箱庭物語

晴羽照尊

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チチェン・イッツァ編

40th Memory Vol.10(メキシコ/ユカタン/9/2020)

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 2020年、九月。メキシコ、ユカタン半島。ユカタン州。
 チチェン・イッツァをはじめ、ウシュマルやマヤパンなど、多くマヤ文明の遺跡が残り、特に後古典期に栄えた。それ以外で言えば、美しい海岸線だ。ビーチや鍾乳洞が美しく、リゾート地としても人気がある。他にも自然を利用したテーマパークがあるなど、全体として大自然を満喫できる場所だ。

 ぼう……っと、空を眺める。障害物がない、澄み切った青空。いや、青空というと、どこか乱雑だ。これは、いうなればスカイブルー。どこまでも瑞々しい、爽やかな青。

 実は、ここはユカタン州ではない。そのお隣、キンタナ・ロー州、カンクン。カリブ海に面したリゾート地だ。
 灼葉しゃくようほむらのパーティーは、一度チチェン・イッツァそばの宿に荷物を置いた後、バスで二時間ほどのこのビーチに遊びに来ていたのだ。

「……姉さん」

 呼び声に、細めた目を向ける。灰色の肌。それと同色の前髪からは、滴が一つ、滴っている。

「いつまでこんなところでだらけてるつもり?」

 耳に残る、独特な声。それを従えるは、やはり独特な、どこか生気の薄い、幽霊のような顔つき。女に合わせて、しぶしぶ身に着けた水着。その肌色を露出した服装は、表情とミスマッチに引き締まり、『男の子』だと主張する。だが、海で遊んでなどいない。全身を濡らした姿は、到着時に、姉や妹から浴びせられた洗礼だ。
 真夏は過ぎたが、まだまだ暑い時期だ。ずぶ濡れたとて寒いということは絶対ないだろうが、裸の上半身にはコートを羽織っている。それは、体の輪郭を隠すアイテムだった。

「今日はお休みの日なのじゃ。……ヤフユもゆったりしてるがいい、のじゃぁぁ」

 ごろん。と、寝返りを打つ。緩い角度に設定したビーチチェアーの上。その、豊満な肢体を裏返す。美しい赤髪。それに合わせたような、鮮やかな深紅のビキニ姿。本気でだらけているのか、かけていたサングラスは地に落ち、日除け用のハットは、かろうじて顎ひもで首からぶら下がっているありさまだ。

「こんな、緊張感がなくて大丈夫かな」

「案ずるな。やるときはやる、休むときは休む。いつも気を張っていては、シュウみたいになるぞ」

 言って、顔を上げ、女は顔をしかめた。眉根を寄せ、目を細め、口角を上げる。体つきとは正反対な幼い顔つきが、ぐしゃぐしゃと歪む。

「……大丈夫か、といえば、あれも、……大丈夫かな」

 少年は女に倣い、少し顔をしかめて、指をさす。

「ああ……まあ、あんまり見ん光景じゃけどな」

 だらけた体を持ち上げて、女も少年と同じ方を見遣った。海で遊ぶ、女児と灰色の鳥の方を。

        *

「いくよ! ヤキトリ! 『ハルカの真似ぱーんち』!!」

『カアァァア!!』

 バシャバシャと水を弾き、たどたどしく拳を振るう。まるで幼児のような幼稚さで。それをあえて受ける灰色の鳥。忖度そんたくのこもった受け答えだ。

 女児は一般的な日本人風の姿だ。艶やかな黒髪。赤茶色の瞳。どちらかというと白かった肌色は、この国に来て、どちらかというと黒いくらいにまで染まっていた。フリルの多い黄色の水着は、まだまだ発展途上の女児の体を守るように包み、さらには可愛さもプラス。どちらかというと整った顔つきの綺麗めな女児を、年相応に柔らかく仕上げる。

