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ローマ編
36th Memory Vol.4(イタリア/ローマ/7/2020)
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男は気を静めた。まず、落ち着くことだ。
そして、ひとつひとつ状況を確認する。
少女は、この高さから下に落ちた。だが、男は少女の持つ能力を知っている。おそらく即死でなければ、回復は問題ないだろう。
次に、『ジャムラ呪術書』。それは少女が回収に向かっていたはず。でなければ、少女が落ちている場所は、もう一部屋分ずれているはずだから。
だとしたら、回収は済んだあとなのか。部屋を確認。先日まで『ジャムラ』があったあたりに『存在の消滅』の痕跡はない。だが、部屋自体が荒れており、諍いの中で位置がずれた可能性もある。部屋を一通り見渡す。男の視界には、それらしい痕跡はない。
改めて少女を見下ろす。少女はうつ伏せで倒れており、表情は見て取れない。
もし『ジャムラ』回収後なら、少女が持っている可能性がある。だが、これも男の視界には見当たらない。
仮に少女の体の陰にあるとしたら、それが一番都合がいい。少女が持っていて、かつ、少女の姿が認識できるということは、『ジャムラ』は、ちゃんと開かれているはずだからだ。
回収できておらず、まだ部屋の中、かつ、男の視界外にあるのが、もっとも厄介だが、それでも最悪ではない。問題は、突然現れた女だ。
「窓から入ったのか?」
男は女の後ろを指さす。その先にある窓は、ガラスが割れていた。
「ああ、これ、窓じゃったのか。大きいからドアと間違って、入ってしまったわ」
悪びれもせず、女は言った。ジャラジャラとアクセサリーのついた軍帽をすこし持ち上げ、窓を振り返りながらも、視線は男に向けている。
「相変わらずだ。……ここへはなにしに?」
「それはこっちのセリフじゃ。なにをしている、末弟。まさか、汝も『ジャムラ』を?」
男は女に聞こえないように舌打ちをする。
「あのじじい、まさか全員に声かけたってのか」
小さく愚痴る。
たしかに、『先生』の後継者はひとりじゃない。そのすべてに声をかけていてもおかしくはなかった。
「なんじゃ、末弟。汝は呼ばれて来ていたのか。そりゃあ災難じゃったな」
くっくっく。と、本当に可笑しそうに、女は笑った。
体型こそモデル並だが、その表情は無垢な少女のようだ。しかし、やはりそれなりの年齢ではあるのだろう。所作の端々から、大人らしさが伝わってくる。
「さて、昔話に花を咲かせる前に、末弟、『ジャムラ』を妾に渡せ。まだ回収前なら、在り処を教えるがいい」
傲岸不遜に、女は言った。
*
しめた。
男はそう思った。
『ジャムラ』を渡せ。つまり、女はまだ、『ジャムラ』を見つけていない。
男は女のことを知っている。女は『ジャムラ呪術書』の特性を知っている、ということを、男は知っている。つまり、女の視界に『ジャムラ呪術書』は、現在、ない。
いくら部屋が荒れたとはいえ、『存在の消滅』状態の『ジャムラ』があれば、あの女が気付かないはずがない。いや、『存在の消滅』が解除されていたとしてもだ。女は『ジャムラ』の装丁を知っている。それを見落とすほど、女は愚かではない。
ということは。男は改めて、階下を確認する。
少女はいまだ倒れている。動く様子はないが、よく見ると、呼吸している様子が見て取れる。かすかにではあるが、胸が上下しているのだ。だが、動く様子がないということは、気を失っているのかもしれない。だとしたら、担いで逃げることになる。あの女から逃げながら?
ふう。と、男は息をついた。
いや、仮に少女が目覚めたとしても、あの女から逃げるのに子連れじゃ遅すぎる。
「悪いな、ホムラ」
男は算段を立てる。
廊下の奥に、遅ればせながら、老人が到着する。
男が老人の方を向く。つられて女も、老人を見た。
「『ジャムラ』は渡せない」
男は『箱庭図書館』に手を伸ばした。
*
「お」
女は見知った老人の顔に反応を示した。
だが、男からの宣戦布告が耳に入っていないわけではない。すぐに男の方へ視線を戻した。
「おお」
呆けた声で女は二度、声を上げた。
視界には紙とインク。文字、挿絵。嗅ぎ慣れた本の匂い。それが感じられるほどの距離で、投げつけられたそれを掴んだ。
「おおぉ……?」
疑問を持った。
わずかに視界が歪む。だが、ワインを一本飲んだ程度だ。その歪みは。
だから疑問は、その効能ではなく、投げつけられたそれ自体。
「『ランサンのフェイク』……『五番』じゃな」
まぎれもなく『異本』だ。それを、あの男が手放した?
