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国民的アイドルの元ライバルが、俺の底辺配信をなぜか認知している 上
しおりを挟む梅本 陸(うめもと りく)は駅前のコンビニで、五〇〇ミリリットルのハイボール二缶とサラミを手に取った。
最近は健康志向だとかで、洒落たパッケージのスティックタイプの肉が陳列棚の目立つ場所を占拠しているが、どうせ添加物まみれなんだ、何を食っても一緒だろう。本気で健康を意識するなら自炊一択だ。まあ、今の俺には逆立ちしたってできないけれど。
無人レジで会計を済ませ、エコバッグなんて持っていないから、背負っていたリュックにそのまま商品を放り込んだ。冷えた缶の感触が、背中の生地越しにじわりと伝わってくる。
平日は毎日これの繰り返しだ。
秋も終わり、今年の冬はいつもより遅いと高を括っていたら、昨日から一気に冷え込んだ。スーツ以外まだ衣替えをしていないから、週末の明日やらないと外に出る服がない。今年買った大型衣料店のスウェット以外、Tシャツすらまだタンスの奥に仕舞われたままだ。
今日で30歳になった。
20代の頃はまだ長く感じていた週末が、なぜだか瞬きする間に終わってしまう。
アパートまでの暗い夜道を歩きながら携帯を開くと、母からLINEが来ていた。『実家に届いたから転送しといたよ』というメッセージと共に、妙にファンシーな有料スタンプでおたおめスタンプと共に急かしてくる。
帰宅してポストを開けると、母の言っていた郵便物は、友人の結婚式の招待状だった。
卒業してから二、三度は飲みに行ったが、最近は全く連絡していなかった相手だ。そういえば、あいつは地元の相手とずっと付き合っていたはずだ。そのままゴールインしたということか。
だから最近開いていない同級生のグループLINEに、先月大量の通知が来ていたのか。それも溜まっていて見てはいない。年末に実家に戻ったら、祝儀貧乏を嘆きつつ、LINEで「おめでとう」くらいは送っておくか。
ドアを開けて部屋に入る。家賃相応の、安いアパートだ。
部屋の中は冷え切っていて、外と変わらないんじゃないかと錯覚する。すぐにこたつに入り、スイッチを入れた。電気カーペットをつけるのも忘れない。
玄関に投げ捨てた会社用の鞄とダウンジャケットを片付ける気力なんて、今の俺には残っていない。風呂に入る時についでに拾えばいい。とにかく今は、芯まで冷えた体を温めたかった。
静寂が重くて、なんとなくテレビをつける。
ちょうど音楽番組だった。
こういう番組は見ない。流行りの曲も若者の顔も区別がつかなくなってきた。すぐにチャンネルを変えようとリモコンを手に取ったが――その瞬間、耳をつんざくような高い悲鳴と黄色い歓声がスピーカーから響いた。
「お待たせしました! 今夜のスペシャルゲスト、今、絶大な人気を誇る男性アイドルグループ……SIRIUS!!」
司会者の高揚した声と共に、画面が切り替わる。
煌びやかな照明、作り込まれたステージ。その中心で、圧倒的なオーラを纏って立っている男の顔がアップになった。
整った眉、切れ長だが情熱を秘めた瞳。カメラに向けられたその視線は、テレビの前の何万人ものファンに向けられたものだが、陸にはまるで自分を射抜いているかのように感じられた。
「――こんばんは、SIRIUSの蓮田 深月(はすだ みつき)です」
画面の中の深月が、完璧なアイドルスマイルで微笑む。
陸の手から、リモコンが滑り落ちた。
あいつ、深月は俺の同級生だ。
すぐに床に転がったリモコンを拾い上げ、乱暴に電源ボタンを押す。
ふつっ、という音と共に、キラキラした笑顔も、耳障りな黄色い歓声も、全てが黒い画面の中に吸い込まれて消えた。
「……何が、こんばんは、だ。ふざけんな」
静寂が戻った部屋に、俺の悪態だけが虚しく響く。
カレンダーを見る。日付が変わるまで、あと数時間。
今日は誕生日だった。
母以外誰からも祝われない、ただ歳を重ねるだけの日。あいつは国民的なスターになって何万人から愛されているのに、俺はコンビニのサラミを齧りながら、一人で歳を取る。
「……誕生日に一人で晩酌とか、終わってんな」
自嘲気味に呟き、勢いでPCを開いた。魔が差したとしか言いようがない。
『誰でも今日からVライバー!』。以前見かけたその広告に縋るように、俺は『おでん』という名で猫耳アバターを選んだ。以前飼ってた猫がおでんって名前だからつけた。
配信設定の画面で、俺の手が止まる。
『配信タイトルを入力してください』
空白のカーソルが点滅している。
普段なら「テスト」とか適当に入れるところだ。でも、今の俺は酔っ払っている。そして、誰にも祝われない誕生日の孤独に押しつぶされそうだった。
……どうせ誰も見に来ない。なら、正直に書いてやるよ。
俺はキーボードを叩きつけた。
『【初配信】30歳誕生日。一人で飲む』
あまりに哀れで、あまりに正直なタイトル。
エンターキーを強く押し、配信開始のボタンをクリックした。
「……あー、テステス」
画面の左上、同接数の数字が『0』から『1』、そして『3』に変わった。
「誕生日」というワードに釣られて、数人が迷い込んだらしい。
「えーと、どうも。おでんです。……タイトル通り、酒飲んでます」
返事は、ない。
数字は『3』のまま動かない。
入っては来たものの、中身が低い声の陰気なおっさんだと気付いて、「うわ……」と思いながらブラウザバックするタイミングを計っているのだろう。
コメント欄は真っ白だ。誰一人として、キーボードを叩こうとはしていない。
(……何やってんだ、俺)
十分が経過した。
俺は画面に向かって、ボソボソと意味のない独り言を呟き続けている。
「サラミ硬えな……」「明日も仕事だりぃ……」
居心地が悪い。向こうもそうだろうが、俺も限界だ。
画面の中の猫耳少年が、俺の表情に合わせて寂しげに眉を下げた。
「……はは、つまんねーよな。やめるわ、寝よ」
見に来た数人に心の中で詫びて、配信終了ボタンにマウスカーソルを合わせた。
その時だった。
通知音と共に花火やらエフェクトが鳴り響いた。
同時に、画面が真っ赤な帯で埋め尽くされた。
¥50,000
え、と声が出た。
桁がおかしい。五百円じゃない、五万円だ。
そして、流れてきたコメントに、俺の思考は停止した。
『K:タイトル見て来た。お誕生日おめでとう』
『K:その声、すき。もっと話して』
……は?
