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『シャンバラ・ダルマ』編 序章
39th Memory Vol.1(日本/新潟/9/2020)
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2020年、九月。日本、新潟。
海岸沿いに遠目からでも、あの高い壁が見える。それは、周辺に他の建造物がないことや、小高い崖の上に建っていることや、壁の高さが高すぎるという要因が挙げられる。
「つ~か~れ~た~」
日焼けとは違う浅黒い肌を纏った幼女だ。こちらは日焼けで色が抜けたのか、赤茶けた髪を伸ばしている。その脳天からは、幼女の感情を示すようなアホ毛が、力なくうなだれていた。
「うるせえ。疲れてんのはお互い様だ」
男はボルサリーノを深く押さえて、後方へ向けて言った。九月とはいえ、つい数日前まで八月だった。だから、十二分に暑い。それでも男は、黒いスーツをしっかり着込み、その上から茶色い、ぼろぼろのコートまで羽織っている。だが、疲れはあるようだが、気温に関しては余裕のありそうな表情をしていた。
「ハク~。おんぶしてや~」
幼女は似非関西弁のような、訛りを持ったロシア語で話す。確かに顔つきは北欧然としているが、男の方は東洋人だし、ここは日本であるにもかかわらず。
「さっきまでしてやってたろ。俺ももう限界だし、もうすぐ着く」
緩い斜面を登りつつ、男は顔を上げた。
「久しぶりだな。……二年ぶりくらいか?」
一度立ち止まり、そんなことを呟く。
自身が幼少期を過ごした、その場所を見据え、だいぶ薄まった感慨を抱いた。
「ぐおっ!」
不意に、力が抜け、男は倒れる。
「邪魔や。急に立ち止まらんといて」
冷たい言葉が、頭上から聞こえた。
どうやら、膝を曲げられたらしい。
*
朝食。
メイドが来てからというもの、その屋敷では、三食しっかりとした食事が振る舞われていた。
「本日はアジがよく釣れましたので、シンプルに焼き魚にしてみました」
メイドは食卓に料理を運びながら言う。メインはアジの塩焼き。確かにシンプルだが、これに勝る朝食のメインも、なかなかないだろう。ふっくらと炊いた白米。具だくさんの豚汁。納豆や卵、海苔などは食卓の中央にまとめて置かれ、好みの違う子どもたちが、好きに選べるようになっている。
「釣れたって……今朝釣ってきたのですか? メイちゃん」
驚いたように、鏡写しのようにそっくりな女児の片割れが言った。
「ええ、お魚は新鮮であればあるだけ、美味しいですから。カナタ様」
「ハルカが行っても全然釣れないのに! メイちゃん! 今度はハルカも連れてって、教えてほしいのだわ」
女児のもう一人が、勢いよく立ち上がって言った。その衝撃で豚汁が、零れそうなほど揺れる。
「ハルカ様はもう少ししとやかになりませんと、お魚が逃げてしまいます」
あ、だからいつも釣れないんですね。笑顔でメイドは言った。
「ひどいの~」
ぐだり。と、朝食の合間を縫うように女児は、上半身を食卓に広げた。いじけている言葉だが、その語気には楽しんでいる雰囲気も混じっている。
「『オヤジ』は、やっぱいらないって。……相変わらずだよ」
幼年が部屋に入りながら言った。眉間に皺を寄せた、子どもらしからぬ表情で。
「あらあら、相変わらずですね、ジン様は」
「メイさん……また頼むよ」
「ええ、シュウ様。お任せください」
どこか恐ろしい、しかし、表面上は満面の笑みで、メイドは言った。
「…………」
「…………」
そんな、楽しい食卓に、無言で座る少年少女。
気まずい。それが常に、ここ数日、少年少女が抱えていた感情だった。
*
数日前。
それは、少年少女にあんなことがあった矢先だった。屋敷の主である稲雷塵のもとへ、一本の電話がかかってきたのは。
「はい、どちらs」
がちゃん! と、レトロな黒電話を、一瞬で叩きつけた若者だった。ちなみにこの屋敷の住人で携帯電話を持っているものはいない。居候している少女やメイドを除けば。
だが、案の定、その数秒後には新たな呼び鈴が鳴り響く。
「……お出にならないのですか、ジン様」
嫌な顔で黒電話を見つめていたら、メイドが通りかかった。
その嫌な顔のまま、若者はメイドを見る。
「ちょうどいい。きみが出てくれ。ぼくはいま現在、この屋敷にいない」