見ると、その男はもういない。だが、わずかな振動と音で感じ取れる。
「下か」
壊れた手すりから下を覗くと、男はすでに大広間に降りていた。時間的なことを考えれば、『ランサンのフェイク』でのタイムロスを考えても、飛び降りたとみるのが妥当だろう。
「ホムラ様」
老人がようやく、その場所に追い付いてきた。急いで来たのか、それとも別の理由か、額には汗が浮いている。その頼りない体躯と体力でも、老人はその廊下に立ちはだかった。
「汝、妾を差し置いて、あの末弟に『ジャムラ』を譲ろうとしたこと、妾は忘れんからな。それはつまり、汝は『パパ』の後継を、あの末弟こそふさわしいと、妾たちに宣言したようなものじゃからな」
「ええ、覚悟しております」
老人もわずかに、階下を覗き見た。
*
飛び降りた。たかが五メートルだ。だが、飛び降りてみると久方ぶりの感覚に、汗が噴き出す。
男は足裏に意識を集中させた。地に付くタイミングが勝負だ。そこで関節という関節をうまく駆動させることで、着地時のエネルギーを分散させる。
「ノラ!」
着地は成功した。だが、体がなまっている。その事実を突き付けられる飛び降りだった。
少女の体を揺らす。呼吸をしていることは確認済み。生きてさえいれば、どんな大怪我でも治るはずだ。後遺症の心配もない。だから、男は激しく、少女を揺り動かす。
「ノラ! 起きろ! 時間がねえ!」
「ううん。……あと五分」
少女の口元から、耳を疑う発声が聞こえた。
男は自身の頭の中で、なにかが切れる音を聞いた。
「ふざけんな! とっとと起きろてめえ! 死にてえのか、ごらあ!!」
「痛い! 痛い! 冗談じゃない!」
男の往復ビンタに、さすがの少女も目を覚ました。
「動けるな、ノラ。てめえを担いで逃げられるほど、俺の足はいま、まっとうじゃねえ」
「ほんと。ずいぶんガタがきてるみたいじゃな、末弟。こすずるい手練手管にばかり頼るからじゃ」
予想よりはるかに早く訪れた声に、男は振り返る。
振り返りながら、振り返っている場合じゃない、と警鐘が鳴る。
「『嵐雲』。一分」
男は女の姿を見ることはできなかった。
その理由のひとつは、急な突風に吹かれたから。もうひとつの理由は、何者かに、手を強く引かれたからだった。
*
「お急ぎください。お客様」
暗い通路だった。そして黒い服を身に着けた先駆者は、その陰にまぎれ、目視できなかった。もちろんそれで、その者が誰なのか判別できないほどに男も少女も愚かではなかったが。
「これでも全速力だ」
男は息を切らしながら走る。本当に体がなまっている。これは深刻な問題だ、と、男は猛省した。
「泣き言なら後日、いくらでもお聞きします。ですからもっと、限界を超えてください」
「無茶言うな」
「無茶ではありません。現に、ノラ様はあのように、我々のはるか先です」
「あいつは全体的にチートなんだよ」
男が言うと、眼前のメイドはため息を漏らした。かと思うと、次の瞬間には少女に手が届くところまで移動していた。
あの服装で、忍者か? 男は驚くよりまず、呆れ果てた。
「こちらです、お客様」
男の目に、光が見える。その光には、二つの人影。どうやら男を置き去りにして、先を行く二人は抜け出したらしい。
そして背後からも、音が聞こえる。決して速くはないが、少なくとも男よりは速く、荒々しい靴音。
「くそっ!」
男は力を振り絞り、加速を増す。
光に包まれたとき、なるほど、限界も案外、簡単に超えられる、と男は思った。
背後の靴音を遮るように、重厚な扉を閉める。
*
なぜだか久方ぶりだと感じてしまう光のもと、男は目を細めた。
ほぼ間違いはないだろうと確信をしてはいたが、しっかと見てみるに、やはり男の手を引いたのは、あのメイドだった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、裏庭まで休む暇はございません」
メイドは言って、また、駆け出す。男も仕方なく後を追った。
「裏庭? 表門じゃねえのか?」
「普通に逃げるだけで、逃げ延びれるとお思いですか? ヘリをご用意しております」
この城の敷地の広さは、男も把握していた。さきほどの暗い通路は初めて通ったが、おおよその位置は解る。そこから考えるに、裏庭までは少々遠かった。
「無理だ。追い付かれるぞ」
「口ではなく、足を動かしてください、お客様。ご心配には及びません。現在当家の使用人が総出で、足止めをしているはずです」
メイドの言葉に従うわけではないが、男は口を噤んだ。言われた内容を訝しんだからだ。
使用人が足止め?
