箱庭物語

晴羽照尊

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エディンバラ編 序章

星のない空

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 2026年、十一月。
 イタリア、ローマ。

 冬のイタリア。特段に寒冷な気候ではないが、十二月にはトラモンターナという冷たい北風が吹く。そして、この年はなぜだかやや前倒し、十一月の中旬からそれが吹いていた。

「さっむ……しかも雨まで降って、何重苦よ!」

「文句言っても天気は変わらねえよ。あ、それとこれ、みぞれだ」

「さらに寒くなる情報はいらないわ!」

 寒さに弱い猫のように、少女は言って、黒のロングコートを抱き締めた。かなりの寒冷地帯の生まれで、少なくとも男の記憶上、少女は寒さに強かった気がするのだが、体質が変わったのだろうか? あるいは、ただのポーズなのか。

 ちなみに、強くはないがしとしとと、確実に降るみぞれは、男が傘を差し防いでいる。彼自身はみぞれにあおられながら。

「もう! あのおじいさんお金持ちなんでしょう? 車くらい出しなさいよ!」

「その車を待ってんだろ」

「そうだっけ!?」

 寒さで少女は頭が回らないらしい。あるいは、とりあえず怒っているだけなのか。足を踏み鳴らし、寒さに耐える。

 寒いのは俺の方なんだがな。と、男は呆れ、空を見上げる。夜中だ。こんな時間に到着した。しかも、天候不良で飛行機は三時間の遅れ。そりゃあ迎えもずっと待っていてはくれないだろう。一度帰り、また呼び出される。その到着を『遅い』となじる権利は、きっとない。

 星の少ない夜だ。雲が厚くかかっているようには見えないのに。その代わりに降る、みぞれ。ボルサリーノに積もるそれを、男は一度、払った。

「ときに、おまえ。身体操作で体温くらい上げれんじゃねえの?」

「……そうね」

 足踏みを止め、少女は言う。

「だけど、あんまり使わないようにしてるの、最近は」

 少女も男に倣い、空を見上げる。だが、その視界は半分が、男の差す黒い傘に阻まれていた。黒い夜空と、同じ色の。

「あ、あれかしら?」

 男がなにかを言う前に、少女は視界を降ろし、指さす。黒いリムジンのヘッドライトが、二人の目を細めた。

        *

 老執事の運転で、いつかの屋敷に到着する。夜中に見るそれは、いつか見たときと比べてやけに物静かなのに、なぜだか、男と少女にとって以前よりももっと、優しいたたずまいに感じられた。

 主人は書斎でお待ちです。老執事はそれだけを告げ、屋敷内に導いた。

「案内はないのか?」

「ハク様ならご自分で来られると、主人はそう言っておりましたが?」

「なるほど」

 男は言って、歩を進めた。正直、書斎の場所など覚えていない。だが、見栄を張る。特段の意味はないが、それでも。
 その歩みに、少女が寄り添う。後ろから、老執事の視線を感じる。

「ハク。そこ、右だからね」

 少女が小声で言った。

「解ってるよ」

 男は虚言を吐く。

 だから少女は楽しくなって、うんと遠回りに書斎へと導いた。

        *

「これはこれは、ハク様、ノラ様。よくぞおいでくだすった」

 老人はそう言った。覇気のない声で。その書斎に以前はなかったベッド。そこに横たわった姿。そこから、上体を持ち上げようとしながら。

「いいよ、じいさん。寝てろ」

「そうよ。こんな時間にお迎えをいただいただけでも申し訳ないのに」

「ほっほっほ。いつかのお嬢さんが、ずいぶん立派になられたものです。ハク様も……お変わりなく」

 男を見て、老人は少しだけ顔をしかめた。よもや数年の時を飛び越えたことなどは思いもしなかっただろうが、その姿の変わらなさに驚いたのかもしれない。

「相変わらずの汚え身なりで失礼してるぜ。……具合はどうだ?」

 ともすれば、電話でも済む話を、わざわざ面と向かってしにきたのには理由がある。それはもちろん、顔を合わせ、あるいはいくらかの資料をも提示しつつ話す方がより詳細で、理解も深まる、ということもある。しかしそれ以上に、老人の体調がここ半年ほど芳しくなかったのだ。起き上がるのもままならない。だからなおのこと、資料などを見せながらでなければ話が進まないほどに、頭も口も回らなくなっている、ということだった。

「この老いぼれの心配をいただけるとは光栄なことですが、本題はそこではないでしょう?」

 老人は言う。今度こそ無理矢理に、上体を持ち上げて。
 だから、男はボルサリーノを少しだけ深くかぶり直し、本題へ入る。

「単刀直入に聞く。じいさん、あんた、EBNAに関与しているのか?」

        *

 老人は、ゆっくりと間を溜めて、目を閉じていた。が、息を吐き、肩を落とすと、観念したように口を開く。やはり、ゆっくりと。

「……少しだけ、長い話になります。が、最初に言っておきましょう」

 また、間を溜める。

「確かに、もう、三十年ほども前になりますが、それまでは、いくらかの支援をしておりました。そして、その見返りに……幾人かの執事バトラーメイドナニーを譲り受けています」

