箱庭物語

晴羽照尊

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チチェン・イッツァ編

40th Memory Vol.12(メキシコ/ユカタン/9/2020)

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『箱庭』シリーズは、憂月うづき――本名理紫谷りしたに久弧きゅうこが執筆したの『異本』である。男、ハクの持つ『箱庭図書館』。女、ホムラの持つ『箱庭百貨店』。そして、若者、ジンの持つ、三冊目の『箱庭』。世界に存在する『異本』としての『箱庭』は、この三冊きりのはずだった。

 それらは、そもそも『異本』と成るためだけに生み落された作品だ。『異本』鑑定士だった憂月が、自ら書く書物が、『異本』たり得る様に調整しつつ描いた作品。
 そして、自分の意志を――遺志を繋ぐために、子どもたちに残した作品でもある。だからそれは、子どもたちの数しか存在しないはずなのだ。最終的にそのたもとを去った、二人目の子どもの分は、ずれて三人目、若者へと受け継がれた。だから、それは、憂月が死んだ、あのときに子どもだった三人分――三冊しかないはずなのだ。

 それとも、もしかして新たな一冊を、秘密裏にあの、二人目の青年に遺していた? いや、そんなことはありえない。女にはそう言い切れる根拠がある。だって、青年が幼少期に『パパ』のもとを去ってから、女は『パパ』とずっと一緒だった。どこへ行くにも、ずっと。その間、『パパ』が青年に会う機会など、それこそあの、最期の瞬間しかなかったはずなのだ。

 だとしたら、目の前にある、この四冊目は、いったい――?