「どうやら誤解があるようですが、お客様。私どもはハク様、ノラ様に害意など持っておりません。緊急事態ゆえ、言葉を尽くして弁解する暇はございませんが、どちらにせよ、いまは私の指示に従うほか、道はないと存じます」
男は舌打ちをする。メイドの言葉が的を得ていたからだ。
「解っ――」
安心したのか、わずかに気を緩めた瞬間、男はまたも、強く手を引かれた。よく手入れの行き届いた芝生に、顔面から飛び込む。
湧き上がる文句は、口から出なかった。
「どこへ行くのじゃ、末弟」
メイドの言葉を疑いたくなるような余裕さで、女は追い付いてきた。
「久方ぶりじゃというのに、つれないのう」
*
男は、苛立っていた。
「ここは私にお任せください。お二人はお早く」
なまった体、もつれる足、切れる息。
たしかに、女の言うとおり、いつの間にか、器用さだけ磨き上げて、野性を忘れていた。
「行きましょう、ハク。メイドさんの言うとおり」
少女の手が触れる。肌とは違う、オペラグローブの冷たい感触。その内側の、少女の決意。
俺はなにをしている?
俺はなにをしている?
俺はなにをしている?
「俺はなにをしている?」
「なんかぶつぶつ言ってる」
「そうだな。間違いない」
男は少女の手を払い、自ら立ち上がった。
「おい、メイド。そいつ――その女は、身内じゃねえけど俺の内輪の人間だ。てめえらの厄介は受けねえ」
「いえ、邪魔なので早く行ってください」
「メイドさんもああ言ってるし、たぶん本気で邪魔なのよ、ハク」
「だああぁぁ!!」
男は芝生を踏み荒らした。
「なんなんだよ! なんなんだよ!? いまのはなんかこう、俺が決意を固めて、戦闘に入るところだろうがよ! 空気読めよ!」
男が叫ぶ。
少女とメイドが半目で男を見た。
「ふ、ふふふふ。あはーはっはっはっは!!」
そして、相対する女は、大爆笑だった。
「いやあ、おもしろいの、汝ら」
女は笑いながらも、コートのポケットから、大量の札束を取り出した。
不敵に、犬歯をむき出し、笑う。
*
まず反応したのはメイドだった。目で追えないほどの速さで伸縮式の警棒を取り出す。男の目には、どこから取り出したのかすら視認できなかった。きっと全盛期なら見えていたはずだ。男は再度、自分を戒める。
そして、メイドは手を伸ばしてきた。
「逃げないとおっしゃるなら、『ジャムラ呪術書』をお貸し願えますか」
「あほ言え、もうこれは――」
「はい、メイちゃん」
男が言い切る前に、少女が渡してしまっていた。
『ジャムラ呪術書』。『存在の消滅』が解除され、ようやく現れたその本は、ダークパープルの装丁に金文字が入っていた。
というか、いまさらだけれど、やっぱりお前が持ってたんだな。男はここでようやく、それに気付いた。あとついでに、メイちゃんってなんだよ、とも思った。
「なに渡して――」
男は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
目の端に、わずかな発光が見られたからだ。男の人生で、その光を見たのは、ごく少ない回数だった。なぜなら男自身には、その才能がまるきりなかったから。
「ご安心ください。この狼藉者を追い払ったら、すぐにお返しいたします」
メイドは、右手に警棒、左手に『ジャムラ』を持ち、構える。
男は、その左手に注目していた。いや、目が離せなかった。その光景に、目を疑った。
「てめえ、まさか」
『ジャムラ呪術書』は、間違いなくメイドの手の中で閉じられていた。『存在の消滅』。本来なら自動的にそれが発動し、目にする機会などない、閉じられた状態の『ジャムラ呪術書』。
その異端と、わずかに発光する装丁から、男は悟った。
「『適応者』だったのか」
そして、ひとつひとつ状況を確認する。
少女は、この高さから下に落ちた。だが、男は少女の持つ能力を知っている。おそらく即死でなければ、回復は問題ないだろう。
次に、『ジャムラ呪術書』。それは少女が回収に向かっていたはず。でなければ、少女が落ちている場所は、もう一部屋分ずれているはずだから。