言うと、ふらふらとした足取りで、若者は去って行った。
「はい」
メイドは主人の言いつけどおり、その電話に応答する。
「はい……はい。……かしこまりました」
特別な問題もなさそうに、メイドは受話器を置いた。その後、瞬間の思案後、あえて自身のスマートフォンを取り出し、別の誰かへ電話をかける。
「おはようございます、ご主人様。あなたのメイちゃんです」
からかってみると、打てば響く反応を返された。くすり。とメイドは笑う。
「それで、お尋ねしたいことが……え、はい。……はい。……かしこまりました。……いえ、私の質問というのも、そのことでしたので。はい」
もちろん相手には伝わらないが、メイドはうやうやしく一礼した。
「それでは、お待ちしております」
言って、通話を切る。
「これは、忙しくなりそうですね」
思案顔を一つ。だがそれでも、どこかその表情は、楽しそうでもあった。
*
「すまんのう。無理を言って」
スタイル抜群な赤髪の女が、操縦席に向かって言う。その言葉とは裏腹に、その声には、感謝やねぎらいの気持ちは、どうにも込もっていなかった。
けたたましい騒音だ。プロペラの駆動音。このわずかな重量を運ぶにしても、空輸であれば、これだけのエネルギーが必要なのだ。
「パラシュートはその脇に……ホムラさん?」
操縦者は振り向く。
そこには、すでに、鮮血のような鮮やかさがなかった。そして、脇には、一つも減っていない、パラシュート入りのリュック。
操縦者はすぐに、下方をうかがう。
「行こう、『嵐雲』」
飛んでいた。
それは空に詳しい操縦者の目から見て、間違いなく。風に煽られているだけであるとか、うまく滑空しているというだけではなく。あれは、風を自在に操り、鳥のように、ちゃんと飛んでいた。
「オーマイガッ……」
操縦者は驚き、呆れ、来た路を引き返す。
その詳細な座標がどこだったのか、知りもしないままに。
*
メイドからの報告を聞き、少女は全身が熱くなるのを感じた。
「ノラ様? 大丈夫ですか? お顔が真っ赤になっておりますが」
「う、うん。大丈夫。もーまんたい」
どこかカタコトじみた言い方だった。そもそも、多くの言語を使いこなす少女にしては珍しく、最後の一言は、少女の扱えない広東語だ。そんなものを口走るほどには動揺しているらしい。
「とにかくそういう事情ですので、まだ数日、こちらにはご厄介になることとなります。ジン様に許可はいただいておりますので」
微笑んでメイドは言った。メイドとしてはまったくの裏なく、この屋敷に少しでも長くいられるなら、それは少女にとって嬉しいことであろうと踏んでの笑顔だったが、どうにも様子が変だ。
「……それでは、私はこれで失礼致します。……これから買い出しに出かけますが、なにか買っておくものなどございますか?」
「……肉食いたい」
少女は小さく言った。
「はい?」
「肉! お肉いっぱい食べたい!」
赤らめた顔に、わずかに涙まで溜めて、少女は叫んだ。
辛いこと、悲しいこと、嫌なこと。あるいは、恥ずかしいことがあったら、お腹いっぱいお肉を食べるに限る。それが少女の解消法だ。
*
「すまない、ジン。もう一度言ってくれ」
少年も同時刻。その報告を受けていた。
「それは現実逃避かい? それとも本当に、聞き逃したと?」
若者も少年と同様か、それ以上に動揺しながら、それでも努めて冷静そうに、足を組んで言った。
「いや、前者の方だ。……少し受け入れる時間がほしい」
「ぼくはともかく、どうしてきみがそんな動揺を? あいつとはうまくやっていたんだろう?」
「まあ、そっちのことはいいのだけれど……」
歯切れが悪い。だが、若者には知る由もない。つい先日、あれだけ大袈裟な別れの挨拶を、少年少女が済ませていることなど。
「まあ、ただ。来るということは些末なことだ。いや、ぼくにとってはそうでもないけれど」
若者も歯切れが悪い。仕方がないことだ。若者にとってはその人物は、トラウマのようなものだった。
「ともあれ、あいつには、こちらの都合などお構いなしだ。やるといったらやる。だから、来たときに、どんな無理難題を吹っかけられるかは、覚悟しておいた方がいい」
そんな覚悟くらいなら、いますぐにでもやってのけてやる。
少年はそう思った。
だが。いま、この数日を乗り切る覚悟は、どうすればいい?
