箱庭物語

晴羽照尊

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エジプト編

40th Memory Vol.1(エジプト/アスワン/9/2020)

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 2020年、九月。エジプト、アスワン。
 年間降水量は世界有数の少なさ。人の住む町としては世界で最も乾燥した地域の一つである。とことん乾燥した亜熱帯気候。その気温は、年平均で30度をゆうに越え、50度近くまで上がることもある。

 アスワンといえば、アスワン・ハイ・ダムの名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか? ナイル川のほとりに建てられた高さ111メートル、全長3600メートルの巨大なダム。このダムの完成によって、毎年のように起きていたナイル川の氾濫は防止され、不足がちの農業用水が安定。周囲の砂漠の緑化も進んだ。だが一方、ナイル川の生態系のバランスも崩れたなどの批判もあり、また、数々の村や遺跡が水没した。

 今回の目的であるアブ・シンベル遺跡も、当初はダム湖によって水没する予定だった。しかし、批判の声が強く、ユネスコからの援助もあり、湖畔に移築された。ゆえに現代では、その座標は、本来建っていた位置より、ややずれている。

「「「「…………」」」」

 うなだれていた。パーティー一同、誇張でもなく、うなだれていた。この日のアスワンの最高気温は、45度越え。湿度は15パーセント未満。まさしく干からびるほどの暑さだ。この災害に近い乾燥と熱気には、無力な人間などみな、首を垂れるしかない。

「……ねえ、背中見て、パラちゃん。燃えてない?」

 少女は振り向きもせずに、後ろの幼女に問う。
 白い肌に美しい銀髪。その無垢な色彩はどこか神々しくもある。だが、今回の旅程では、フードつきの薄いロングコートを羽織り、その姿を隠していた。目深にかぶったフードから覗く緑眼。それと同じ色のペンダントが胸元で、確かな存在感を放つ。そして、両手には白いオペラグローブ。そんな少女だった。

「知らんわ。それよりウチの頭溶けとらん? クラクラすんねんけど」

 事実クラクラしている。というよりはフラフラか。おぼつかない足取りで幼女は最後尾を着いて行く。
 幼女は少女より、年齢も背格好も、一回り低いようだった。日焼けではない浅黒い肌。それを見せびらかすように、ラフなタンクトップとホットパンツで、こちらは見た目涼しそうだ。出会った当初、まったく手入れされていなかった赤茶色の髪は、いまではきれいに整えられ、ショートボブっぽくなっている。とはいっても、どうしてだかアホ毛は残っているのだが。

「だから帽子をかぶれっつってんだ。まったく……」

 言って、前から二番目を歩いていた男がペースを落とす。少女を先に行かせ、幼女と並んだ。

「ほれ、とりあえずかぶってろ」

「いやや、蒸すし、暑いもん」

「こんだけ乾燥してりゃ蒸さねえよ。それに、肌はできるだけ隠した方が、結局は涼しいんだ」

 言って、男は自身のかぶっていたボルサリーノを幼女にかぶせた。かくいう男は、さすがに暑苦しい格好をしていた。黒のスーツをしっかり着込み、上から茶色いぼろぼろのコートまで。だがそれでも、特別暑苦しそうな表情はしていない。

 幼女はしぶしぶ、男の帽子をかぶった。しぶしぶ、といった態度だが、表情はやや崩れた。最後尾だし、帽子の陰に隠れたので、その事実には誰も気付かなかったが。

「さて、そろそろ宿に着くな。さすがに疲れたから、少し休むか」

 男は言って、ペースを上げる。少女を追い越し、先頭を歩いていた幼年をも追い越す。
 そして、角を曲がりかけた。

「ハクさん」

 少女と幼女の中間くらいの背丈の幼年だった。幼女と違って日焼けによる黒い肌。茶色い髪と瞳。そして、やはり特筆すべきは、常になにかに悩んでいるかのように寄せた眉根だ。
 そんな幼年が申し訳なさそうに言う。

「そっちじゃない。こっちの道」

        *

 宿からは世界三大河川の一つ、エジプトの象徴の一つとも言える、ナイル川が一望できた。

「いい部屋ですね。ハクさん」

 幼年が言う。さして感動などしていないふうに。

「ああ、確かにな。……まあ、なんだ、適当に休め」

 男は言った。珍しく気を遣っている。子どもとはいえ、ほぼ初対面の幼年と二人きりというのが気まずいのだろう。今回のこのパーティーの部屋割りは、男女別なのだ。

 男は率先して椅子に腰かけ、態度悪く机に脚を上げた。どうにも男はその姿勢が一番過ごしやすいようである。宿に着いてからは幼女から取り上げた、自身のボルサリーノを目深にかぶる。自分自身の匂いに落ち着く。