タイトルを見て来た? たまたま?
いや、それよりも五万? 一回で?
俺が呆気にとられて固まっていると、本来なら減るはずだった同接『3』が、全く減らない。
それどころか、今まで死んだように沈黙していた残り二人の視聴者が、その異常事態に反応した。
『え』
『誤爆?』
ポツ、ポツ、と困惑したコメントが落ちる。
当然だ。過疎りきったおっさんの愚痴配信に、いきなり五万円。
出ていこうとしていた彼らは、この「事故」の結末が気になって足を止めたのだ。
『桁ミス?w』
『ごまんってマジかよ』
『主、声震えてね?』
興味本位の視線が突き刺さる。
そしてその中心で、Kの赤いスーパーチャットだけが、王者のように画面の上に固定され続けている。
まるで、俺を逃がさない鎖のように。
「ちょ、え……? あの、Kさん……?」
終了ボタンを押すタイミングを完全に失った。
俺は引きつった顔で、画面の向こうの『K』という怪物と、野次馬になってしまった数人の目撃者に向き合う羽目になった。
「ご、五万って……桁、間違ってますよね? 今ならまだ間に合う……いや、どうやって返金すんだこれ」
酔いは完全に冷めていた。
マウスを握る手が汗ばむ。焦ってヘルプ画面を探そうと視線を彷徨わせる俺をあざ笑うかのように、コメント欄が再び流れた。
『返金できないぞw』
『主、諦めろ』
『五万もらって逃げる気か?』
『詐欺罪w』
「詐欺じゃねぇよ! 勝手に投げたのそっちだろ!」
思わず素の声で叫んでしまった。
しまった、と口元を押さえるが、画面の中の猫耳アバター「おでん」は、間の抜けた顔で口をパクパクさせているだけだ。
くそ、可愛いガワが憎らしい。
すると、画面上部に固定されたままのKが、再びコメントを投下した。
『K:間違いじゃない。誕生日プレゼントだ』
『K:返金いらないから配信続けて』
「……はぁ?」
正気か?
顔も見えない、どこの誰とも知らないおっさんの誕生日に、五万?
こいつ、金銭感覚がバグってるのか、それとも余程の金持ちなのか。
呆然としていると、野次馬たちが面白がって囃し立て始めた。
『太っ腹すぎて草』
『Kニキかっこよ』
『主、これもう飲むしかねーぞ』
『おでん、酒を飲め』
『逃がさないってよw』
コメント欄の空気が変わった。
さっきまでの「過疎配信の気まずさ」は消え、「謎の太客が現れた祭り会場」の熱気が生まれている。
同接はいつの間にか『10』を超えていた。
「……わーったよ、飲みゃいいんだろ、飲みゃ」
もう、どうにでもなれ。
俺は開き直って、ぬるくなりかけたハイボールの缶を掴んだ。
プシュッ、という炭酸の抜ける音が、やけに大きく響く。
「いただいた五万で、高い酒買わせていただきますよ。……Kさん、あざっす」
ふてぶてしく言い放ち、缶をあおる。
喉を焼くアルコールが、混乱した頭を少しだけ麻痺させてくれた。
画面の向こうで、Kがどう反応しているかなんて知らない。どうせすぐに飽きて消えるだろう。そう思っていた。
『K:どういたしまして』
『K:でおでんって名前、猫から取ったのか?』
即レスだった。
しかも、さっき俺がプロフィール欄にも書かずにボソッと言っただけのアカウント名の由来を、こいつは拾っていたのか。
「……ああ。昔、実家で飼ってた雑種だよ。色が茶色と白で、ちくわぶみたいだったから」
懐かしい記憶が蘇り、ふと口元が緩む。
おでんは俺が高校生の時に死んだ。
あいつ――深月とも、よく一緒に遊んだ猫だ。
深月が家に来ると、俺よりもあいつの膝に乗っかって、ゴロゴロ喉を鳴らしていたっけ。
「……人懐っこい猫でさ。俺より、よく遊びに来てた友達の方に懐いてて……むかつくから、そいつが来ると俺はずっとおでんの肉球を揉んで邪魔してたんだよな」
酔いのせいだ。
聞かれてもいないのに、昔話が口をついて出た。
誰も知らない、俺だけの思い出。
けれど、Kの反応は奇妙だった。
『K:肉球、猫は嫌がってたな』
「え?」
心臓が跳ねた。
猫が嫌がってた?
