なほどでしょう。なのに、千年も耐えうると?』
「ああ、耐えてみせよう。何万年も生きる神と呼ばれるものたちよ。おまえたちの娯楽となろう。人がどれだけ耐えられるのか。狂わずに生きられるのか。その代わり……その代わりに私のものを返せ。私の……私のラーイを……彼を……返してくれ……」
『ふふ……ふふふ……いいでしょう。いいでしょう。遺伝子操作は我々の領分。魔樹から記憶と記録を抽出して、複製を作ることなど造作もないことでしょう。千年もの長き間を孤独と絶望に耐えられるのならば、そっくりそのまま返して差し上げましょう』
「約束だぞ! 約束したぞ神よ!! 私は、私は千年の孤独を耐え抜こう!!!!」
その瞳は赤く煌めき、千年にわたる長い長い孤独が幕を上げた。
生命が生まれ、育み、その生を謳歌する。
命を繋ぎ、後世に託し、その生を閉じていった。
文明が芽生え、隆盛し、朽ちる。その姿が伝承として語り継がれていった。
神殿の近くにある大木は、その姿を一切変えることなく季節によって涙を落とすかのように黒い葉をはらはらと落としていく。
春が過ぎ、夏を迎え、秋の実りが地面を満たすころ、冬のベールが山を包む。
命が廻り季節が廻り、多くの人の瞬きを過去へと押し流した。
その大木は、数百年も前からそこにあり、不思議とその周りには魔物は寄り付かなくなっていた。
数万年前の星の消滅の余波が、空を満たす。
流星群が空を覆い、そのきらめきが天文台の記録として後世に伝えられていった。
その世界は魔物の脅威が薄れ、神の祝福と崇められ、奉られた。
しだいに、その祝福が常となり、神の存在も忘れかけられた。
その大木の根元に刺さる折れた遺物は、すでに風化して黒鋼の塊と化していた。
しかしそれはずっとそこにあり、主の姿を思い起こさせる唯一のものとなっていた。
何千何万もの朝と昼を繰り返し。
多くの生命の循環を見つめ。
長い長い孤独を越え。
そして――
**************************
はらり、と頬に落ちたものは、最初なんだかわからなくて、ふっと手で触り取り除いてみると、どうやら灰色の葉のようだった。
軋む身体にぼんやりとした視界。赤と白のような虹彩が目に入ってくるが、それがなんなのか、よくわからない。
声を出そうとしたが、喉が渇きすぎていて、喉の奥が引き攣れる。
「あ……はは……はははっ! お前は! ずいぶんと寝坊助だな! もう朝寝を過ぎて昼前になってしまったぞ!!!」
今度は、ぽた……ぼたぼたと上から水滴が降ってくる。
歪む視界を瞬いて、ぼんやりとした焦点を合わせる。
そこには、枯れた大木の下で俺を覗き込むとても美しい人の形をしていた。
赤と白の装束を着た、世界で一番愛しい者の姿をした使者。
そうか、死後の天使の迎えというやつか。
俺の生まれ故郷にそって、似たものを遣わしてくれたのか。日本風とは洒落が利いている。
「雷、雷。何をぼんやりとしているんだ。私がだぞ、この私が膝枕をしてあげているというのに……感謝して、喜べ! 感涙して崇め奉れ。いや、そんなことはいいから……はやく私をぎゅっとしろ」
ああ、本当に……どこまでも坊ちゃんそっくりな言い回しがクソ可愛いな……って。
「本物?」
「こんなに尊くて崇拝できる至高の存在が他にいるか?」
「いや、こんな言い回しのクソ坊は……ジーン坊ちゃんしかいないな」
本当に本物? と、綺麗に泣いているその頬に手を触れる。
……温かい。赤い瞳から流れ落ちた涙が、頬に当てた手を滑り落ちていく。
でも、俺は…俺は最期魔樹になったはずで……。
「はは、あははっラーイ……雷……私はやったぞ! やってやったぞ!! すべての烏を殺してやった! 三千世界の烏を殺し尽くして、すべての起請文を破り捨ててやった!! 私は、私は神を克してやったぞ!!!」
泣きながら笑う彼は、信じられないほどに神々しくて美しかった。
「……そうか。もう、起請文はないのか。もう……神に縛られることはなく、お前と抱き合えるのか」
「ああ、本当に……ふふふ、あの最後の神と呼ばれる管理者の悔しそうな声と言ったら! ちゃーんとお前を元に戻させたが支障はないな?」
「体は軋むが、まぁ、問題はない。何か……何かお前は神と取引したのか?」
「お前の100年に比べたら、なんてことはなかったさ」
「本当に?」
「本当に。ただ少しだけ時間があったから、管理者たちにお灸をすえてやっただけだ」
「……どうやって……?」
「魔素というのは管理者たちの餌だったそうだな。食物連鎖を経て濃くなるように、この世界を作り変えたのだと。ならばと古代遺跡に残されていた記録を読み漁って、生成装置を作り変え、その魔素にちょっとだけ成分を変えてやったに過ぎない」
「記録……ああ、あの古代文明で記録された媒体か……成分を変えるってどうやって……」
「あっはは! お前たちの時代にはあったそうだな。麻薬というものが。一度摂取すると、同じものを摂取したくてたまらなくなる禁断の中毒性。それをこの世界で実験的に作った人工魔素に混ぜてやったのだ。そうしたらどうだ、管理者たちの中でその特性魔素の需要が高まり、その生成方法を知る私の言うことを聞かざるを得なくなったのだ! はははっ」
「………っ」
「ふふん! どうだ! 恐れ入ったか!」
「え、うちの馬鹿可愛いジーンがなんか頭の良さそうなことを言ってる。本物?」
「驚くのはそこじゃない!! ふん! お前が最初に言ったのだぞ。馬鹿みたいに年輪だけ増やしたお前みたいな木ではないからな。まっさらな分、すべてを吸収して知識を蓄え管理者たちを見返してやったぞ!」
俺の頬をつねる華奢な手は昔と変わらないのに、その手首の内側に無数に走る赤い線が痛々しく感じられた。
「なぁに、ちょこっとだけ、時間があったからな。1日に1回血を流すだけで良かったし。それ以外のすべての時間を知ることに使ったのだ」
「ジーン、空が……空気が澄んでいる」
「私が人工魔素装置を作ったからな。空気に噴霧して魔物を作るよりは合理的になったのだ。今では魔物の姿を見ることのほうが稀だぞ?」
「ジーン、お前の体は……」
「人工魔素を作れるようになった、といっただろう? 必要分は接種している。管理者は最後の最後まで悔しそうにしていて、時間の短縮は一切認めなかったがな……」
さらりと言うが、どれだけの時間がかかったのだろう。
ジーン、お前は……。本当にお前は……。
「雷、烏丸雷。ずっと……ずっと……会いたかった……お前に……ずっとただ…それだけが…それだけが望みで……」
またぽろぽろと泣き出した愛しい者を強く抱き締める。
「また、お前に会えるのを夢見ていた」
積もる千年のその先に。
―終―
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