箱庭物語

晴羽照尊

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ローマ編

36th Memory Vol.3(イタリア/ローマ/7/2020

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 熱いシャワーを浴び、思考をクリアにする。簡単な柔軟で体をほぐし、朝の光を取り入れる。いつもと変わらぬ黒いスーツ。ぼろぼろの茶色いコート。ボルサリーノ。
 いつもの装いだが、本日はもう一つ、アルミケースを準備した。作戦に使うのだ。
 鏡の前で自分の顔を見る。大人になった、と、そう思う。自らを省みるとき、比較するのはいつも、あのころの自分だ。

「……おい、いつまでやってんだ」

 準備を整え、もう出発しようとドアノブに手をかけて呼びかける。さきほどからずっと、ノイズのような音が響いていた。

「可愛い少女は、準備に時間がかかるものよ。まだ可愛いブローが終わらないの」

 ドライヤーの音が続く。鼻歌も混じる。
 男は嘆息した。仕方なく椅子に腰かけ、机に脚を乗せる。

「うふふ。今日も完璧、可愛いわ、わたし」

 機嫌よさそうにウォッシュルームから少女が出てくる。美しい銀髪。エメラルドのような緑眼。潔癖なほどに真っ白な、ノースリーブのワンピース。連日そうやって肌を晒していても、その肌は服装と同じほどに白い。
 ただひとつ、黒く煤けた左腕を除いて。
 少女は最後の準備として、その黒を白で覆った。

「ガキが色気づいてんじゃねえよ」

 男は舌打ちする。直視できない傷から目を逸らしながら。

「たしかに可愛いわたしはなにをしたって可愛いけれど、身だしなみはレディのたしなみなのよ」

「たしなまねえでいいんだよ。観光じゃねえってなんども言ってんだろ」

「ただ歩いているだけでも、可愛い少女は世界を救えるの。昨日一日で可愛いわたしが、なんど男性に声をかけられたと思っているの」

「そりゃこの国の風習だ。図に乗るんじゃねえ」

 息を吐いて、男は立ち上がる。

「じゃあ、行くぞ」

 改めて、ドアノブを握る。

        *

 午前九時。まずはトラットリアで朝食を済ませる。
 栄養はしっかり採らねばならない。一日のパフォーマンスは朝食にかかっているといってもいい。そして一日一日を堅実にこなしていくことが、将来の自分を作る。大望のためにはなんでもない毎日をいかに堅実にこなさなければいけないかを、男は知っていた。

「だからって朝からそんながっつくのも問題だがな」

「むぐむぐ?」

「なんでもねえよ。体を壊さねえなら好きなだけ食え」

 男は新聞を広げながら言う。イタリア語はさほど学んでいないが、日常会話くらいならできる。
 コーヒーをすする。どうせ詳細は読めやしないし、時間もない。新聞はななめ読みだ。

「うん?」

「むぐ?」

「てめえはいつまで擬音やってんだ」

「むぐむぐ、むぐー」

「解んねえから、飲み込んでから話せ」

 少女は上目づかいで男を睨み、やがて飲み込んだ。

「可愛いは、なんどやっても、可愛いの」

「あっそ」

 男は軽くあしらう。そして、気にしていた記事に目を戻す。

「おい、ノラ。この記事なんて書いてあるんだ?」

「むぐ? ……えっと、『BTC社長、何者かに自宅を襲撃される』、かな」

「見出しくらい解る。内容を要約してくれ」

 わずかにむくれて、少女は新聞をひったくる。

「この社長さんが自宅を襲撃されて、家が燃えちゃったみたいね。だけど不思議なことに、消防が来る前に火は消し止められた。……誰がやったかは解らないみたい。火をつけた人も、火を消した人も。野次馬もたくさんいたのに、誰もそんな人を見ていない。だけど自然に消えたにしては、火が大きすぎた。あ、ちなみに、社長さんは幸いにも無傷で逃げられたみたいね」