だとしたら、回収は済んだあとなのか。部屋を確認。先日まで『ジャムラ』があったあたりに『存在の消滅』の痕跡はない。だが、部屋自体が荒れており、諍いの中で位置がずれた可能性もある。部屋を一通り見渡す。男の視界には、それらしい痕跡はない。
改めて少女を見下ろす。少女はうつ伏せで倒れており、表情は見て取れない。
もし『ジャムラ』回収後なら、少女が持っている可能性がある。だが、これも男の視界には見当たらない。
仮に少女の体の陰にあるとしたら、それが一番都合がいい。少女が持っていて、かつ、少女の姿が認識できるということは、『ジャムラ』は、ちゃんと開かれているはずだからだ。
回収できておらず、まだ部屋の中、かつ、男の視界外にあるのが、もっとも厄介だが、それでも最悪ではない。問題は、突然現れた女だ。
「窓から入ったのか?」
男は女の後ろを指さす。その先にある窓は、ガラスが割れていた。
「ああ、これ、窓じゃったのか。大きいからドアと間違って、入ってしまったわ」
悪びれもせず、女は言った。ジャラジャラとアクセサリーのついた軍帽をすこし持ち上げ、窓を振り返りながらも、視線は男に向けている。
「相変わらずだ。……ここへはなにしに?」
「それはこっちのセリフじゃ。なにをしている、末弟。まさか、汝も『ジャムラ』を?」
男は女に聞こえないように舌打ちをする。
「あのじじい、まさか全員に声かけたってのか」
小さく愚痴る。
たしかに、『先生』の後継者はひとりじゃない。そのすべてに声をかけていてもおかしくはなかった。
「なんじゃ、末弟。汝は呼ばれて来ていたのか。そりゃあ災難じゃったな」
くっくっく。と、本当に可笑しそうに、女は笑った。
体型こそモデル並だが、その表情は無垢な少女のようだ。しかし、やはりそれなりの年齢ではあるのだろう。所作の端々から、大人らしさが伝わってくる。
「さて、昔話に花を咲かせる前に、末弟、『ジャムラ』を妾に渡せ。まだ回収前なら、在り処を教えるがいい」
傲岸不遜に、女は言った。
*
しめた。
男はそう思った。
『ジャムラ』を渡せ。つまり、女はまだ、『ジャムラ』を見つけていない。
男は女のことを知っている。女は『ジャムラ呪術書』の特性を知っている、ということを、男は知っている。つまり、女の視界に『ジャムラ呪術書』は、現在、ない。
いくら部屋が荒れたとはいえ、『存在の消滅』状態の『ジャムラ』があれば、あの女が気付かないはずがない。いや、『存在の消滅』が解除されていたとしてもだ。女は『ジャムラ』の装丁を知っている。それを見落とすほど、女は愚かではない。
ということは。男は改めて、階下を確認する。
少女はいまだ倒れている。動く様子はないが、よく見ると、呼吸している様子が見て取れる。かすかにではあるが、胸が上下しているのだ。だが、動く様子がないということは、気を失っているのかもしれない。だとしたら、担いで逃げることになる。あの女から逃げながら?
ふう。と、男は息をついた。
いや、仮に少女が目覚めたとしても、あの女から逃げるのに子連れじゃ遅すぎる。
「悪いな、ホムラ」
男は算段を立てる。
廊下の奥に、遅ればせながら、老人が到着する。
男が老人の方を向く。つられて女も、老人を見た。
「『ジャムラ』は渡せない」
男は『箱庭図書館』に手を伸ばした。
*
「お」
女は見知った老人の顔に反応を示した。
だが、男からの宣戦布告が耳に入っていないわけではない。すぐに男の方へ視線を戻した。
「おお」
呆けた声で女は二度、声を上げた。
視界には紙とインク。文字、挿絵。嗅ぎ慣れた本の匂い。それが感じられるほどの距離で、投げつけられたそれを掴んだ。
「おおぉ……?」
疑問を持った。
わずかに視界が歪む。だが、ワインを一本飲んだ程度だ。その歪みは。
だから疑問は、その効能ではなく、投げつけられたそれ自体。
「『ランサンのフェイク』……『五番』じゃな」
まぎれもなく『異本』だ。それを、あの男が手放した?