 その相手役の鳥は、いつぞやとは違い灰色だ。サイズも、ギリギリ一般的に飼育されていそうな範囲に収まっている。翼を広げなければ、中型犬くらいだろうか? そのサイズは、十数歳の女児が相手取るにはほどよく真剣に、本気で遊べる大きさだ。

緋炎ひえん蒼炎そうえん。あの二つじゃとさすがに目立つからの。第三の、灰炎かいえんモードなら、まあ、遠目に見るなら、普通の鳥っぽく見えるじゃろ。多少ゆらめいておるが、まあ、そこは陽炎かげろうということにして」

「一般の方なら騙しおおせるだろうけど。もしも敵に見られれば、無為な敵対心を煽ることにもなりかねない」

 無邪気に遊ぶ女児を見て、女と少年は話し合う。自分たちを納得させるために。

「敵? なんじゃそれは? 妾たちがここに来ることなど、誰にも知られておるまい? 知ったところで、わざわざ邪魔しに来るやつらがどれほどおるかも疑問じゃ」

「いやまあ、わたしも本気で心配しているわけではない。けれど、警戒するに越したことはないかと」

「むうぅ~ん」

 面倒臭そうに女は唸る。またビーチチェアーに深く寝転んだ。

「めんどい。ヤフユに任せるのじゃ」

「いや、任されても困る。姉さんがいいならいいけど、少しでも心配があるなら止めてくる」

「楽しそうだし、いいじゃろ。おもちゃを取り上げるのはかわいそうじゃし。そもそも、ヤフユが遊んでやればいいじゃろうが」

「わたしは、こんなだし」

 左手で、右肩を掴む。失われた右腕を見つめる。

「それに、『異本』をおもちゃ扱いは無理がある」

「あんなもん、ぜんぶおもちゃじゃ。ただ扱い次第で、人も死ぬし、世界も変わる。その程度じゃろ」

「その程度が問題だろう。わたしも大人ぶる気はないが、子どもが持つには危険すぎる」

 楽しそうに遊ぶ女児を見て、まるで親のような顔で、少年が言う。
 だがそんな心配を一笑するように、女は鼻を鳴らした。

「どうせもう、出会ったものをなかったものとはできんのじゃ。なら、いまから慣れておくほうがよい。……手痛く怪我をしようとも、命を危険にさらしてでも」

 それから女は大きなあくびをして、目を閉じた。きっともう、話は終わりなのだろう。

 海岸線を背負って、女児が手を振っている。灰色の鳥も、手を振るように翼を広げた。
 少年はため息を吐いて、手を振り返した。周囲を見渡し、もう一度、息を吐く。コートを脱いで、妹のもとへ向かった。

