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『シャンバラ・ダルマ』編 本章
40th Memory Vol.47(地下世界/シャンバラ/??/????)
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執事の策謀など知りもせず、男は手を差し伸べ続ける。ゆっくり。ゆっくり。執事は手を伸ばした。槍は脇に置き。自由になった右手だけを。
掴んで、そのまま男の右手を溶かし尽くしてやろう。それだけでは死には及ばないだろうが、その後、急速に左腕をも高熱化し、氷から抜け出す。そして掴んだ男を盾にし立ち上がり、左手で槍を再度握る。
まずは、あのギャルだ。強敵とまでは思わないが、確認した限り一番、彼女との相性が悪い。だから、まずは槍の投擲でギャルを貫く。それから手元に戻ってきた槍で男の首も刎ねてやろう。
そこまでは考えた。そこからは乱戦となるだろう。あとは向かってくる敵を順々に殺せばいい。優男の油。女の高速移動。青年の持つ武器。どれをとっても決定打には及ばない。本気で殺すつもりなら、すべてを見切り、対策できる自信がある。
執事はそう思った。自分の意志で考え、決めた。
こいつらは殺す。皆殺しだ。
俺はお嬢様を殺されて、怒り、悲しみ。そして、その報復として、全員殺す。手を下した者と仲間でなくとも関係ない。この場に居る者すべてがお嬢様の死の原因に、多少なりとも関わっているのだから。
そう、執事は考えた。
そして、男の手を、掴む。
*
身震いを、した。
自分が自分でないような、冷たさ。心にじわりと染み入る、水銀のようにねっとりとした感情。
「立てるか?」
正常に、男の声が聞こえる。だから執事は、自分自身の耳が正常ではないのではないかと錯覚した。
「立て……ます」
自分の声すら正常だ。禍斗の力を解放しているときは、焼け爛れた喉から怪物のような声がひり出されていたというのに。
だから、男へ伸ばした自身の手を見る。白く、細く――いつか令嬢に褒められた、美しい手。
それは、突き付けられた現実だった。他の誰でもない、自分自身から突き付けられた、否定しようもない現実。
私は、怒りも悲しみもしていない。最愛のお嬢様の死に対して、本当になんとも、感じていない。
だからこそ簡単にほだされた。男の言葉に。あの、垣間見えたお嬢様の幻覚に。自身の思考に関わりなく、禍斗の力は解除されたのだ。
その事実に、怒りを覚えた。その事実に、悲しみを感じた。
私は、こんなにも非情な人間なのか。いつか、お嬢様を本気で愛し、守りたいと思ったあの感情すら、これではもはや、確信できない。過去の自分を、正当化できない。そしてそれは、過去のお嬢様をも、正当化できないということ。
私を一人の人間として扱い、愛してくださった、あのお嬢様の気持ちまで、踏みにじる存在。お嬢様は間違っていた。私は、体だけでなく、心まで怪物だった。
そこまで考えたところで、執事は嘔吐した。いつの間にか地面の氷は融け、体の自由も利く。それでも、その体は自分のものではないように自由には動かなかった。ただただうなだれ、胃の奥にあるものがすべて逆流する。全身に力が入らない。
掴んだ男の手も離し、執事は、地に伏した。
*
「お、おい! どうしたんだ!?」
急所を貫かれたかのようにうなだれる執事を見て、男はうろたえた。
「私は、……私は! 人間などではない! ただの……ただの怪物だ!」
吐き出すように、執事は叫ぶ。その泡の地面に向かって。
「はあ? なに言ってんだおまえ?」
温度差があった。当然といえば当然である。男には執事の内心で起きた葛藤や気付きなど、知る由もないのであるから。
だが、その冷たく、単純な問いが、執事に自分と向き合うきっかけを与えた。
「私は……お嬢様を失い……それでも、激昂することすらできなかった! 怒り、悲しむことすら! お嬢様を死に追いやった、おまえたちを憎み、恨むこともできない! なにも、……なにも感じないのだ!」
言葉にすると、もう一度、執事を吐き気が襲った。自分で自分自身を再確認する。怪物たる、己自身を。