 空気が、ひりつく。少女は少しだけ冷や汗をかき、身震いした。

「そうか。……それで?」

 少女の目から見て、男の態度は変わっていなかった。老人の関与など、男の予想とは外れていたはずなのに、それにもかかわらず。

「言い訳をしようとは思いません。この老いぼれの援助が、あの時期のEBNAにとって最大の財源だったようですから」

「べつに言い訳でも構わねえよ。真実を聞かせてくれ」

 男は言う。なにかを見透かしているふうに。
 老人は困ったように、でもどこか救われたように、笑った。そして、一度、咳をする。

「これを、見ていただけますか」

 老人はベッド脇の机から、一枚の紙を取り出し、男へ差し出した。

「……これは?」

 男が見てみるに、その要点は数字の羅列だ。表になっている。左には1から6の数字。上には生存と死亡の文字。その間に並ぶ、数字。
 生存の欄にはまちまちな数が、そして、死亡の欄は、ほとんどが0だった。
 そしてその周りに書かれた、英語の文書。

「それは、当時定期に送られてきた、EBNAからのレポート。その一部です。研究成果のね」

 その言で、男はおおまかを理解する。そして、その数字が語る、をも。

「そしてこちらが、私が個人で調べた、です」

 と、もう一枚の紙を手渡す。そこには男の予想通り、さきほどの紙の、生存と死亡の数字が、逆転したかのような表。

「いまはどうか解りませんが、少なくとも、EBNAの第一世代から第六世代の被験者は、その多くが、実験段階で死に至っています」

        *

 ちなみにその情報は、どちらも2000年のものだった。約三十年前。

「なるほど。それであんたは、援助をやめたわけだ」

 老人の良心を信じきっているかのように、男はそう、船を出した。それが老人の、助けになるかはともかく。

「ええ、まあ。……正確には、目的が果たされたから、とも言えるのですが」

 口籠るように、老人は言う。

「目的?」

 男は間髪入れずに問い質した。
 それに、老人はやはり、間を溜めるように、咳を挟む。

「……昔は、憂月うづきとよく、語り合ったものです」

 窓の外を見るように、老人はふと、そんなことを口走った。雨――いや、みぞれの音が、そこでようやく耳に届く。意識していなかった雨粒の音。雨脚が強まったのか、ただ、それまで気にならなかっただけなのか。

「我々は互いに、狂ったような読書家ビブリオマニアでした。それは、面と向かって話していても同じです。互いに別の本を持ち、別の時間を――時空を漂っていた。いま思えば、言葉は互いに発していたが、かみ合った話をしたことは、一度としてなかったような気がします」

 男は頭を掻いた。

「話の先が見えねえな」

「申し訳ありません。……そこに、いたのです。もうひとり」

「もうひとり?」

 男はやはり間をおかず、聞き返す。

「イニーツィオ・バルトロメイ。……の父親です」

        *

 老人はそこまで話し、天を見上げた。さきほどの男と少女のように。しかし、そこにはきらびやかな天井しかないと解ると、目を閉じ、暗闇に籠る。それはやはり、数刻前の男と少女のように、闇を眺めた。

「……故人です。どうか、許してやっていただきたい。幸い……という言葉はあまりにも不似合いですが、あの子は、その事実を知らない。生まれて、すぐのことでしたから」

「メイは……アルゴは生まれてすぐ、捨てられた。そういうことか?」

「いいえ」

 老人は言う。そうであったなら、どれだけよかったか。そう、声に出さなくとも伝わった。そんな、懺悔のような表情で。

「まさか、……売られたのか?」

 言葉を紡げない老人の代わりに、男が言う。それに、老人は肯定の合図を、首の動きで示した。

「あれほどまでに望まれて生まれた子はいないかもしれない。しかし、あれほどまでに愛されずに生まれた子も、またいないでしょう」

 言葉は、堰を切る。喉の調子などお構いなしに、やはり、懺悔のように。

「イニーツィオが、齢50を数えるほどの高齢のときに、ようやく宿った。相手はどこぞの、名も知らぬ情婦だったようですが、彼は、金を掴ませ出産を強要しました。彼は、もとよりEBNAの研究に、並々ならぬ興味を示していましてね。その実験台に、自らの子ども――DNAこそをと、……それだけの、ために」

 男は、俯く。その内容が胸に閊えた、それもある。だが、老人が抱える苦悩が、その話口調に乗せられ、伝搬したから。

「ハク。可愛いわたしは、外で待ってるわ」

 少女にもそれは伝わり、耐えきれずに外へ出た。男の返答も、待たないままに。

「……私がそれを知ったときには、もう、あの子は十年以上をもEBNAで過ごしていました。そして、そのころにはすでに、イニーツィオも他界した後でした。私も金を掴ませ、あの子への面会は叶いましたが、すでに、教育は完成していた。だから――」

「買い取ったんだな、あいつを」

 老人は頷く。

「援助という形で、金を出し続けました。目的があの子だと知られれば余計に吹っかけられる。だから、あくまでその、を求める体で、出資し続けたのです。……あの子は、優秀だったみたいですね。それゆえに他の子たちよりも長い教育を、あそこで受けさせられた。出荷――これは彼らの言い回しですが、つまり、外に売りに出されるまでだいぶ時間を要しました。……いや、ともすれば、私の目的を知っていて、できる限り絞り出そうと、時間をかけていたのかもしれませんが」

 男は、力を込める。受け取った二枚の紙を、握り潰す勢いで。

「それでも、安心していたのです。金など、いくらでも積む。そして時間をかければ必ず、あの子を救うことができる。その表を見て、EBNAの研究はあくまで、人道的なものだと、信じ切っていたんですね」

「事実は、違うんだな?」

 男の、怖いほどの低い声に、老人は真っ向から、向き合う。

「はい」

 その答えに、男は立ち上がった。そして、最後の問いを、老人へ投げる。

「教えろ。EBNAの施設。その、具体的な所在地を」


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