        *

なれ、その『異本』を、いったいどこで――?」

 じりじりとにじり寄る。いつもの軍帽――数々のアクセサリーが、ジャラジャラと威圧感を振りまく、そんな軍帽で、影を落とした目つきで、ぎろりと童女を睨みながら。

「な、なんのことでしょう……?」

 ヒー、ヒー、と、鳴らない口笛を吹き、視線を逸らして、童女は答える。近付かれる分だけ、じわじわと後退しながら。

「とぼけると、汝のためにならんぞ、ガキ。とっとと吐け。さもなければ、その体に聞くことになる」

「ひいぃっ……!」

 おびえた様子で、身を引く童女。それでも、その本は大切に、両手で抱えている。目に涙を湛えようと、恐怖で足腰が震えようと、力強く。

「そんな小動物みたいに怯えても無駄じゃぞ。わらわは、目的のためなら、手段を選ばん!」

 女は言って、拳を振るう。

「『嵐雲らんうん』。一分」

 その脇から、冷静な声が、静かに燃え上がる。
 風が吹き荒れて、女の拳を止めた。

「……姉さん。そんなに感情的になっては、この子も、話したくとも話せない。……落ち着け」

 その独特で、どうにも心に染み入ってくる声と、風圧で、女は止まった。それでも感情を抑えきれないように、大きく息を吐き、乱暴に座り込む。

 風が、止んだ。

「ヤフユ。すまぬが、任せる。……だが、もし逃げるようなら、妾は地の果てまでも追うぞ」

「ああ、それでいい」

 にっこりと笑って、少年は言った。腰を降ろし、童女と目を、合わせる。

        *

「わたしはヤフユだ。あなたは、なんという名前ですか?」

 優しい笑顔と声音で、少年は童女に語りかける。

「……ルシア。……ルシア・カン・バラム」

 おずおずと、それでもしっかりと、力強く、童女は答えた。

「そうか。ルシア。いい名前だ。……それで、ルシア。その本は、どこで手に入れた?」

「あ、あげないよ……?」

「ああ、大丈夫。それはあなたのものだ。ただ、わたしたちは、それとよく似た本を持っていてね。だから驚いて、つい怖い顔をしてしまった。許してください」

 再度、柔らかく笑み、少年は言った。

 だから少しは安心したのか、童女は肩の力をわずかに抜く。その抱えた本の表紙を眺めて、なにかを思い出すように、語った。

「これは、『おじいちゃん』にもらったの」

「『おじいちゃん』……? あなたのおじいさんは、近くに住んでいるのですか? もしよければ、その本をどこで見つけたのか、お話を聞きたいのですが」

 優しい声に、しかし童女は、強張った顔つきで首を振る。長い髪に、その毛先に巻き付いた髪飾りが、顔を叩くほどに激しく。

「……『おじいちゃん』、どこかに行っちゃったの」

 消え入りそうなか細さで、童女は言った。涙は見せない。それでも、すでに泣きわめいているような、歪んだ顔つきで。

「そうか……」

 少年の声もか細くすぼむ。俯く童女の頭に手を置いた。

 そして、優しく、それでいて力強く、その胸に抱き締める。

「ひゃいっ!」

 驚く声は一瞬。それでも、その温もりに、童女は身を委ねた。

「あっ!」「ああぁっ!」

 むしろうるさかったのは、それを見ていた姉と妹である。

「ヤフユ! ずるいのじゃ! お姉ちゃんには昨日から冷たく接してきたくせに!」

「だめなのです! 『兄上』はカナタのなのです! はなれるのです~!」

 あわあわと、少年と童女の周りを忙しなく騒がす姉と妹。そんなものを無視して、少年は、童女の耳元に囁いた。

「辛いことを思い出させたね。大丈夫だよ、ルシア。これから、辛いことがあったら、わたしがいつでも、力になるから」

 少年は言って、何度も童女の、頭を撫でた。その指先は、言葉よりも十全に、少年の心を伝える。だから、童女も安心して、力を抜いた。

 嗚咽を漏らし、感情を溢れさせる。小さな小さな、湿度として。

「「ああ! ああぁぁ~~!!」」

 姉と妹も、所構わず感情を溢れさせた。とてもうるさい。

        *

 一度、チチェン・イッツァから出て、一行は近くにあるカフェで休息した。

「なんか薄々気付いておったが、ヤフユは悪い男になりそうじゃな。お姉ちゃん心配じゃ」

 ジト目で、アイスコーヒーを飲みながら、不満げに女は言う。刺さったストローを噛んだりなんだり、もてあそびながら。

「ほんと、『兄上』は悪い『兄上』なのです。カナタという妹がありながら」

 女と同じ目つきで、女と同じようにストローをもてあそびつつ、女児も言う。ちなみにこちらはレモネードを飲んでいた。

「人聞きが悪い。あんな淋しそうな顔をされたら、誰だって慰めたくもなる」

 冷や汗をかきながら、少年は言う。少年はペットボトル入りのミネラルウォーターだ。姉や妹に引け目があるのもあるが、そもそも基本的に、少年は質素なものほど好む傾向がある。

「ノラも酷い男に引っかかったものじゃ」

「『姉上』も、今後、たいへんなのです」

「ちょっと待て。なぜそこでノラの名前が出てくる?」

 少年はやや語気を強めて抗議した。だからこそ、その反応を見て、姉と妹はさらに目を細めた。ぶくぶく。と、それぞれの飲み物に息を送る。

「あ、あのう……」

 そんな空気を割り、控えめな声が挙がった。

 見ると、オルチャータを飲んでいた童女が、少々赤くなった瞼と頬で、意を決したように、三人を見つめていた。ちなみに、オルチャータとは、米やフルーツの種などを水に浸けてから挽き、バニラやシナモンなどで香り付けした、ミルクセーキ風の飲み物である。