やり場のない感情をため息で吐き出して、少年は全身が熱くなるのを感じた。
*
「ハルカ」「カナタ」
少年少女が声を揃えて、別の名を呼んだ。
呼ばれた、同じ顔の女児も、シンクロして二人を見る。
「…………」「…………」
やはりシンクロして、少年少女は互いに見つめ合った。心なしか、二人とも顔が赤く染まっていく。
「「醤油を……」」
完全にハモった。どうしてこんなときに限って……と、二人ともが思った。その感情すら、シンクロだった。
「「あはは」」
本家がお手本のように、声を揃えて笑う。
「『兄様』とー」「『姉上』がー」
女児は一瞬顔を見合わせ、目配せする。
「カナタ」「ハルカ」「「たちみたいなのー」」
高等テクニック。ハルカはカナタの、カナタはハルカの名を呼び、声を揃えた。お互いの両手を合わせる動作つき。やはり本物の一卵性双生児は伊達じゃない。
「……ほら」
脇から幼年が手を差し伸べる。その手には醤油が握られていた。
「醤油だろ?」
少年少女のちょうど中間に差し出される小瓶。だが、少年も少女も、それに手を伸ばさない。
「……どうかした?」
幼年が言う。尋ねる。
すると少年少女はまた顔を見合わせ、タイミングを見計らうようにして、おずおずと手を伸ばした。
掴んだのは、少女だった。
「えっと……かけてあげるわ。醤油」
「うん。……ありがとう」
今度は、互いの顔をあえて見ないように話す二人。そんな二人を『変』だと思って首を傾げる子ども三人。そんな感情を、似たような別の漢字なのだと理解したメイドが一人、誰にも気付かれないように、そっと微笑んだ。
そのとき、屋敷のどこか。二か所が同時に、騒がしく鳴動する。
「「来た!」」
シンクロに一瞬、また互いに顔を赤らめてから、少年少女はそれぞれの音へと向かった。
*
「姉さん!」
三階の倉庫だ。その窓から侵入した女へ、少年は駆け寄った。
これで少しは、雰囲気もよくなる。
「おお、弟よ! 会いたかったぞ!」
やはり腰を折らんばかりに、少年はハグされた。だが、いまはその痛みすら喜ばしい。
*
「ハク!」
少女は玄関口へ駆け寄る。
それは、ひと月ぶりの邂逅だ。少年との気まずさを払拭できるかもしれないという気持ちもあった。だが、会ってみるに、それ以上の懐かしさが、喜びが、少女の体を込み上がっていく。
「おお、ノラ。……って、おわあぁ!」
その突撃は、成人男性を押し倒すほどの威力だった。
「久しぶり……会いたかったわ!」
やけに素直に、少女はそう、口にした。
海岸沿いに遠目からでも、あの高い壁が見える。それは、周辺に他の建造物がないことや、小高い崖の上に建っていることや、壁の高さが高すぎるという要因が挙げられる。
「つ~か~れ~た~」
日焼けとは違う浅黒い肌を纏った幼女だ。こちらは日焼けで色が抜けたのか、赤茶けた髪を伸ばしている。その脳天からは、幼女の感情を示すようなアホ毛が、力なくうなだれていた。
「うるせえ。疲れてんのはお互い様だ」
男はボルサリーノを深く押さえて、後方へ向けて言った。九月とはいえ、つい数日前まで八月だった。だから、十二分に暑い。それでも男は、黒いスーツをしっかり着込み、その上から茶色い、ぼろぼろのコートまで羽織っている。だが、疲れはあるようだが、気温に関しては余裕のありそうな表情をしていた。
「ハク~。おんぶしてや~」
幼女は似非関西弁のような、訛りを持ったロシア語で話す。確かに顔つきは北欧然としているが、男の方は東洋人だし、ここは日本であるにもかかわらず。
「さっきまでしてやってたろ。俺ももう限界だし、もうすぐ着く」
緩い斜面を登りつつ、男は顔を上げた。
「久しぶりだな。……二年ぶりくらいか?」
一度立ち止まり、そんなことを呟く。
自身が幼少期を過ごした、その場所を見据え、だいぶ薄まった感慨を抱いた。
「ぐおっ!」
不意に、力が抜け、男は倒れる。
「邪魔や。急に立ち止まらんといて」
冷たい言葉が、頭上から聞こえた。
どうやら、膝を曲げられたらしい。
*
朝食。
メイドが来てからというもの、その屋敷では、三食しっかりとした食事が振る舞われていた。
「本日はアジがよく釣れましたので、シンプルに焼き魚にしてみました」
メイドは食卓に料理を運びながら言う。メインはアジの塩焼き。確かにシンプルだが、これに勝る朝食のメインも、なかなかないだろう。ふっくらと炊いた白米。具だくさんの豚汁。納豆や卵、海苔などは食卓の中央にまとめて置かれ、好みの違う子どもたちが、好きに選べるようになっている。