俺、言ったか? 「猫が嫌がってた」なんて。
いや、一般的に猫は肉球を触られるのを嫌がるものだ。Kはただ、猫あるあるを言ったに過ぎない。
そう自分に言い聞かせたが、背筋に冷たいものが走る。
『主、猫派か』
『隙あらば自分語り』
『Kニキ猫の気持ちわかって草』
他のリスナーの軽いコメントに紛れて、Kの言葉だけが、妙に生々しい質感を持って俺の胸に残った。
翌朝。
ガンガンと頭の中で鐘が鳴るような頭痛で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、網膜を容赦なく焼く。
「……う゛、頭いてぇ……」
最悪の目覚めだ。
重い体を起こし、枕元のスマホを探る。時刻は七時過ぎ。会社に行かなければならない。
のろのろとベッドから這い出し、洗面所へ向かう途中、ローテーブルの上のノートパソコンが目に入った。
スリープモードの黒い画面。
昨日の記憶が、フラッシュバックする。
勢いで始めた配信。
誰も来ないはずだった誕生日。
そして、五万円。
「……夢、だよな」
そうだ。あんな都合のいい話があるわけがない。
寂しい独身男が見た、酒による幻覚だ。
俺は確認するようにPCを開き、配信サイトのマイページにアクセスした。
収益残高:¥50,000
「……マジかよ」
夢じゃなかった。
画面には、昨日のアーカイブ(録画)もしっかり残っている。
恐る恐る再生ボタンを押すと、猫耳のガワを被った俺が「Kさん、あざっす」とふてぶてしく酒を煽っている地獄のような映像が流れた。
そして、コメント欄には『K』の文字。
五万だ。手取りの何分の一だ?
怖くなった。返すべきか? いや、どうやって?
それに、正直に言えば……少しだけ、救われた気がしたのも事実だった。
誰からも忘れ去られた30歳の始まりを、あの『K』という謎の人物だけが祝ってくれた。
「……ま、一回きりだろ」
あんな大富豪の暇つぶし、続くわけがない。
そう自分に言い聞かせ、俺は重い足取りで会社へ向かった。
――その予想は、裏切られることになった。
あの一回きりの気まぐれだと思っていた『K』は、それから毎晩、俺の配信に現れた。
あれから一ヶ月。
俺とKの奇妙な関係は、日常に組み込まれつつあった。
ある日の深夜二時。
残業で終電帰りになり、ヘトヘトになった俺は、それでも習慣のようにPCを開いた。
通知もせず、ゲリラ的に始めた配信だ。こんな時間に見に来る物好きはいないだろう。今日は一人で、静かに愚痴って寝よう。
そう思って開始ボタンを押した、三秒後だった。
『K:お疲れ。遅かったな』
同接『1』。コメント『1』。
速すぎる。
俺は缶ビールのプルタブを開けながら、思わず画面にツッコミを入れた。
「……おい、K。お前通知設定してるだろ。つーか寝てんのか? 明日仕事ねぇの?」
Kの正体は未だに謎だ。
金払いからして富豪のニートかと思っていたが、どうやら日中は忙しいらしい。それなのに、俺がどんな不規則な時間に始めても、必ず現れる。
まるで、俺の生活リズムをすべて把握しているかのように。
『K:仕事はある』
『K:お前の声聞かないと眠れない』
「はいはい、メンヘラ乙。事故るなよ」
適当にあしらいつつ、俺はKが投げた「深夜料金」という名目の赤スパ(一万円)で、Uberで深夜でも注文できる、人気の焼き鳥店の串を頬張る。
慣れとは恐ろしいもので、最初はビビっていたKの重すぎる愛も、最近では「ちょっと変わった太客」として消化し始めていた。それにKの金払いは安給料の俺にはいい臨時収入すぎて、辞めれなくなってきてるのだ。
だが、問題はそれだけではない。
少しずつだが、K以外のリスナー――「おでん(俺)」のやさぐれトークを好む物好きたち――が増えてきた時のことだ。
『初見です。主さん、声低いのにアバター可愛くてギャップ萌えですねw』
『おでんちゃん、今日何飲んでるのー?』
ごく普通の、平和なコメント。
俺が「おー、いらっしゃい。今日はハイボール……」と返そうとした、その時。
ドゴォン!!
ドゴォン!!
ドゴォン!!