「さ、さっきは、怖がってごめんなさい。あの、あーしを助けようとしてくれたって、いまなら解ります」

 言葉はおどおどしているが、その表情は常に力強い。だけど年相応にあどけなく、見る者の庇護欲をくすぐる。

「お、お話しします。あーしの知っている限りの、この、本のこと」

 心を許しても、いまだぎゅっと抱いたままの、『箱庭動物園』に目を落とし、やはりどこか遠い目で、童女は言った。

        *

 童女の話をまとめるとこういうことらしい。

 童女はユカタン半島、タバスコ州、テノシケデピノスアレスのブドウ農家に生まれた。そこは、隣国グアテマラとの国境付近。しかも国境を越えればすぐに広大なジャングルである。そんな、大自然のただ中で育った。

 決して裕福ではないが、衣食住においては、なに不自由なく育ち、一人っ子ゆえにか、両親の愛情も一身に浴び、また、大自然の中、毎日果て無き世界を駆け回り、たくましく育つことができたという。

 だが、そんな幸福な時間も、ある日、突然、破られた。

 まず、聞こえたのは、甲高い鳥の鳴き声。そして、それらが幾百、幾千羽も同時に羽ばたく音。次いで、動物の、それも、尋常ならざる鳴き声。……いや、そこには、人間という動物も含まれていた。

 偶然、その日、その夜。童女は美しい星空を眺めていた。だから、そのが降り注ぐさまを、鳥の鳴き声がする前から見ていたという。
 だが、童女は危機感を得ることができなかった。まだ三年前の当時、八歳の童女には、その現実を正しく認識することが困難だったからだ。

 ほうけて空を見上げる童女を、両親は、これまで見せたことのない表情で、怒号で、力で連れ出し、どこへ逃げればいいかも解らないまま、走ったという。

 広大な大自然。悪く言えば、途方もない田舎の町だ。住人は少ない。それでも、近くに住む者たちは集まり、同じ方向へ逃げた。誰が率先したか解らないが、藁をも掴むほどの緊急事態だ。先を走る者に、誰かが追従し、その集団に新たな仲間が加わる。どの国でも、都会でも田舎でも、人の心理は変わらない。集団の行動は、それだけで正当性が高まる。緊急時の、判断力が落ちているときにはなおさらだ。

 だから、狙われる。一人一人の人間はちっぽけだが、集まればそれは、遠目でも狙いが定まりやすい。

 光の、壁のようだった。瞬間で包まれ、視界を覆う、光。遅れて、熱。悲鳴。そして、匂い、あぶらを纏った、肉の、燃える、匂いだ。

 その光景を、童女は見た。見ることができた。まだ、生きていた。
 体をしたたかに打ち付けた。ブドウ畑の、柔らかい土壌に。踏みつけて、滲む、どす黒い赤。泥水に盛大に転んだような、あの痛み、汚れ、滲み、不快感。そして、瞬間感じる、死。

 それが夢のようなリアルさで、徐々に体に染み入ってくる。深く、深くへ。だからその最奥、心の、奥底までも。

        *

 童女は泣かなかった。いや、泣けなかった。泣いている暇なんてなかった。
 気丈に立ち上がり、駆ける。父親に抱えられて連れ出された。ゆえに、履く暇などなかった、靴。だから、裸足で、駆けた。

『グ、ウルルウゥ……』

 その声は、なんとも威圧的に、童女の足を止めた。淡黄色に黒斑。鋭い牙と爪。何者をも射すくめる眼光。

 その姿を見て、童女が最初に感じたのは、恐怖や驚愕ではなく、慈愛だった。
 負傷した前足。折れた牙。爛れた毛皮。どう見ても瀕死だ。どう見ても、自分よりも手酷く傷付いた、哀れな動物だ。

「だい、じょうぶ……?」

 自然と、声が出た。もちろん、そんな言葉など、通じているはずもない。だが、その視線や声に反応したのだろう。死にかけのジャガーは残った牙を剥き、唸り声をあげ、精一杯に威嚇した。

「だいじょうぶ……!」

 童女は己が身のことも忘れ、言い聞かせるように呟いた。一歩ずつ、その猛獣に、寄る。そんな童女の気持ちが、伝わるはずもない。動けないはずの体を起こし、ジャガーは臨戦態勢に構えた。