「釣れたって……今朝釣ってきたのですか? メイちゃん」
驚いたように、鏡写しのようにそっくりな女児の片割れが言った。
「ええ、お魚は新鮮であればあるだけ、美味しいですから。カナタ様」
「ハルカが行っても全然釣れないのに! メイちゃん! 今度はハルカも連れてって、教えてほしいのだわ」
女児のもう一人が、勢いよく立ち上がって言った。その衝撃で豚汁が、零れそうなほど揺れる。
「ハルカ様はもう少ししとやかになりませんと、お魚が逃げてしまいます」
あ、だからいつも釣れないんですね。笑顔でメイドは言った。
「ひどいの~」
ぐだり。と、朝食の合間を縫うように女児は、上半身を食卓に広げた。いじけている言葉だが、その語気には楽しんでいる雰囲気も混じっている。
「『オヤジ』は、やっぱいらないって。……相変わらずだよ」
幼年が部屋に入りながら言った。眉間に皺を寄せた、子どもらしからぬ表情で。
「あらあら、相変わらずですね、ジン様は」
「メイさん……また頼むよ」
「ええ、シュウ様。お任せください」
どこか恐ろしい、しかし、表面上は満面の笑みで、メイドは言った。
「…………」
「…………」
そんな、楽しい食卓に、無言で座る少年少女。
気まずい。それが常に、ここ数日、少年少女が抱えていた感情だった。
*
数日前。
それは、少年少女にあんなことがあった矢先だった。屋敷の主である稲雷塵のもとへ、一本の電話がかかってきたのは。
「はい、どちらs」
がちゃん! と、レトロな黒電話を、一瞬で叩きつけた若者だった。ちなみにこの屋敷の住人で携帯電話を持っているものはいない。居候している少女やメイドを除けば。
だが、案の定、その数秒後には新たな呼び鈴が鳴り響く。
「……お出にならないのですか、ジン様」
嫌な顔で黒電話を見つめていたら、メイドが通りかかった。
その嫌な顔のまま、若者はメイドを見る。
「ちょうどいい。きみが出てくれ。ぼくはいま現在、この屋敷にいない」
言うと、ふらふらとした足取りで、若者は去って行った。
「はい」
メイドは主人の言いつけどおり、その電話に応答する。
「はい……はい。……かしこまりました」
特別な問題もなさそうに、メイドは受話器を置いた。その後、瞬間の思案後、あえて自身のスマートフォンを取り出し、別の誰かへ電話をかける。
「おはようございます、ご主人様。あなたのメイちゃんです」
からかってみると、打てば響く反応を返された。くすり。とメイドは笑う。
「それで、お尋ねしたいことが……え、はい。……はい。……かしこまりました。……いえ、私の質問というのも、そのことでしたので。はい」
もちろん相手には伝わらないが、メイドはうやうやしく一礼した。
「それでは、お待ちしております」
言って、通話を切る。
「これは、忙しくなりそうですね」
思案顔を一つ。だがそれでも、どこかその表情は、楽しそうでもあった。
*
「すまんのう。無理を言って」
スタイル抜群な赤髪の女が、操縦席に向かって言う。その言葉とは裏腹に、その声には、感謝やねぎらいの気持ちは、どうにも込もっていなかった。
けたたましい騒音だ。プロペラの駆動音。このわずかな重量を運ぶにしても、空輸であれば、これだけのエネルギーが必要なのだ。
「パラシュートはその脇に……ホムラさん?」
操縦者は振り向く。
そこには、すでに、鮮血のような鮮やかさがなかった。そして、脇には、一つも減っていない、パラシュート入りのリュック。
操縦者はすぐに、下方をうかがう。
「行こう、『嵐雲』」
飛んでいた。
それは空に詳しい操縦者の目から見て、間違いなく。風に煽られているだけであるとか、うまく滑空しているというだけではなく。あれは、風を自在に操り、鳥のように、ちゃんと飛んでいた。
「オーマイガッ……」
操縦者は驚き、呆れ、来た路を引き返す。
その詳細な座標がどこだったのか、知りもしないままに。
*
メイドからの報告を聞き、少女は全身が熱くなるのを感じた。
「ノラ様? 大丈夫ですか? お顔が真っ赤になっておりますが」
「う、うん。大丈夫。もーまんたい」
どこかカタコトじみた言い方だった。そもそも、多くの言語を使いこなす少女にしては珍しく、最後の一言は、少女の扱えない広東語だ。そんなものを口走るほどには動揺しているらしい。
「とにかくそういう事情ですので、まだ数日、こちらにはご厄介になることとなります。ジン様に許可はいただいておりますので」