「こんなものは人間ではない……! お嬢様を思う気持ちも、おまえたちを恨む気持ちも、感じるのではなく考えているようでは、……こんなもの……こんなもの! ただの怪物だ!」
吐露。己のすべてをぶちまけた。執事は、己が持つすべての邪心を吐き出した。
だから、もういい。死のう。そう思った。未来の話だ。この数瞬先の未来で、私は死のう。敬愛するお嬢様のもとへ、ともすればいけるかもしれない。そんな空想、信じる心はないけれど、かつてそういう物語を読み聞かせいただいた気がする――。
――それは遠い昔の、執事が令嬢に、迎えられる以前の物語――。
「よく解ってるじゃねえか。そうだ、それが怪物だ」
男が言う。だから、執事は口元を歪めて、腕に力を込めた。かたわらに置いたままの、『パラスの槍』へ、手を伸ばした。自死するために。
「だからおまえは人間だ。その胸の痛み。腹の底に閊える、いくら吐いても吐き出せねえそれが、人間の心と呼ばれるもんだ」
「なん……だと?」
執事は顔を上げる。そこに映るのは、ボルサリーノを目深に落とした、くたびれた顔のおっさんだった。
そして、歪ませても幼い顔つきの女に、人を見下した青年に、含みのある表情をしたギャルに、呆れた顔の優男、まだ怯えたままの学者、どこか達観した様子の翁。各人がそれぞれに感情を面に張り付けて、執事を取り囲んでいる。
それが感情なのだと確かに執事は理解できた。
そして――
「いいこと? あなたの命はあたくしのもの。勝手に死ぬことは許さないわ」
いつかの令嬢の言葉。その執事に向けられた、慈しみの表情。その姿。そして、腰を落とし、目を合わせ、映る――彼女の瞳に映る、幸福そうないつかの、執事の姿。
そんな幻覚が、いま一度、執事の網膜を刺激した。
「……覚えておきましょう、氷守薄。あなたの名前を」
だから、執事は観念して、そう言う。
「だからあなたも覚えておいてください。『殺したいほどの感情を抱えてかかってこい』。あなたは確かに、そう言った、ということを」
殺意に満たない、明確な敵意だけを、執事は、己が心に確信し、そして――
改めて、男の手を掴んだ。いつか殺しに行ってやる。それは、その約束の握手だった。
「ぞっとしねえな」
男は嘆息して、腕に力を込める。そうしてようやく、執事は執事らしく執事として――人間として、立ち上がった。
掴んで、そのまま男の右手を溶かし尽くしてやろう。それだけでは死には及ばないだろうが、その後、急速に左腕をも高熱化し、氷から抜け出す。そして掴んだ男を盾にし立ち上がり、左手で槍を再度握る。
まずは、あのギャルだ。強敵とまでは思わないが、確認した限り一番、彼女との相性が悪い。だから、まずは槍の投擲でギャルを貫く。それから手元に戻ってきた槍で男の首も刎ねてやろう。
そこまでは考えた。そこからは乱戦となるだろう。あとは向かってくる敵を順々に殺せばいい。優男の油。女の高速移動。青年の持つ武器。どれをとっても決定打には及ばない。本気で殺すつもりなら、すべてを見切り、対策できる自信がある。
執事はそう思った。自分の意志で考え、決めた。
こいつらは殺す。皆殺しだ。
俺はお嬢様を殺されて、怒り、悲しみ。そして、その報復として、全員殺す。手を下した者と仲間でなくとも関係ない。この場に居る者すべてがお嬢様の死の原因に、多少なりとも関わっているのだから。
そう、執事は考えた。
そして、男の手を、掴む。
*
身震いを、した。
自分が自分でないような、冷たさ。心にじわりと染み入る、水銀のようにねっとりとした感情。
「立てるか?」
正常に、男の声が聞こえる。だから執事は、自分自身の耳が正常ではないのではないかと錯覚した。
「立て……ます」
自分の声すら正常だ。禍斗の力を解放しているときは、焼け爛れた喉から怪物のような声がひり出されていたというのに。
だから、男へ伸ばした自身の手を見る。白く、細く――いつか令嬢に褒められた、美しい手。
それは、突き付けられた現実だった。他の誰でもない、自分自身から突き付けられた、否定しようもない現実。
私は、怒りも悲しみもしていない。最愛のお嬢様の死に対して、本当になんとも、感じていない。