 ん。と、不愛想に新聞を男に返す。
 男は改めて、同じ記事を見直す。
 不思議な事件には、不思議な力が及んでいることがままある。たとえば『異本』のような。

        *

 トラットリアを後にする。もしかしたらもう今日中にはローマを発つかもしれない。男はそう言って、店主と握手を交わした。
 少女はやや距離を取り、空を見上げる。少女はこの日もつばの広い麦わら帽子をかぶっていた。ゆえに、空を見るには、ほぼ真上を向かなければならない。本日も見事な夏晴れだった。

「待たせたな。行くか」

「わわわ」

 少女は後ろに倒れそうになる。体勢を立て直し、声のした方を睨む。

「なんだよ」

「なんでもないわ。体勢を崩し、それを立て直す可愛い少女の図を、わわわ付きで再現してただけよ」

「わわわ付きってなんだよ」

「わわわはわわわよ。……行きましょう」

 少女はすこし頬を赤らめ、先に歩き出した。
 ため息をついて、男はその後を追う。
 昨日と同じ道。まだ午前中だというのに、カフェのテラス席でワインを飲むシニョーレ二人組が、少女を見て声を上げ、手を振ってくる。少女も笑顔で手を振り返した。

「あんまり愛想よくすんなよ。付き纏ってくんぞ」

「あれ、妬いてるの、ハク」

 小悪魔フェイスで少女が男を見ると、悪魔のような形相で返された。

「面倒事はごめんだって言ってんだ」

「冗談じゃない」

 髪を払って、少女はそっぽを向く。
 そんな表情もチャーミングだね。たまたま向いた方から歩いてきたシニョーレが、即座にそう言った。ありがとう。と、少女は笑いもせずに返す。
 これでいい? という表情で少女が男を見上げると、男はすでに、遠くを見ていた。
 少女はむくれたが、その視線を辿って、ある程度を察した。男が見ていたのはサン・ピエトロ広場。バチカン市国の玄関口ともいうべき場所だ。

「寄っていく? 急ぐ必要もないでしょう」

「いや、いい。たぶん混んでんだろ。チケットの予約もしてねえし」

「そう」

 予約とかできるんだ。少女は思った。

        *

「お待ちしておりました。ハク様。ノラ様」

 先日と同様、老執事に城まで案内されると、扉を開けたのは例のメイドひとりだった。
 城へ入り、大広間へ進む。やはり、他には誰もいない様子である。

「じいさんは、今日は?」

「書き物があると、書斎に籠っております。お出迎えができず、申し訳ございません」

 メイドはやはり感情のない顔でうやうやしく一礼した。

「そうか。……今日は、いくつか作戦を立ててきた。先に少し準備をするから、あの部屋に飲み物を頼む」

 男はアルミケースを持ち上げ、メイドに示した。

「かしこまりました。ダージリンをお持ち致します」

 言うと、メイドは再度頭を下げ、去って行った。
 他に使用人の姿は見えない。勝手に行っていいのだろう。
 大階段を登り、右手。似たようなドアが続き、どの部屋だったか解らなくなる。