        *

「すっごく楽しかったのです! ねー、ヤキトリ」

『クワアゥオォ!』

 夕暮れ時、朱を背負って歩く。清々しい疲労を、それでも笑って、女児は言った。

「それはよかったのじゃ! それにしても、ヤフユが泳げんとは知らんかったが」

 女性二人のやや後ろをとぼとぼ歩く少年に向かって、小笑いぎみに女は言った。

「この隻腕では、泳げるものも泳げない。仕方がないだろう」

 少年は残った左手を上げて、抗議する。

「いえ、『兄上』は昔から泳げないのです。というか、あんまり外に出ないのです」

 少しむくれて、女児は追撃を放った。

「言われておるぞ、。……弁明は?」

 女は、やはり小笑いをたずさえて、後ろをうかがう。いつも頼れる長男であるはずの少年が、いやに小さく見えた。

「……ありません。わたしがすべて悪かった」

 首を垂れ、さらにペースが落ちる。

「でも――」

 そんな少年を元気付けるためなのか、絶えない笑顔で元気よく、女児は声を張った。

「今日は『兄上』と、あと、『おねえちゃん』も一緒に遊んでくれて、本当に楽しかったのです! ねー、ヤキトリ」

『クオウゥ!』

 燃え盛るヤキトリの首元を撫で、女児は言った。その無垢な言葉には、誰しもが心穏やかにならざるを得ない。

「くううぅぅ~~! 新しい妹もヤバい可愛いのじゃ! ヤバカワ! おねえちゃんこのままじゃ、幸せすぎて死ぬのじゃ!」

 女は言いながら、加減なく女児に抱き着いた。それはもはや、ハグというより裸締めだ。

「はう……ぶくぶく……」

 だから、当然と女児は泡を吹く。

「姉さん。言った通り、そのままじゃ本気で死ぬ。……姉さんが」

 姉の肩に手を置き、少年は呆れたように言った。

『グワオオオォォ!!』

 灰色に燃え盛る聖鳥が、高速でくちばしを突き立てる。主人を締め落とそうとする、女の頭頂に。

        *

 宿に戻り、そのホテルのレストランで夕食をいただく。

 メキシコといえばやはりタコスだ。一般的にはトルティーヤに、肉や野菜を盛り、食べる。だが、その具は、地域によっても多種多様だ。エビや白身魚のフライなどの海鮮、チーズやキノコ、果ては昆虫食まで、あらゆる食材が用いられる。そしてその具の上からライムを絞ったり、サルサソースをかけて食べるのが一般的だろう。
 ワカモーレというアボカドのペースト。スープには、カルド・デ・レスという牛肉のスープ。女はテキーラをボトルで頼み、子どもたちはアトーレという、トウモロコシを主原料とする発酵性飲料を注文した。

「これ、トウモロコシから作ったのですか? 普通に甘いのです」

 女児が目を見開いて、アトーレへの感想を述べた。

「メキシコでは昔からトウモロコシが主食になっているから。いろんな応用をされているみたいだね」

 少年が言った。カルド・デ・レスに浮いたトウモロコシを軽く持ち上げる。それからそっと手掴み、かぶりついた。

 女はそんな子どもたちを横目に、ショットグラスのテキーラをあおる。

「メキシコの神話においても、一説には、幾度かの人類創生において失敗した神は、最終的にトウモロコシから作って成功した、とかいうものもあるくらいじゃしの。マヤ文明やアステカ文明にも、トウモロコシの神がおるぞ」

 女は語ると、タコスを一息に口に放り込んだ。小さな顔に合わせ、口も小さく見えるのに、どうにも大口だ。

「そう聞くと、いかにトウモロコシが重要だったかが窺い知れる。……そういえばトルティーヤもトウモロコシから作るんだったかな」

 少年は言いながら、トルティーヤをカットし揚げた、チップスにワカモーレを乗せ、食べる。その言葉に、女はテキーラを飲み、目配せで軽く肯定を示す。

「まあ、美味しければなんでもいいのです。はむっ」

 女児がタコスにかぶりついて、そう締めた。

 確かに、その女児の無邪気な笑顔を前にしては、そんなうんちくなどどうでもよくなった女と少年だった。

        *

 食事を終え、部屋に戻る。そして、この宿に到着してからずっと気になっていた疑問を、少年はとうとう言葉にした。

「あの、姉さん。わたしはここに来たときに言ったはずだけど」

「うん?」

 入り口の前で立ち尽くし、シャワーを浴びるため、すでに服を脱ぎかけている女へ言った。

「すまないが、もう一部屋取ってほしいって。姉さん、『うん』って言ってたよね」

「そうじゃったかの?」

 本気で首を傾げている。傾げながら、まだまだ服を脱ぎ続けている。

 少年としても、すでに女は本当の『姉さん』だ。その裸体に興味を持つ感情など失せている。というより、もともと少年にそういう感情は薄い。だが問題は、この姉と同じ部屋で生活するのは、精神的にも肉体的にも疲れる、ということだ。