「本日の予定は? ハクさん」

「なんっつーか」

 男はつとめて機嫌悪い言い方にならないように気を付け、言った。

「そうだよな。普通こうだよな。俺はおじさんじゃねえけど、年上なんだぜ」

「はあ……」

 独り言のような言葉に、幼年は曖昧に相槌を打つ。言っている内容が不明瞭だ。

「シュウ。おまえはほんとできたガキだ。いろいろ助かるよ。いや、ほんと」

「よく解らないですけど、お役にたてているなら、なによりです」

 変わらずの不明瞭な言葉になんとなくで納得する。正直、針のむしろだ。幼年はそう思う。もともと人づきあいがうまい方ではない。なのに、少女以外はほぼ初対面のパーティーに組み込まれた。話の腰を折りたくないから言わなかったが、幼年は、こんなことなら一人であっても、あの屋敷に残りたかったと、最初から思っていた。そしてその気持ちは、まだ変わらない。

「あの、それで。本日これからの予定は?」

 幼年は改めて聞き直す。こうなってしまっては仕方がない。せめて、やることがあるならそれに没頭して時間を潰したいし、そうでないなら読書でもしていたい。

「ああ、べつに自由にしてていいぞ。俺はちょっと用事で出るが、おまえらは好きにくつろいでろ。明後日、アブ・シンベルへ向かう」

 実のところ、アスワンからアブ・シンベルまでは200キロほど離れている。それでもギリギリまでアブ・シンベルへ向かわないのは、その周辺になにもないからだ。あるいは、男がアスワンにて少しばかり用事があったからともいえるが。

「出かけてもいいが、気を付けろよ。特別危険な国でもねえが、外国ってのはいろいろ不便があるからな」

 男はボルサリーノを少し上げ、幼年を見て、言った。

「いえ、俺は宿でゆっくりしてますよ」

 本心だ。特別海外旅行に心躍らせてもいない。幼年はベッドに寝転がり、自身の荷物から一冊、本を取り出す。

「ならいい」

 男は端的に言って、一瞬間を空ける。そして、意を決したように立ち上がり、面倒臭そうに歩き出した。

「じゃあ、俺はちょっと出てくる。……休めるときに休んどけよ」

 その言葉を幼年が理解するのは、その、数十分後のことだ。

        *

 なにかが爆ぜるような音に、幼年は飛び起きた。飛び起きたことに後悔した。そうだ。ちゃんと戸締りをしていない。部屋の鍵も締めていないし、窓については開けっ放しだ。いくら三階の部屋だからといって、その状況で眠ってしまうなど、自己防衛意識が低すぎた。それだけ長旅や、あるいは気疲れで、思いのほか消耗していたのだろうか?

「ハク! なかなかいいホテルね! 目の前がナイル川……あれ?」

「なんだ、シロか」

 どうやらけたたましくドアを開け放ったらしい。幼年は安堵し、起こした上体をいま一度ベッドへ横たえた。

「シュウひとり? ハクは?」

「さあ。なにか用事があるとかで、出て行ったけど」

「ふうん」

 少女は言って、物珍しそうに男子部屋を探索しだした。といっても、棚を開けたりなどはしない。ただちょっと、手持無沙汰にきょろきょろとしているだけだ。

「それで、なにをしに、どこへ行ったって?」

 少女は改めて問い質す。その問いに、幼年も改めて上体を起こした。見てみるに、素知らぬ顔つきをしているが、どうにも男の行方が気になって仕方がないといった様相だ。

「いや、詳しくは知らないけど」

「そうなの」

 少女は、なにやら思案顔というか、機嫌が悪そうな声音に変わっていく。貧乏揺すりというか、つま先を上げては床に叩きつける行動を繰り返す。顎に手を当て、やはり思案顔で。
 それらがひと段落して、落ち着いてから、少女はおもむろに提案した。