「どこまで行くの、ハク」

 言われて男は立ち止まる。
 振り返ると少女がドアを開いているところだった。

「ここでしょ」

「よく解ったな」

「木目の違いでね。とはいえ、お客人には不親切ね、こうまで似た扉続きだと」

 男は念のため、ひとつ手前のドアも開けてみた。その部屋の床には、たしかに変わらず、空白が空いていた。

        *

「お待たせ致しました。お客様」

 男と少女が部屋に辿り着いてすぐ、メイドは紅茶を運んできた。本日はオレンジやレーズンを練り込んだクッキーとともに提供された。

「それでは、失礼致します」

 言う前に、少女はクッキーを頬張りはじめている。

「ちょっと待て。……このクッキーはここで作ったものか?」

「はい。当家自慢のシェフの手作りでございます」

「なるほど」

 男はクッキーをひとつつまみ上げる。

「いい匂いだ」

 言って、なぜか皿に戻した。

「ところで、じいさんに少し話があるんだが、面会は可能か?」

「かしこまりました。主人に確認をしてまいります」

「可能であれば、こちらから出向く。……じいさんの書斎ってのも見てみたいしな」

 メイドはうやうやしく頭を下げ、出て行った。
 ゆっくりと、時間を溜める。足音は決して大きくはないが、たしかに去って行く。

「じゃあ、この後は予定通りに」

 男は念のため、母国語で少女に言った。

「ふぐう」

 頬を膨らませた少女は、握りこぶしに親指を立て、掲げた。

        *

 面会は問題なく叶った。

「いやはや、お迎えもできずすみませんな」

「いや、時間を指定していたわけでもねえし、仕方ねえさ」

 老人は変わらず皺くちゃな表情に瞳を埋もれさせ、温和そうに話した。

 書斎は男が思っていたよりは質素な空間だった。家具や調度品はさすがに質がよさそうだが、特別に高級品には見えない。本棚には古今東西のあらゆる書物が、順不同に敷き詰められている。

「不思議な並べ方だな。孫子にシェイクスピアが並んでるのなんてはじめて見たぜ。そしてその横が……こりゃあ、先月出た新刊だろう」

「お恥ずかしい。この部屋は基本的に、使用人に触れせておりませんので、少々汚れが目立つかもしれません」

 たしかに老人の言うとおり、わずかに埃も見て取れ、丸められた紙も転がっている。だが、その人間臭さが、男にはほどよく心地よかった。

「それで、この老いぼれにご用でしたかな。もしや『ジャムラ』のことでしょうか」

「いや、ちょっとじいさんの書斎を見てみたかっただけだ。……本棚を見りゃ、人間性が解るってのは、本当だよな」

「ほっほっほ。ただただ名著、新書を乱読しているだけですぞ。若かりしころは好みもありましたが、この年になると、もう大きく感動させられる本に出会うのは難しい。……なにもかも俯瞰してしまいますから」

 老人はすこし淋しそうにそう言った。男の隣に立ち、本の背表紙を撫でる。

「金に物を言わせて集めたのか。『西本願寺本万葉集』、『ダ・ヴィンチの解剖手稿』、……『グーテンベルク聖書』まで。というか、ここに一冊あったのか」

「若気の至りですな。まだたいして金もないころに、方々から借金をして購入したものです」

「どんだけ無理したかは知らねえけど、無理して買える時点で十分、金持ちだろ」

 男は嘆息する。隣の老人を見遣る。その横顔は、相変わらず皺で潰れているが、見たことがあるような表情をしていた。

「だが、この蔵書の数々じゃねえ。じいさん、あんたの人間性ってのは、この本の保存状態――傷み具合で解る」

 あんたは――。
 男が言いかける。そして、ガラスの割れる音。なにかの壊れる音。
 男は振り返り、駆け出す。なにが起きたかは解らないが、音の方向から察するに、『異本』の心配をした方がいい。

        *

 大階段のそばまで戻る。その位置から遠目に、件の部屋が見える。廊下の先。右手には手すりが続き、そこから見下ろせば大広間だ。
 男はそばの手すりにつかまり、その手元から順々に先を辿る。

 部屋のすぐ目の前だ。そこで、手すりが途切れる。荒々しく、途切れる。
 男は駆け寄った。もう部屋の位置は間違わない。壊れた手すりの向かいだ。走りが加速するにつれ、右手にかかる摩擦が熱を帯びる。そして減速。だが、熱は燃え上がり続ける。

「……ノラ!」

 少女の姿は、すぐに確認できた。おそらく現在、この建物の敷地内で、もっともそれは目立っていた。
 壊れた手すりの真下、大広間の大理石の床の上。
 高さにしておよそ五メートルの下に、その姿はあった。いつかと同じように、その白い姿を、赤く染めて。

「お。もしや……ハクか?」

 声のした方を振り向く。『ジャムラ』があるはずの部屋。
 扉は上半分の蝶番ちょうつがいが外れ、わずかに傾き、開け放されたまま静止していた。
 そして、その部屋の中には――

「久方ぶりじゃ。末弟」

「……ホムラ」

 血よりも鮮やかな赤髪の女が、幼い顔から犬歯をむき出し、立っていた。


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