画面が赤い閃光で埋め尽くされた。
『K:¥10,000』
『K:¥10,000』
『K:¥10,000』
無言の三連投。
一瞬でコメント欄がKの赤スパで埋め尽くされ、それに反応したリスナーのコメントにさっきの「初見さん」のコメントは遥か彼方へ流されて消えた。
『出た、Kニキの独占欲ww』
『ある意味これを見に来てるw』
『新規を金で殴って追い出すスタイル嫌いじゃない』
『おでんちゃん愛されすぎで草』
リスナーたちも、この「Kの暴走」を一種の持ち芸として楽しんでいるようだ。
「は!? おいK! 何してんだよ!」
俺が慌てて叫ぶと、Kは涼しい顔で(文字だけで)こう打ってきた。
『K:手が滑った』
「滑って三万も投げんな! 他のやつのコメント読めねぇだろ!」
『K:俺のだけ読めばいい』
「……っ」
理不尽すぎる独占欲に呆れつつも、俺は奇妙な居心地の良さを感じてしまっていた。
現実世界では誰にも必要とされていない俺が、ここだけでは、誰かにとっての「一番」になれている。
それが顔も見えない、金に物を言わせる変人だったとしても。
「……たく、しょーがねぇな。乾杯すんぞ、K」
俺は画面に向かって缶を掲げた。
◇
配信を始めて二ヶ月が経とうとしていた。
「――お、CM明け、ドラマ始まったわ」
俺は缶ビールを片手に、サブモニターで流しているテレビ番組に視線を向けた。
今期話題の恋愛ドラマだ。
「やっぱ成瀬アイリちゃん、可愛すぎだろ……。マジで天使」
画面に映る、黒髪の清楚な女優を見て、俺はだらしない声を漏らした。最近はK以外にも常連が増え、コメント欄もそこそこ賑わうようになり俺は、この心地いい世界を気に入っていた。
コメント欄が『おでん(俺)の好み分かりやすすぎw』『清楚系好きだもんな』と草を生やす。
「いや、男なら全員好きだろ! この透明感見てみろよ。……あーあ、俺もこんな子に『お仕事お疲れ様です』とか言われてぇなぁ」
俺が妄想を垂れ流した、その時だった。
ピロンッ♪
攻撃的な通知音と共に、画面が赤く染まった。
『K:¥50,000』
コメント:『チャンネル変えろ』
「ぶふっ!!」
俺はビールを吹き出した。
相変わらずのトップランカー、謎の太客『K』だ。
「い、いきなり何だよKさん! 5万投げて言うことが『チャンネル変えろ』かよ!?」
『K:¥10,000』
コメント:『そいつの顔、見てるとイライラする』
「はぁ? アイリちゃん見てイライラするとか、お前どんだけ心が荒んでんだよ!」
「見ろよこの笑顔! マイナスイオン出てるだろ! 俺の荒んだ生活における唯一の癒やしだぞ!」
俺が必死に成瀬アイリの魅力を熱弁すると、Kからのコメントがピタリと止まった。
あれ? 言い過ぎたか?
そう思った次の瞬間。
ピロリン、ピロリン、ピロリンッ!!
連続した通知音が鳴り響いた。
スパチャの連投だ。ただし、全部青色(低額)の嫌がらせのような連投。
『K:¥500』 コメント:『趣味悪い』
『K:¥500』 コメント:『どこがいいんだ』
『K:¥500』 コメント:『目が腐ってる』
『K:¥500』 コメント:『眼科行け』
「ガキかよ!!」
俺はツッコミを入れた。
普段は無口でクール(に金を投げるだけ)なKが、今日に限ってはやけに噛み付いてくる。
「何だよKさん、もしやアイリちゃんのアンチか? ……安心しろって、俺みたいな底辺おっさんが画面越しに『好きだ』って言ってるだけなんだから。叶うわけねぇだろ」
俺が自虐混じりに笑うと、ようやくKの嵐が収まった。
そして、最後に一通だけ、ポツリと赤スパが投げられた。
『K:¥30,000』
コメント:『……今の発言、忘れるなよ』
「へ?」
「忘れるって、アイリちゃんが好きってこと? 忘れるわけないだろ、俺の永遠のアイドルだぞ」
それから数日が経ち、その夜も、俺はいつものようにハイボールをあおりながら、ダラダラとコメントを拾っていた。
『おでん、また飲んでるの? 肝臓心配だよ』
「うっせ。アルコール消毒だっつーの」
軽口を叩いていると、一人のリスナーが長文のコメントを投稿した。
『心配だよー。私最近ピラティス始めたんだけど、めっちゃ楽しいよ! 健康大事!なんか体動かしてると、学生時代の部活思い出して懐かしくなったwおでんはさ、人生で一番輝いてた時っていつなのー?』
「……ピラティスだぁ?」
俺は鼻で笑った。
「なんだそれ、意識高い系かよ。俺みたいな底辺社畜には縁がねぇ世界だな」
茶化して流そうとした。
けれど、その最後の一文が、酔った脳みその一番柔らかい部分に突き刺さって抜けなくなった。
――一番、輝いてた時。
画面の中の『おでん』が、俺の沈黙に合わせて動きを止める。
ハイボールの缶が、ひどく冷たく感じた。
「……輝いてた、かぁ」
思考が、過去へと引きずり戻される。
満員電車に揺られる毎日じゃない。コンビニ弁当を食う毎日じゃない。
汗だくになって、毎日が眩しかったあの頃。
「……中坊の頃かな」
ぽつりと、本音が漏れた。
コメント欄の流れが少し遅くなる。いつもなら「昔話乙w」と煽るリスナーも、今は沈黙している。
「部活、やってたんだよ。俺は補欠の弱小部員だったけどさ。……すげぇムカつくライバルがいて」
脳裏に浮かぶのは、夏のグラウンド。
そして、隣で不敵に笑う、顔の整った同級生の顔。
「あいつ、顔も良くて運動も勉強もできて、何やっても完璧なんだよ。俺が死ぬ気で努力しても、あいつは涼しい顔でその先を行く。……悔しくてさ。いつか絶対吠え面かかせてやるって、毎日そいつの背中ばっか追いかけてた」
そうだ。
俺が輝いていたんじゃない。
あいつという太陽を追いかけていたから、その照り返しで俺も輝いているような気になれていただけだ。
「……卒業式の日にさ、言ったんだよ。『高校行っても負けねぇからな』って。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
喉が詰まる。
酒のせいにしてしまえばいい。顔も見えないネットの海だ。誰にもバレやしない。
「『もう俺を追いかけるな』だってよ。……笑えるだろ? つまり、お前じゃ相手にならねぇってことだ。言われた通り、志望校も同じにしたのに勝手に変えててさ。嫌われてたのか、あいつは手の届かないとこに行っちまって……俺はそこで終わったんだよ」
自嘲気味に笑い、空になった缶を握りつぶす。
パキ、という乾いた音が響く。
「俺のピークはそこだ。あいつがいなくなってからの十数年は……ただの余生みたいなもんだな」
言い切って、俺は息を吐いた。
場の空気を重くしてしまったかもしれない。
「なんてな、嘘嘘! 酔っ払いの戯言だ、忘れろ!」と茶化して終わらせようとした、その時だった。
ピロン、と通知音が鳴る。
Kだった。
けれど、いつもの派手な赤スパじゃない。
珍しく、色のついていない通常のコメントだった。
『K:……違う。そういう意味じゃ』
「……あ?」
俺がその文字を目で追おうとした、次の瞬間だった。
ブツンッ。
唐突に、画面がブラックアウトした。
PCが落ちたわけじゃない。ブラウザに無機質な文字が表示されている。
『502 Bad Gateway』
『現在、サーバーに接続できません』
「は……? 嘘だろ、ここで落ちんのかよ」
何度リロードしても、砂時計が回るだけ。
どうやら配信サイト全体が大規模なサーバーダウンを起こしたらしい。
タイミングが悪すぎる。
Kは最後に何か言おうとしていた気がするが、一瞬すぎて読めなかった。
「そういう意味じゃ」……なんだったんだ?