「ねえ、ちょっと遊びに行きましょうか」

 内緒。の、ポーズなのか。人差し指を立てて、唇に当て、いたずらっ子のように、少女は言った。

 幼年としては疲れていたし、観光にも興味がない。ましてや、男に「宿でゆっくりしている」と言ってしまった手前、外出するのは気が引けたが、どうにも、少女の誘いを断る方が面倒な気がした。

 幸い、鍵は各人それぞれで預かっているし、観光ではないとはいえ、必要物資の購入のため、お小遣いもある程度多めに、みなに分配されている。

「まあ、いいけど」

 あくまで自発的に「行く」とは言わずに、幼年は無難な答えを返した。確かに、この少女と旅をするには、休めるときに休んでいた方がよかったらしい。

        *

 気が付いたら幼年はボートに乗っていた。もちろん少女の付き添いで。

「見て見て、シュウ。ナイル川よ」

 ボートから半身を乗り出し、少女が言う。さほど揺れはしないが、それでも危険だ。

「危ないよ、シロ。ナイル川なら部屋からも見えるだろ」

「大丈夫よ! それに、部屋から眺めるのと間近で見るのとは、全然違うわ! 見てよ、ワンガヌイ川よりだいぶ澄んでる」

 やや強引に、少女は幼年の手を引いた。暑さゆえか、その奔放さゆえなのか、幼年を掴む手のひらには、オペラグローブ越しにも冷たい湿度があった。その、自身とは違う感触に、幼年はどぎまぎする。

「ああ、綺麗だね」

 幼年は素っ気なく答えた。それを感じ取ったのか、少女はわずかにむくれる。

「シュウって、どことなくハクみたいだわ」

「もしかしなくても褒めてないよね」

 その言葉には答えず、少女はつまらなそうに席に座り直した。

「……ところで、あの子は?」

「パラちゃんなら部屋で寝てるわ。起こすのもかわいそうだから、置いてきちゃった」

「え、一人で置いてきて、大丈夫?」

「大丈夫でしょ。子どもじゃあるまいし」

「いや、十分子どもだと思うけど。俺もシロもさ」

 少女はまた返答をせず、幼年から顔を逸らした。逸らした先はナイル川。だから、顔を逸らされたのではなく、ナイル川を見たかったんだと、幼年は自分に言い聞かせることができた。

「それで、どこに行くんだっけ?」

 沈黙がつらい。だから、幼年は問いを投げ続ける。

「フィラエ島のイシス神殿よ」

 約十分ほどの短いクルーズは終わり、もうその神殿は、目の前に迫っていた。

        *

 イシス神殿。アスワン・ハイ・ダムによる弊害の一つ、アブ・シンベル神殿同様、水没するはずのところを移転された神殿だ。ナイル川の中州に浮かぶフィラエ島。とはいっても、本来はアギルギア島と呼ばれる島だ。フィラエ島とは、元来イシス神殿が建っていた島。それが、イシス神殿が移転された途端、元来のフィラエ島と同じ形にされ、名前まで変えられた。

 そんなイシス神殿は、古代エジプト末期、かの有名なクレオパトラの父王、プトレマイオス12世により建てられた、神話の女神イシスへ捧げられた神殿だ。

「クレオパトラとか、イシス女神とか、女子が好きそうな神殿ね」

(シロも女子だろ)

「だけどあの壁画は変! 落書き?」

(歴史的建造物にいちゃもんつけんな)