見ると、その男はもういない。だが、わずかな振動と音で感じ取れる。
「下か」
壊れた手すりから下を覗くと、男はすでに大広間に降りていた。時間的なことを考えれば、『ランサンのフェイク』でのタイムロスを考えても、飛び降りたとみるのが妥当だろう。
「ホムラ様」
老人がようやく、その場所に追い付いてきた。急いで来たのか、それとも別の理由か、額には汗が浮いている。その頼りない体躯と体力でも、老人はその廊下に立ちはだかった。
「汝、妾を差し置いて、あの末弟に『ジャムラ』を譲ろうとしたこと、妾は忘れんからな。それはつまり、汝は『パパ』の後継を、あの末弟こそふさわしいと、妾たちに宣言したようなものじゃからな」
「ええ、覚悟しております」
老人もわずかに、階下を覗き見た。
*
飛び降りた。たかが五メートルだ。だが、飛び降りてみると久方ぶりの感覚に、汗が噴き出す。
男は足裏に意識を集中させた。地に付くタイミングが勝負だ。そこで関節という関節をうまく駆動させることで、着地時のエネルギーを分散させる。
「ノラ!」
着地は成功した。だが、体がなまっている。その事実を突き付けられる飛び降りだった。
少女の体を揺らす。呼吸をしていることは確認済み。生きてさえいれば、どんな大怪我でも治るはずだ。後遺症の心配もない。だから、男は激しく、少女を揺り動かす。
「ノラ! 起きろ! 時間がねえ!」
「ううん。……あと五分」
少女の口元から、耳を疑う発声が聞こえた。
男は自身の頭の中で、なにかが切れる音を聞いた。
「ふざけんな! とっとと起きろてめえ! 死にてえのか、ごらあ!!」
「痛い! 痛い! 冗談じゃない!」
男の往復ビンタに、さすがの少女も目を覚ました。
「動けるな、ノラ。てめえを担いで逃げられるほど、俺の足はいま、まっとうじゃねえ」
「ほんと。ずいぶんガタがきてるみたいじゃな、末弟。こすずるい手練手管にばかり頼るからじゃ」
予想よりはるかに早く訪れた声に、男は振り返る。
振り返りながら、振り返っている場合じゃない、と警鐘が鳴る。
「『嵐雲』。一分」
男は女の姿を見ることはできなかった。
その理由のひとつは、急な突風に吹かれたから。もうひとつの理由は、何者かに、手を強く引かれたからだった。
*
「お急ぎください。お客様」
暗い通路だった。そして黒い服を身に着けた先駆者は、その陰にまぎれ、目視できなかった。もちろんそれで、その者が誰なのか判別できないほどに男も少女も愚かではなかったが。
「これでも全速力だ」
男は息を切らしながら走る。本当に体がなまっている。これは深刻な問題だ、と、男は猛省した。
「泣き言なら後日、いくらでもお聞きします。ですからもっと、限界を超えてください」
「無茶言うな」
「無茶ではありません。現に、ノラ様はあのように、我々のはるか先です」
「あいつは全体的にチートなんだよ」
男が言うと、眼前のメイドはため息を漏らした。かと思うと、次の瞬間には少女に手が届くところまで移動していた。
あの服装で、忍者か? 男は驚くよりまず、呆れ果てた。
「こちらです、お客様」
男の目に、光が見える。その光には、二つの人影。どうやら男を置き去りにして、先を行く二人は抜け出したらしい。
そして背後からも、音が聞こえる。決して速くはないが、少なくとも男よりは速く、荒々しい靴音。
「くそっ!」
男は力を振り絞り、加速を増す。
光に包まれたとき、なるほど、限界も案外、簡単に超えられる、と男は思った。
背後の靴音を遮るように、重厚な扉を閉める。
*
なぜだか久方ぶりだと感じてしまう光のもと、男は目を細めた。
ほぼ間違いはないだろうと確信をしてはいたが、しっかと見てみるに、やはり男の手を引いたのは、あのメイドだった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、裏庭まで休む暇はございません」
メイドは言って、また、駆け出す。男も仕方なく後を追った。
「裏庭? 表門じゃねえのか?」
「普通に逃げるだけで、逃げ延びれるとお思いですか? ヘリをご用意しております」
この城の敷地の広さは、男も把握していた。さきほどの暗い通路は初めて通ったが、おおよその位置は解る。そこから考えるに、裏庭までは少々遠かった。
「無理だ。追い付かれるぞ」
「口ではなく、足を動かしてください、お客様。ご心配には及びません。現在当家の使用人が総出で、足止めをしているはずです」
メイドの言葉に従うわけではないが、男は口を噤んだ。言われた内容を訝しんだからだ。
使用人が足止め?