微笑んでメイドは言った。メイドとしてはまったくの裏なく、この屋敷に少しでも長くいられるなら、それは少女にとって嬉しいことであろうと踏んでの笑顔だったが、どうにも様子が変だ。
「……それでは、私はこれで失礼致します。……これから買い出しに出かけますが、なにか買っておくものなどございますか?」
「……肉食いたい」
少女は小さく言った。
「はい?」
「肉! お肉いっぱい食べたい!」
赤らめた顔に、わずかに涙まで溜めて、少女は叫んだ。
辛いこと、悲しいこと、嫌なこと。あるいは、恥ずかしいことがあったら、お腹いっぱいお肉を食べるに限る。それが少女の解消法だ。
*
「すまない、ジン。もう一度言ってくれ」
少年も同時刻。その報告を受けていた。
「それは現実逃避かい? それとも本当に、聞き逃したと?」
若者も少年と同様か、それ以上に動揺しながら、それでも努めて冷静そうに、足を組んで言った。
「いや、前者の方だ。……少し受け入れる時間がほしい」
「ぼくはともかく、どうしてきみがそんな動揺を? あいつとはうまくやっていたんだろう?」
「まあ、そっちのことはいいのだけれど……」
歯切れが悪い。だが、若者には知る由もない。つい先日、あれだけ大袈裟な別れの挨拶を、少年少女が済ませていることなど。
「まあ、ただ。来るということは些末なことだ。いや、ぼくにとってはそうでもないけれど」
若者も歯切れが悪い。仕方がないことだ。若者にとってはその人物は、トラウマのようなものだった。
「ともあれ、あいつには、こちらの都合などお構いなしだ。やるといったらやる。だから、来たときに、どんな無理難題を吹っかけられるかは、覚悟しておいた方がいい」
そんな覚悟くらいなら、いますぐにでもやってのけてやる。
少年はそう思った。
だが。いま、この数日を乗り切る覚悟は、どうすればいい?
やり場のない感情をため息で吐き出して、少年は全身が熱くなるのを感じた。
*
「ハルカ」「カナタ」
少年少女が声を揃えて、別の名を呼んだ。
呼ばれた、同じ顔の女児も、シンクロして二人を見る。
「…………」「…………」
やはりシンクロして、少年少女は互いに見つめ合った。心なしか、二人とも顔が赤く染まっていく。
「「醤油を……」」
完全にハモった。どうしてこんなときに限って……と、二人ともが思った。その感情すら、シンクロだった。
「「あはは」」
本家がお手本のように、声を揃えて笑う。
「『兄様』とー」「『姉上』がー」
女児は一瞬顔を見合わせ、目配せする。
「カナタ」「ハルカ」「「たちみたいなのー」」
高等テクニック。ハルカはカナタの、カナタはハルカの名を呼び、声を揃えた。お互いの両手を合わせる動作つき。やはり本物の一卵性双生児は伊達じゃない。
「……ほら」
脇から幼年が手を差し伸べる。その手には醤油が握られていた。
「醤油だろ?」
少年少女のちょうど中間に差し出される小瓶。だが、少年も少女も、それに手を伸ばさない。
「……どうかした?」
幼年が言う。尋ねる。
すると少年少女はまた顔を見合わせ、タイミングを見計らうようにして、おずおずと手を伸ばした。
掴んだのは、少女だった。
「えっと……かけてあげるわ。醤油」
「うん。……ありがとう」
今度は、互いの顔をあえて見ないように話す二人。そんな二人を『変』だと思って首を傾げる子ども三人。そんな感情を、似たような別の漢字なのだと理解したメイドが一人、誰にも気付かれないように、そっと微笑んだ。
そのとき、屋敷のどこか。二か所が同時に、騒がしく鳴動する。
「「来た!」」
シンクロに一瞬、また互いに顔を赤らめてから、少年少女はそれぞれの音へと向かった。
*
「姉さん!」
三階の倉庫だ。その窓から侵入した女へ、少年は駆け寄った。
これで少しは、雰囲気もよくなる。
「おお、弟よ! 会いたかったぞ!」
やはり腰を折らんばかりに、少年はハグされた。だが、いまはその痛みすら喜ばしい。
*
「ハク!」
少女は玄関口へ駆け寄る。
それは、ひと月ぶりの邂逅だ。少年との気まずさを払拭できるかもしれないという気持ちもあった。だが、会ってみるに、それ以上の懐かしさが、喜びが、少女の体を込み上がっていく。
「おお、ノラ。……って、おわあぁ!」
その突撃は、成人男性を押し倒すほどの威力だった。
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