まあいい。どうせ「そういう意味じゃねぇけど、元気出せよ」くらいの慰めだろう。
「……ツイてねぇな、俺」
俺はPCを閉じ、残ったハイボールを飲み干してふて寝した。
翌日、サイトは復旧した。
何事もなかったかのように配信を再開すると、Kもまた、何事もなかったかのように現れた。
あの夜の会話の続きは、サーバーの闇に葬られたまま、またいつもの「金で殴り合う」日常が戻ってきた――はずだった。
ことの発端は、それから数日後の配信だ。
その日は仕事で嫌なことがあり、俺はいつもより酒のペースが早かった。
テレビでは、年末の歌番組の話題が持ちきりだった。
『おでんちゃん、紅白見る? 今年は深月くんたちのSIRIUSがトリらしいよ!』
リスナーの一人が、無邪気に話題を振ってきた。
その名前を見た瞬間、俺の中で何かが切れた。
酔いと、劣等感と、過去の古傷が混ざり合って、黒い感情が喉元までせり上がる。
「……見ねぇよ。あんな作り笑い、見てて反吐が出る」
つい、強い言葉が出た。
コメント欄が少しざわつく。
『おでんちゃん、アンチ?w』
『深月くんイケメンじゃん、嫉妬乙』
普段ならスルーする。
でも、この日は止まらなかった。俺だけが知っている「あいつの本性」を、世間の奴らに教えてやりたいという歪んだ衝動が抑えきれなかった。
「お前ら騙されてんだよ。あいつのあの爽やかな笑顔、全部演技だから」
俺は鼻で笑い、画面に向かって指をさした。
「本当はすげぇひどい奴なんだよ。人が必死に追いかけても、『来るな』って平気で切り捨てるような、血も涙もねぇ男だ。……画面の向こうのファンなんて、金ヅルとしか思ってねぇよ」
それは、あの日俺を切り捨てた深月への、個人的な恨み節だった。自分だってKからの投げ銭で酒を飲んでいるくせに、よくもまあ言えたものだ。
ただの底辺Vの、酔っ払いの戯言。
その場にいた数十人のリスナーが「主、また絡み酒かー」と苦笑いして終わるはずだった。
だが、運が悪かった。
その配信を見ていた誰かが、その部分だけを切り抜いて、SNSにアップロードしてしまったのだ。
翌朝。
スマホの通知が鳴り止まない音で目を覚ました。
頭痛を抱えながら画面を見ると、俺の配信告知用のSNSのアカウントが、見たこともない数のメンションで埋め尽くされていた。
『何こいつ、深月くんのこと馬鹿にしてんの?』
『底辺Vが売名乙』
『許せない。ファンのこと金ヅルとか、お前何様?』
『死ね』
『住所特定班、お願いします』
「……は?」
血の気が引いた。
拡散された動画の記事には、こう書かれていた。
『【悲報】個人勢Vの「おでん」、国民的アイドル蓮田深月を侮辱「ファンは金ヅル」「あいつは冷酷な人間」と暴言連発』
再生数は既に数十万回を超え、コメント欄は地獄のような罵詈雑言で溢れかえっていた。
炎上だ。
俺の小さな世界が、一夜にして業火に包まれていた。
ネットが炎上した翌日。
俺はマスクを深く被り、幽霊のような足取りで出社した。
「ねえねえ、見た? 」
「見た見た! ひどくない? 深月くんのファンの事金ヅルとかさー」
心臓が跳ねた。
女子社員たちが給湯室で、スマホを見ながらヒソヒソ話している。
逃げなければ。そう思った足が、次の会話で凍りついた。
「でもさ、この声……誰かに似てない?」
「えー? 誰?」
「ほら、営業二課の梅本さん。なんか喋り方のダルそうな感じとか、そっくりじゃない?」
血の気が引いた。
指先が震えて、持っていた自分用のマグカップがカチャカチャと音を立てる。
「うっそー! 梅本さんっていい人じゃん!こんな配信とかするわけないじゃん」
「だよねー。あ、でもお酒好きなとことかは……」
限界だった。
これ以上ここにいたら、呼吸音でバレるかもしれない。
俺は逃げるように給湯室を離れた。
それから数日たっても炎上は、鎮火するどころか、油を注がれたように燃え広がった。
ネットの悪意は、俺の想像を遥かに超えていた。
さらに、SNSで根も葉もない噂が流れ始めた。
『深月くんのグループ、今回の騒動でメンバー間の雰囲気が最悪らしい』
『精神的ショックでツアー延期かもって噂あるよね』