「どうやら誤解があるようですが、お客様。私どもはハク様、ノラ様に害意など持っておりません。緊急事態ゆえ、言葉を尽くして弁解する暇はございませんが、どちらにせよ、いまは私の指示に従うほか、道はないと存じます」
男は舌打ちをする。メイドの言葉が的を得ていたからだ。
「解っ――」
安心したのか、わずかに気を緩めた瞬間、男はまたも、強く手を引かれた。よく手入れの行き届いた芝生に、顔面から飛び込む。
湧き上がる文句は、口から出なかった。
「どこへ行くのじゃ、末弟」
メイドの言葉を疑いたくなるような余裕さで、女は追い付いてきた。
「久方ぶりじゃというのに、つれないのう」
*
男は、苛立っていた。
「ここは私にお任せください。お二人はお早く」
なまった体、もつれる足、切れる息。
たしかに、女の言うとおり、いつの間にか、器用さだけ磨き上げて、野性を忘れていた。
「行きましょう、ハク。メイドさんの言うとおり」
少女の手が触れる。肌とは違う、オペラグローブの冷たい感触。その内側の、少女の決意。
俺はなにをしている?
俺はなにをしている?
俺はなにをしている?
「俺はなにをしている?」
「なんかぶつぶつ言ってる」
「そうだな。間違いない」
男は少女の手を払い、自ら立ち上がった。
「おい、メイド。そいつ――その女は、身内じゃねえけど俺の内輪の人間だ。てめえらの厄介は受けねえ」
「いえ、邪魔なので早く行ってください」
「メイドさんもああ言ってるし、たぶん本気で邪魔なのよ、ハク」
「だああぁぁ!!」
男は芝生を踏み荒らした。
「なんなんだよ! なんなんだよ!? いまのはなんかこう、俺が決意を固めて、戦闘に入るところだろうがよ! 空気読めよ!」
男が叫ぶ。
少女とメイドが半目で男を見た。
「ふ、ふふふふ。あはーはっはっはっは!!」
そして、相対する女は、大爆笑だった。
「いやあ、おもしろいの、汝ら」
女は笑いながらも、コートのポケットから、大量の札束を取り出した。
不敵に、犬歯をむき出し、笑う。
*
まず反応したのはメイドだった。目で追えないほどの速さで伸縮式の警棒を取り出す。男の目には、どこから取り出したのかすら視認できなかった。きっと全盛期なら見えていたはずだ。男は再度、自分を戒める。
そして、メイドは手を伸ばしてきた。
「逃げないとおっしゃるなら、『ジャムラ呪術書』をお貸し願えますか」
「あほ言え、もうこれは――」
「はい、メイちゃん」
男が言い切る前に、少女が渡してしまっていた。
『ジャムラ呪術書』。『存在の消滅』が解除され、ようやく現れたその本は、ダークパープルの装丁に金文字が入っていた。
というか、いまさらだけれど、やっぱりお前が持ってたんだな。男はここでようやく、それに気付いた。あとついでに、メイちゃんってなんだよ、とも思った。
「なに渡して――」
男は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
目の端に、わずかな発光が見られたからだ。男の人生で、その光を見たのは、ごく少ない回数だった。なぜなら男自身には、その才能がまるきりなかったから。
「ご安心ください。この狼藉者を追い払ったら、すぐにお返しいたします」
メイドは、右手に警棒、左手に『ジャムラ』を持ち、構える。
男は、その左手に注目していた。いや、目が離せなかった。その光景に、目を疑った。
「てめえ、まさか」
『ジャムラ呪術書』は、間違いなくメイドの手の中で閉じられていた。『存在の消滅』。本来なら自動的にそれが発動し、目にする機会などない、閉じられた状態の『ジャムラ呪術書』。
その異端と、わずかに発光する装丁から、男は悟った。
「『適応者』だったのか」
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