「だいじょうぶだからっ!」

『グガアアァァッ!』

 両手を広げた、敵意無き姿にも、ジャガーは動物的に反応する。飛びかかる、ほどの勢いで。しかし、そんな余力はなかったのだろう。さほど速くもなく駆けて、童女の腕に、噛み付こうと――

「いや、大丈夫じゃないじゃろ」

 頼りない声だ。だが、どこか安心する、老人の声。

「……あれ?」

 驚きはしたが、せいぜい瞬きくらいしかしていない。それなのに、あの瀕死のジャガーは、もうどこにもいなかった。

「ふむ。ぶっつけ本番じゃったが、うまくいくもんじゃ」

 老人は言って、持っていた深緑色の本を撫でた。

「んじゃ。儂はこれで」

 何事もなかったかのように立ち去ろうとする老人。その服の裾を、童女は反射的に掴んだ。

「……なんじゃ? かわいそうじゃからって、誰も彼も助けとれんぞ。かったるい」

「あーしはいいの。……でも――」

 恐怖などなにもないかのように、童女は指をさした。その先には、まだ生まれて間もない、ジャガーの子どもが一匹、怯えるように震えて牙を剥き、立っていた。

        *

 それが、童女の言う『おじいちゃん』との出会いだったそうだ。件のジャガー(成体)はほどなくして亡くなり、幼体のジャガーは、いま童女と一緒にいる、ということであるらしい。

 そして、自分の身よりもジャガーの子どもを慮った童女に興味が湧いたとかで、最低限の教育を施すまで育ててもらったのだという。そしてそれが済んだのか、老人は挨拶もなしに、半年ほど前、急にいなくなった。現在の童女はいくばくかの資産を借り受け、チチェン・イッツァの近く、メリダの町で暮らしているという。ちなみに資産を借り受けたのは、世話をしてもらい始めたころだ。いつか大人になったら返す、と、そう約束しているらしい。

「まだ働ける年齢でもないので、借り受けた資産を切り崩して生活してます。そして、あのとき、あーしを助けてくれたときの本――『異本』っていうんですか?――も譲ってくれたんです。テスを飼うには必要だろうって。この『異本』の、詳しいことは知らないですけど、動物なら誰でも入れるらしくて、中は、あーしも入ったことあるんですけど、広大な草原みたいになってます」

 だけど、『おじいちゃん』以前の持ち主とかは知らないし、由来とかも解りません。童女は申し訳なさそうなその言葉で、話に幕を降ろした。

「…………」

 思案顔で、女は腕を組んだ。

 女が考えていたこと、それは、もちろん『箱庭動物園』が、本当に『パパ』が書いた『異本』であるかどうか、あるいは、その『おじいちゃん』とやらが、『パパ』本人なのか、ということだった。だが、もう一つ、気になる点がある。

 いや、だが、それはいったん置いておこう。問題は、もしその『おじいちゃん』が『パパ』なら、にまだ、『パパ』が生きていたことになる。女の記憶によれば、『パパ』が死んだのは。どう考えても、辻褄が合わない。

「…………っ!」

 そして、少年が考えていたことは、女が気にしていた、だった。
 不意に平穏を破壊する、。それは、少年の古い記憶。若者に拾われる前の、あの、地獄のような――

「ああああああぁぁ!!」

 その記憶を、鮮明に思い返す前に、不意に、女児が叫び声を上げた。叫び、けたたましく椅子を引き、立ち上がる。

「時間!」

 語彙の足りない言葉に、その場の誰もが首を傾げた。だが、女児が次の言葉を紡ぐ前に、徐々に意味が解ってくる。

「「ああああああぁぁ!!」」

 女児の真似をしながら、女と少年も、叫んだ。

 女児が示す腕時計の時刻は、午後六時をさしていた。


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