『全部あいつのせいじゃん。許せない』
デマだ。絶対にデマだ。
たかが底辺Vの暴言で、国民的アイドルのスケジュールが変わるわけがない。
だが、怒り狂ったファンには、そんな理屈は通用しなかった。彼らは「共通の敵」を攻撃する正義に酔い、その矛先は鋭利な刃物となって俺の個人情報を抉り始めた。
『特定班、進捗どう?』
『アーカイブ全部洗った。こいつ、二ヶ月前の配信で「〇〇の限定唐揚げ弁当うめぇ」って食ってたぞ』
『その店、〇〇区と△△区にしかないチェーン店じゃん』
『あと、「近くのコンビニでサラミ買った」って言ってたレシート、一瞬映ったの解析した。店番見えたかも』
『配達エリアと照らし合わせると……こいつの生息圏、××駅周辺じゃね?』
パソコンの画面を見て、吐き気がした。
当たっている。
何気なく頼んだUber Eats。酔ってチラ見せしてしまったコンビニの袋。
そんな些細なパズルのピースが、何千人もの悪意によって組み上げられ、俺の住所を丸裸にしようとしていた。
「……っ、うぇ」
トイレに駆け込み、胃の中のものを戻した。
怖い。
ネットの中だけの遊びだと思っていた。顔も名前も隠していれば、安全地帯から石を投げられると思っていた。
でも違った。俺が投げた小石は、巨大な岩となって俺の頭上に降り注ごうとしている。
ピンポーン。
インターホンが鳴った瞬間、俺は悲鳴を上げて布団を被った。
ただの宅配便かもしれない。近所の回覧板かもしれない。
だが、今の俺には、ドアの向こうにナイフを持った深月のファンが立っているようにしか思えなかった。
「……もう、無理だ」
会社の人にもバレるかもしれない。
これ以上、特定が進めば、実家の母にまで迷惑がかかるかもしれない。
俺は震える手でPCを開いた。
いつものハイボールはない。猫耳のアバターも、今は呪いの装備に見える。
俺は『おでん』としての最後の動画を撮影した。
「……おでんです。この度は、私の軽率な発言により、蓮田深月様、ファンの皆様、そして関係者の皆様に多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる。
声が震える。情けない。
謝って済む問題じゃないことは分かっている。それでも、これ以上は耐えられなかった。
「……あることないこと、口走ってしまいました。全て私の嫉妬による、嘘です。……本当に、申し訳ありませんでした」
嘘じゃない。あれは俺の本心で、真実だった。
でも、もうそんな自我を通す段階ではない。
「……本日をもって、VTuberおでんは活動を終了し、引退します。アーカイブも全て削除します」
最後に、一言だけ。
画面の向こうにいるであろう、たった一人の「共犯者」に向けて、俺は言葉を紡いだ。
「……今まで応援してくれた、ファンの方々……Kさん。……裏切るような形になって、ごめんなさい。……短い間でしたが、楽しかったです」
それだけは本心だった。
孤独な30歳の夜を、あいつとのやり取りだけが照らしてくれていた。
俺は震える指で『引退宣言』と『謝罪動画』を投稿した。
そして、アカウント削除ボタンを押そうとした、その時だった。
ピロン。
DMの通知が来た。
罵倒だろうか。殺害予告だろうか。
無視して削除しようとしたが、その送信者名を見て、俺の動きが止まった。
『Ren_SIRIUS_Official(公式マーク付き)』
「……は?」
SIRIUS? レン?
深月と同じグループの、あのレンか?
なりすましかと思ったが、本物の公式マークがついている。そういえばレンは唯一メンバーで配信動画をあげてる。
恐る恐るメッセージを開く。
『初めまして、SIRIUSのレンです!』
『おでんさんの配信、いつも深月と……あーいや、いつも見てました!』
『炎上しちゃって大変だよね。俺、おでんさんは悪い人じゃないって分かってるからさ』
『もしよかったら、俺のチャンネルでコラボして誤解解かない? 今夜どう?』
「……は、ぁあ!?」
部屋に、俺の素っ頓狂な声が響いた。
国民的アイドルのメンバーから、炎上中の底辺Vにコラボ依頼?
正気か?
罠か? 公開処刑でもするつもりか?