「ベッドもひとつじゃないか、狭いと思うけれど、三人だし」

「大丈夫じゃ、キングサイズじゃぞ。狭くはあるまい。むしろ、狭い方が……ぐへへ」

 女はよだれを垂らして言った。

「やめて。女同士ならともかく、わたしは一応男だから。これ、全年齢対象作品だから」

 感情とは違うと解っていても、少年は一応つっこんだ。メタっぽく。

「ともかく、いろいろ問題あるから。いまからでももう一部屋、頼めないかな」

「年頃じゃのう……仕方ない。ちょっと待っておれ」

 女はそう言って、少年の横をすり抜けようとする。

「いやいや、先に服を着て、姉さん」

 すでに半裸の女の手を掴む。

「ええ、めんどいのじゃ。せっかく脱いだのに」

 ぷくう。と、頬を膨らませ、女は言った。それでも少年の言葉に従い、部屋に戻る。

「あれ、『おねえちゃん』、どこかへ行くのですか?」

 こちらも着替え途中で、日焼けした肌を晒しながら、女児が言った。

「はわっ……はわわわ! 健康的日焼け女児のなまめかしい肢体なのじゃ! カナタ、おねえちゃんにぺろぺろさせて! ちょっと! ちょっとだけじゃからうへへ……!」

 よだれと鼻血を垂らしながら、女児にすり寄る女。その後頭部を、少年は思い切り殴った。

「全年齢対象だって言ってるだろ、バカねえ。いいからとっとと部屋とってこい」

 少年は人生で一度も使ったことのない強い言葉を使って言った。妹と作品の危機だ。そうなるのも仕方がない。

「お部屋をとるって? まさか『兄上』、別の部屋に行っちゃうの?」

 不安そうな表情で、女児が言う。その目に溜めた涙は、不安からなのか、あるいは女への恐怖からなのか判別しかねたが、それでも、少年の心臓を射抜くには十二分だった。

「そうなのじゃ、カナタ! ヤフユが酷いのじゃ! ひとりで別の部屋がいいとか、ませたことを言い出したのじゃ!」

 大義名分を得たとばかりに、女児に抱き着く女。頬ずりはしているが、舌は出していない。だから少年には、大義名分ができなかった。

 だが、次の瞬間、女の頬ずりは止まる。女児の顔を見て、目を見開く。
 その瞳からは、大粒の涙が溢れた。それは、ただ兄と一緒の部屋にいたい、というだけではない、強い感情を示す。

「『兄上』。また大怪我して帰ってくるし。理由もちゃんと教えてくれないし。……そりゃ、カナタは頼りないですけど、まだ子どもですけど、……いつも『兄上』のこと、心配しているのです。……でも、『兄上』、いつも勝手にどこか遠くへ行っちゃうし。……久しぶりに一緒にいられるのに、遠くに行っちゃったら、……なんだか、もう会えないような気が、してしまうのです」

 語尾は、嗚咽につかえる。過呼吸に遮られ、その小さな肩が痙攣する。胸を割く、無理矢理に作った笑顔と、瞳から溢れる心。

 見知らぬ他人でも、その表情と言葉に、抗えるものなどいない。ましてや、家族ならなおさらだ。

「……すまない、カナタ。あなたたちの気持ちを考えていなかった」

 そっと寄り、その頭を引き寄せる。足りない腕を補うように、その胸で女児の涙を受け止めた。

「今晩は一緒にいる。ちゃんと話をするよ、カナタ。……いままで悪かった」

「『兄上』……ありがとう。……大好きなのです」

 女児は言って、兄に抱き着いた。その胸に頬を預け、涙を拭う。

「これにて一件落着なのじゃ。よかったのじゃ」

 女が言う。止まっているが、その顔は、よだれと鼻血と涙でぐしゃぐしゃだった。

「……バカ姉は別の部屋に移ってください」

 突き放す語調で、少年は無慈悲にそう言った。

「なんでなのじゃああぁぁ!」

 女はうなだれた。ガチ泣きしながら。


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