だからこそ簡単にほだされた。男の言葉に。あの、垣間見えたお嬢様の幻覚に。自身の思考に関わりなく、禍斗の力は解除されたのだ。
その事実に、怒りを覚えた。その事実に、悲しみを感じた。
私は、こんなにも非情な人間なのか。いつか、お嬢様を本気で愛し、守りたいと思ったあの感情すら、これではもはや、確信できない。過去の自分を、正当化できない。そしてそれは、過去のお嬢様をも、正当化できないということ。
私を一人の人間として扱い、愛してくださった、あのお嬢様の気持ちまで、踏みにじる存在。お嬢様は間違っていた。私は、体だけでなく、心まで怪物だった。
そこまで考えたところで、執事は嘔吐した。いつの間にか地面の氷は融け、体の自由も利く。それでも、その体は自分のものではないように自由には動かなかった。ただただうなだれ、胃の奥にあるものがすべて逆流する。全身に力が入らない。
掴んだ男の手も離し、執事は、地に伏した。
*
「お、おい! どうしたんだ!?」
急所を貫かれたかのようにうなだれる執事を見て、男はうろたえた。
「私は、……私は! 人間などではない! ただの……ただの怪物だ!」
吐き出すように、執事は叫ぶ。その泡の地面に向かって。
「はあ? なに言ってんだおまえ?」
温度差があった。当然といえば当然である。男には執事の内心で起きた葛藤や気付きなど、知る由もないのであるから。
だが、その冷たく、単純な問いが、執事に自分と向き合うきっかけを与えた。
「私は……お嬢様を失い……それでも、激昂することすらできなかった! 怒り、悲しむことすら! お嬢様を死に追いやった、おまえたちを憎み、恨むこともできない! なにも、……なにも感じないのだ!」
言葉にすると、もう一度、執事を吐き気が襲った。自分で自分自身を再確認する。怪物たる、己自身を。
「こんなものは人間ではない……! お嬢様を思う気持ちも、おまえたちを恨む気持ちも、感じるのではなく考えているようでは、……こんなもの……こんなもの! ただの怪物だ!」
吐露。己のすべてをぶちまけた。執事は、己が持つすべての邪心を吐き出した。
だから、もういい。死のう。そう思った。未来の話だ。この数瞬先の未来で、私は死のう。敬愛するお嬢様のもとへ、ともすればいけるかもしれない。そんな空想、信じる心はないけれど、かつてそういう物語を読み聞かせいただいた気がする――。
――それは遠い昔の、執事が令嬢に、迎えられる以前の物語――。
「よく解ってるじゃねえか。そうだ、それが怪物だ」
男が言う。だから、執事は口元を歪めて、腕に力を込めた。かたわらに置いたままの、『パラスの槍』へ、手を伸ばした。自死するために。
「だからおまえは人間だ。その胸の痛み。腹の底に閊える、いくら吐いても吐き出せねえそれが、人間の心と呼ばれるもんだ」
「なん……だと?」
執事は顔を上げる。そこに映るのは、ボルサリーノを目深に落とした、くたびれた顔のおっさんだった。
そして、歪ませても幼い顔つきの女に、人を見下した青年に、含みのある表情をしたギャルに、呆れた顔の優男、まだ怯えたままの学者、どこか達観した様子の翁。各人がそれぞれに感情を面に張り付けて、執事を取り囲んでいる。
それが感情なのだと確かに執事は理解できた。
そして――
「いいこと? あなたの命はあたくしのもの。勝手に死ぬことは許さないわ」
いつかの令嬢の言葉。その執事に向けられた、慈しみの表情。その姿。そして、腰を落とし、目を合わせ、映る――彼女の瞳に映る、幸福そうないつかの、執事の姿。
そんな幻覚が、いま一度、執事の網膜を刺激した。
「……覚えておきましょう、氷守薄。あなたの名前を」
だから、執事は観念して、そう言う。
「だからあなたも覚えておいてください。『殺したいほどの感情を抱えてかかってこい』。あなたは確かに、そう言った、ということを」
殺意に満たない、明確な敵意だけを、執事は、己が心に確信し、そして――
改めて、男の手を掴んだ。いつか殺しに行ってやる。それは、その約束の握手だった。
「ぞっとしねえな」
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