だが、文面は続く。
『断ったらおでんさん、炎上おさまらないかも!Kからも頼まれてるんだ』
『俺たちが守るから来て。話、聞くからさ』
Kから頼まれた?こいつ、知っているのか? Kの正体を。
俺は削除ボタンにかけていた指を、ゆっくりと離した。
これが、地獄への招待状なのか、蜘蛛の糸なのか。
今の俺には、それを掴む以外に選択肢は残されていなかった。
震える指で『分かりました。お願いします』とだけ返信する。
すぐにレンから『OK! 今夜22時、俺の個人チャンネルで! URL送るね!』と、軽いスタンプ付きで返事が来た。
こっちは人生が終わるかどうかの瀬戸際だというのに、この温度差は何なんだ。
◇
夜、22時。
PCの前に座る俺の手は、アルコールも入っていないのに震えていた。
画面には、通話アプリと配信ツール。
指定されたURLを開くと、そこには既に待機画面が表示されていた。
【緊急生放送】炎上中のあの件について、当事者の「おでん」さんと直接話します
同接、五万人。
桁が違う。俺の配信の千倍近い人間が、今か今かと「公開処刑」を待っているのだ。
胃が痛い。吐きそうだ。
それでもやるしかない。
『あ、おでんさん? こんばんはー!』
ヘッドホンから、明るく通る声が聞こえた。
テレビで何度も聞いたことのある国民的アイドルSIRIUSの最年少メンバー、レンの声だ。
「……あ、こ、こんばんは……おでんです……」
『おー、元気ないね! ま、そりゃそうかw』
レンは笑っている。俺は死刑台に上がる囚人の気分で、言われるがままに通話をつないだ。
配信が始まる。
『はーい! こんレン! SIRIUSのレンです!』
レンの快活な挨拶と共に、コメント欄が滝のような勢いで流れ出した。
『レンくん!』『なんでこんな奴とコラボすんの?』『おでん死ね』『深月くんを侮辱した罪は重いぞ』『謝れ』
罵詈雑言の嵐。文字の暴力が、視覚情報として脳を殴ってくる。
『さて、今日は緊急コラボということで。例の件で世間を騒がせているVTuberのおでんさんに来ていただきました』
「……この度は、私の軽率な発言で……」
俺は反射的に謝罪の言葉を口にしようとした。
だが、レンがそれを遮った。
『あー、ごめんごめん! そういうお通夜ムードじゃないから!』
『みんなもコメント欄で怒んないの! おでんさんビビり散らかしてるじゃん(笑)』
レンは巧みな話術で場の空気を支配していく。
『今日呼んだのはさ、誤解を解きたくて。みんな、おでんさんが深月のこと「作り笑顔」とか「血も涙もない」って言ったの怒ってるけどさ』
『俺たちメンバーからすると、「よくぞ言った!」って感じで、楽屋で爆笑してたんだよね』
「……え?」
俺も、視聴者も、一瞬ポカンとする
『俺が呼んだのはさ、おでんさんを吊るし上げるためじゃないんだよね』
レンの声色が、ふっと真面目なトーンに変わる。
『みんな怒ってるけどさ。おでんさんが言ったこと、本当は何だったのか聞きたくて』
『深月のこと、「ひどい奴」って言ってたじゃん? それって、何を見てそう思ったの?』
コメント欄が「は?」「何聞いてんの?」という空気で埋まる。
俺は動揺した。まさか、そこを掘り返されるとは思っていなかった。
「……それは……」
言葉に詰まる。
言えるわけがない。俺たちが幼馴染で、かつてライバルで、俺が勝手に傷ついて逃げ出したなんて過去を。
「……ただの、俺の勘違いです。深月さんは、テレビで見る通り、完璧で素晴らしいアイドルで……」
『んー? 本当にそう思ってる?』
レンが楽しそうに笑う。
「……え?」
『だって深月、実際ひどい奴だし? 俺のライン未読無視するし?』
『だからおでんさんが配信で「あいつの笑顔は演技だ」とか言ってるの見て、「バレてるー!!」って』
コメント欄がざわつく。
『え、そうなのw』
『深月くんはそんなキャラじゃないでしょ』
『深月くんが爆笑してたなら……いいのか?』
『そうそう。だから今回の件、深月本人は全然怒ってない』
嘘だ。
いや、嘘じゃないかもしれないが、レンは上手く「悪意あるディスり」を「愛のあるイジり(プロレス)」にすり替えたのだ。
『だからさ、みんなもおでんさんを攻撃するんじゃなくて、深月公認のツッコミ役として見守ってあげてよ』
『また面白いこと言ってくれたら、俺らが公式で反応するからさ!』
『でもさ、おでんさん。まだみんな「本当に面白がっていいの?」って疑ってると思うんだよね』
『だからここで、「おでんVS蓮田深月! 悪口選手権」やりましょう!』
「……はぁ!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
炎上してる本人に、さらに火薬をくべる気か?
『おでんさんが思う「深月のここがムカつく!」ってところ、もっと具体的に教えてよ。俺らが判定するからさ』
「いや、あの、俺はもう引退を……」
『はい、第一問! 深月の見た目でムカつくところは?』
逃げられない。
レンは楽しそうに進行しているが、コメント欄のファンたちはまだ目を光らせている。
ここで変に媚びたら「やっぱり嘘つきだ」と叩かれる。かといって本気で悪口を言えば殺される。
俺は冷や汗をダラダラ流しながら、必死に言葉をひねり出した。
「……か、顔が……良すぎるところ、です」
『ブッ!w 顔が良すぎる?』
「……あんな整った顔で、涼しい顔して生きてるのがムカつきます。もっとこう、鼻毛とか出てればいいのにって、思います……」
小学生レベルの悪口。
だが、レンは机を叩いて爆笑した。
『あはははは! 鼻毛! 確かにあいつ隙がないもんねー!』
『みんな聞いた? これただの嫉妬だよ! 可愛いじゃん!』
コメント欄の空気が少し緩む。
『アイドルなら鼻毛の手入れくらいするわ』
『ただの僻みでワロタ』
『おっさんの嫉妬かわいいw』
『じゃあ次! 性格でムカつくところは?』
またかよ。
性格。俺が一番知っている、あいつの不器用で、真っ直ぐで、俺を置いていった性格。
酒も入っていないのに、本音が漏れそうになるのを必死で抑え込む。
「……完璧主義、なところですかね」
『ほう?』
「……テレビとか見てても、ダンスとか一切手ぇ抜かないじゃないですか。バラエティでも真面目にコメントするし」
「……俺みたいな適当な人間からすると、見てて息が詰まるというか……もっとサボれよ、人間味がねぇよって……イライラします」
これは、半分本心だった。
あいつは昔からそうだ。一度決めたら、俺がどれだけ遊びに誘っても練習を止めなかった。
そのストイックさが、俺には眩しすぎて、辛かった。
一瞬の沈黙。
やばい、また空気重くしたか?