「……さっきからなに? 言いたいことがあるなら言いなさいよ」

「いや、べつに」

 少女は壁画に掲げていた指をゆっくり降ろした。どうやらなにも返答しなくても、それはそれで不機嫌になるらしい。

「まあいいわ、行きましょう」

 言って、少女は率先して奥へ進む。

「……ところで、どうしてここへ? 興味あったの?」

 幼年は聞く。小走りで少女に追い付き、その横に並んで。

「べつに。フロントで聞いたら、ここをおすすめされたから」

 少女は答える。

 その言葉に、幼年はうなだれる。そうか、べつにどこでもよかったのか。

「なんだかエジプトっていうか、ギリシャ風の建物ね。この柱とか」

 少女はおもむろにそばの柱を見上げて言った。

「アレクサンドロス大王の征服後だろ。神殿を建てたっていう、プトレマイオスって名前も、ギリシャ系だし」

「なるほど。詳しいのね、シュウ」

 少女は初めて幼年を見直したかのように見つめた。その視線に、やはり幼年は血圧が上がる。

「少し本で読んだだけ。アレクサンドロス大王は征服先の統治にも力を入れてて、エジプト統治後は自らファラオの座につき、エジプトの神にも参拝したとか」

「そう、その結果が、このいびつな建造物ってわけなのね。ギリシャ風の建物に、エジプトの彫刻……ヒエログリフ」

 さらに進み、少女の言葉通り、エジプト古代文字、ヒエログリフが刻まれた場所へ。少女は見つめる。その文字を。研究者のような瞳で、じっくりと。

「……もしかして、読めるの?」

「いいえ。読めるかと思ったけれど、無理みたいね。……おそらくこれだけの情報じゃ足りないのよ」

 エジプトへ渡る飛行機の中で、アラビア語をマスターした少女だ。もしかしたらと思ったが、ヒエログリフまではさすがに無理だったようである。
 それも仕方のないことだろう。ヒエログリフに関しては、19世紀になるまで解読がされていなかった言語だ。

「一度は完全に途絶えた言語だから」

 幼年は気休めのような言葉を言っておいた。

        *

 その後も、島にある他の遺跡。ハトホル神殿やトラヤヌス帝のキオスクなどを観光し、島を後にする。

 これで休める。と思っていた幼年は甘かった。戻ってからも少女はアスワンの町を散策。店先に並ぶ果物や野菜、道端で、布一枚敷き、並べられた手工芸品。物乞いの子どもたちを優しくあしらい、買い物では値下げ交渉。多くの国を訪れてきた少女のたくましさを垣間見る一時だった。

 そして、日も暮れかけたころ、最後に訪れたのは香油屋だった。かのクレオパトラも愛用したと言われる香油。当時は王族や貴族しか使えない高級品で、神に関わる儀式にも用いられた。エジプトの香油は世界一で、エジプト人は、香油を使わない女性の方が少ないほどだという。

「クラクラする」(クラクラする)

 少女と幼年は、店に入るなり同じことを言った(思った)。だが、その感情のベクトルは逆方向だったが。

「ねえ、シュウ。わたしにはどれが合うかしら?」

 店員と二言三言話をしてから、少女はあえて、幼年に聞いた。幼年は『どれでもいい』という言葉を飲み込み、クラクラする頭を揺らしながら、いくつかのテスターを嗅ぐ。

「悪い意味じゃないけど、シロもこういうの、興味あったんだね」

 テスターを試している間を持たせるため、幼年は言った。

「興味っていうか……まあ、たまにはいいかなって。せっかくのエジプトだし」

 噛みつかれることも覚悟した言葉だったが、どうにもしおらしく、少女は言った。その態度は、ニュージーランドから帰ってきてから何度か見た、少女の変貌だ。

 少女が女性になる、その一つの足踏み。

 だから、幼年は選ぶ。その姿を基準に、選ぶ。シロといえば活発で、奔放で、活動的な少女だ。そういう少女に、この香りは似合わないだろう。だが、いまの、ほんの少し大人になりかけた少女なら――

「これとか、どう?」

 幼年は一つのテスターを少女に差し出す。屈んで選んでいたその姿勢は、まるで平伏しているようで、だから、高貴なる相手に献上するような格好になっていた。

「これって、薔薇?」

「たぶん。ダマスクローズって書いてあるし」

 少女はわずかに顔をしかめた。悪印象というほどではないが、どこか怪訝な顔だ。

「なんだか、大人っぽすぎるわ」

 少女は気後れする。香りはいい。気品があって、どこか、落ち着く香り。だけどこれは、高貴すぎる。

「わたしには――」

 少女は言いかける。

「大丈夫。よく合う、と、思う」

 遮って、幼年は言った。彼にしては珍しく、力強く。……ただしどこか、きっぱりしない様子で。

 だから、少女は小さく、くすりと笑った。

「ありがとう、シュウ。これにするわ」

 購入し、外に出る。

 夕焼けだ。もう、さすがに宿へ帰るべきだろう。

(やれやれ)

 と、幼年は嘆息する。だが、少しだけ気分がよかった。

(まだ鼻の奥に、匂いが残ってるな)

 そう感じた。香油屋から、もうだいぶ離れたというのに。

「どう、シュウ?」

 不意に後ろを歩いていた少女が声をかけてきた。

 振り返ると、顕著に解る。ダマスクローズの、気品あふれる香り。夕日を背に、少し影が落ちた、少女の白い肌。

 心臓が、高鳴る。

 だから、幼年は言葉を飲み込んだ。


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