そう思った直後、レンが優しく笑った。
『……へえ。おでんさん、アンチって言いながら、深月のことめっちゃ見てるじゃん』
「え」
『それ悪口じゃないよ。「リスペクト」って言うんだよ』
レンの言葉に、コメント欄が滝のように流れる。
『おでん意外とみてるんじゃん』
『それな。深月くんストイックすぎて心配になるもん』
『おでん、深月くんのことめっちゃ理解してて草』
『これもう古参ファンだろ』
流れが変わった。
『……ってことで、おでんさん』
『引退とか言わないで、また配信してよ。』
「……は、はぁ……」
『実は俺もたまに見てるんだよね、おでんさんの配信。あのダウナーな感じ、寝る前にちょうどよくてさー』
レンがサラリと言った一言に、今日一番の衝撃が走った。
俺が驚くより早く、コメント欄が爆発的な速さで流れた。
『えっ』
『レンくんVとか見るの!?』
『まさかのVオタwww』
『そこらへんのVじゃなくて、このおっさんVを見てるの!?』
『レンくんの趣味がわからんw』
『おでん裏山すぎだろ』
話題は完全に「おでんへの怒り」から「レンの意外な趣味」へと移った。
5万人の興味が、俺の炎上などどうでもいいという方向にスライドしていく。
『あはは! 俺、結構V見るんだよね』
『だからみんな、おでんさんのこといじめないでね? 俺の推し……は言い過ぎだけど、お気に入りの配信者なんだから!』
レンがウインクする気配がした。
画面は『了解』『レンくんの推しなら仕方ない』『チャンネル登録してくるわ』というコメントで埋め尽くされた。
助かった……のか?
よく分からないが、俺は国民的アイドルの手によって、強引に「許された」らしい。
嵐のようなコラボ配信。
俺はただ、狐につままれたような顔で、「配信終了」の文字を見つめることしかできなかった。
レンの奴、最後にウインクしやがったな。どういうつもりだ。
だが、本当の嵐はここからだった。
配信が切れた直後、俺のスマホが震えた。
画面には、LINEの通知。
『友達追加されました』の文字と、表示された名前に、俺は呼吸を止めた。
『蓮田 深月』
本物だ。
レンにはLINEは教えていない。
恐る恐るトーク画面を開くと、たった二行のメッセージが届いていた。
『おばさんから今の住所聞いた』
『今から行く』
「……は?」
おばさん?
おばさんって、うちの母さんのことか?
なんで深月が母さんと連絡を?
俺は慌ててトーク一覧に戻る。
炎上の通知やレンとのやり取りで埋もれていたが、数時間前――俺が「人生終わった」と絶望していた時間に、母からLINEが届いていた。
未読スルーしていたそのメッセージを開く。
『陸! ちょっと、今日深月くんが家に来たんだけどー!!!!』
『あんた連絡取ってないって言ってたのに、まだ繋がってたんじゃない! 水臭い!』
『しっかりサインもらっちゃった! 嬉しすぎるー!』
文面から溢れ出る興奮。
そして、トドメの一撃が、満面の笑みのピースサインのスタンプと共に添えられていた。
『あ、あんたの今の住所教えたからね! 今からそっち行くって!』
『(ピース)』
「……か、あ、さぁぁぁぁぁぁん!!!」
俺の絶叫が、狭いアパートに響き渡った。
特定班より怖い。
身内からの情報漏洩。
実家に凸して、母さんを懐柔して、住所を聞き出す。あの国民的アイドル、行動力がストーカーのそれだ。
その時だった。
ピンポーン。
間髪入れずに、インターホンが鳴った。
心臓が口から飛び出るかと思った。
ピンポーン、ピンポーン。
迷いのない連打。
モニターを見るまでもない。
そこに立っているのは、俺を迎えに来た「かつてのライバル」。
逃げ場は、完全に塞がれた。
俺は観念して、重い足取りで玄関へと向かった。
震える手で、鍵を開ける。
ガチャリ。
ドアを開けた瞬間、俺の視界は黒い影に覆われた。
「……く」
「うわっ!?」
感動の再会なんてものはなかった。
深月は無言で俺の腕を掴むと、強引に部屋から引きずり出した。
「ちょ、おい! 待てって! 靴! 靴履かせろ!」
「……そこで履け。あと財布とスマホ。それだけ持ってこい」
低い声。有無を言わせない圧力。
俺はパニックになりながら、玄関に転がっていたスニーカーを突っ掛け、言われるがままに財布とスマホを鷲掴みにした。
そのまま、俺はマンションの前に停まっていた黒塗りの高級車に放り込まれた。
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