箱庭物語

晴羽照尊

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エディンバラ編 序章

もう一人の少女

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 さて、男と少女が老人の話を聞いている間に、もうひとつ、別の物語を綴ろう。というのも、少年と少女はひとつの家族を形成した。そしてその誰もが、『異本』蒐集、あるいは他の家族を守ることについて、積極的であるはずなのだ。であるのに、どうして男と少女、その二人だけがローマへ向かったのか? そのことはローマへの飛行機の中、少女が男へ語ったことではあるが、読者諸氏には現状、伝わっていないはずだからである。

 だから、これは、少年――いまとなっては紳士へと成長した、彼の物語。男たちがシャンバラから還ったとき、少女が話そうとした大切な話、そのに関連する旅程だ。

        *

「じゃあヤフユ。ジンのことは任せるわ」

 そう簡単に言い、少女は男と出て行った。紳士は、複雑な心境だった。だが、それをおくびにも出さずに、安請け合いする。

「さて、まあ、ジンの行き先くらいは目星が付く。ただ、クロもシロも、この家のこともある。どうするかな」

 紳士は言った。それは、裏表のない天然な言葉だった。ゆえにたちが悪い。彼の声は常に、女をたらし込む、独特な響きを纏っていたから。

「ウチが面倒見たる。……と言いたいけど、ちょっと最近は忙しいねん」

 その言葉は、元幼女。いまとなっては女傑とでも呼ぶべきか。六年前と比べると精神的にも肉体的にも男性的であるか、あるいは一般的なそれをゆうに超えた立居振る舞いを呈している。

 その彼女は現在、WBOの日本支部にて、財務調達を担当していた。日本支部の本拠地は東京にあるのだが、なぜだか彼女の所属する財務調達部門は大阪にある。ゆえに、彼女の言葉は日本語を覚えてもなお、極端に訛っているわけだ。

「あ、あーしも、ちょっとお仕事が」

 青の女性が口を開きかけたが、先んじて、緑の女性が控えめに手を挙げた。そして、俯き、控えめな上目遣いで、紳士の方を見る。

 緑の女性。元童女。その控えめな仕草は彼女をもはや、淑女と呼べる女性に成長させていた。女あるいは少年がチチェン・イッツァで拾ったルシア・カン・バラムである。

 彼女は現在、『本の虫シミ』に所属している。と言っても、これまで男や少女と諍いを起こしてきた者たちとは違う。ただの、一介の信者といったところである。女神さま。その組織の信仰対象。彼女が祀られるという、いくつかの『聖域』。その、清掃だ。

 はっきり言って、金は出ない。ボランティアだ。ゆえに、仕事と言って正しいかは解らない。それでも、彼女は愚直に、『異本』蒐集に協力しているのだ。

 そう。彼女たち家族は、みな、『異本』の蒐集を目的に動いている。

「仕方ないなあ」

 最後に残った青の女性に、少年の熱烈な視線が向けられた。淑女と対応してこれからは麗人とでも呼ぶが――彼女は観念して、引き受ける。

「カナタが残るよ。ちょうどお仕事も、お休みが取れてるし」

 腕を組み、横目で兄――戸籍上は現在、父親となった紳士を見つめ、言う。彼が微笑むと、仕方なさそうに上げていた麗人の相好は、少し赤らんで崩れた。

 彼女は、『世界樹』と呼ばれる、世界最大規模の書庫に務める司書だ。フランスのパリにそびえる、高層ビル。巨大な、『異本』をも多数収めた樹木を一本、まるまる飲み込んだ、異形の書庫。それは、いまでこそそれなりに世界に知られているが、五年ほど前までは一部の『異本』蒐集家にしか知られていない施設だった。

「助かるよ、カナタ。一週間以内には戻れると思うから」

 紳士は言って、微笑む。だからやはり、麗人は顔を赤らめ、俯いた。

        *

 早速と、紳士は空港へ向かう。時間が経てば若者はすぐ追い出される。だから、その前に追い付きたかった。いや、追い出されれば日本の屋敷に戻るはずであるから、それはそれで居場所は特定できる。しかし、可能な限り早く――一刻も早くこの問題には着手させたい。なぜなら、いつ世界がとも限らないから。

「に、にぃに……!」

 後ろから掴みかかるようにかけられた言葉に、紳士は振り向く。

「……おや、ルシア。どうしたんだい?」

 ずいぶん伸びた。自分と比べて。淑女にとってそう評せる背丈を、やはり屈めて、気安く頭を撫でながら紳士は、視線を合わせた。

「お、お仕事、なんだけど」

 広くなった歩幅を、焦りで埋めてきた。だから、淑女は息を切らす。それは普段の彼女の閊えがちな語りを、さらに緩慢に遅滞させた。

「い、一緒に、行こうかなあ……とか」

 髪の毛を指先でくるくるいじりながら、視線を逸らせて、淑女は言う。それは、罪悪感の、解りやすい露呈だ。しかし、気付かないふり……なのか、それは本当なのか、紳士は首を少し傾げて、

「そう? しかし、ルシアはどこへ? 途中まででも一緒ならいいんだけど」

「え、ええっと……にぃにと――じゃなくて! にぃにはどこに行くの?」

「ふむ」

 そこで紳士は背筋を伸ばし、顎に手を当て、考える。その、いつからか装着した、失われた右腕の代わりの義手で。だから、気付かれた? と、淑女は冷や汗をかいた。

「そういえば、コルカタにも、『本の虫シミ』の拠点があったね。いまだ健在な。ふむ……」

 紳士は、考える。危険度と家族を天秤にかけて、十二分に安全マージンを保証できるなら、と。

「そろそろわたしも、顔を売っておくべきか」

「……にぃに?」

「いや、なんでもない」

 紳士はかぶりを振った。

「ルシア。『本の虫シミ』の拠点にわたしを――というより一般的に、新しい信者を紹介することは、あなたの立場的に可能だろうか?」

「そりゃあ、まあ。基本的に、来るもの拒まずだから」

「それなら、今回はあなたの職場へ同行したい。どこでもいいが、いまだ幹部たちが健在な……それこそコルカタなどだとより、都合がいいのだが」

 苦笑い。淑女の都合を無視した頼みだ。それを解っていて、紳士は言葉を発した。もちろん、控えめに、強制の形をできるだけ外した言い回しは選んだつもりだったが。それでも、罪悪感は芽生える。

「う、うん! 偶然だね……。ちょうど次のお仕事は、コルカタだったから」

 その言葉で、紳士の罪悪感はすぐ、摘み取られた。問題は、淑女の方に芽生えた同じ感情が、成長してしまったこと。

 カナタ、ごめん。ノラねぇ、ごめんなさい。

 ほんのちょっとだけ、にぃにを貸してください。

        *

 そして、数日後。

 その目的地に到着し、滞りなく顔を売った紳士は、持ち前の、人の心にすり寄る声と話術で、その最奥、『聖域』に早くも、辿り着いた。

「んっじゃあ☆ あとはごゆっくりぃ。おにーさんが女神さまに会うべきときであれば、その先には必ず、彼女はいる。なぁんか、そういうことらしいから」

 きゃは☆ と、案内をしてくれた金髪巻き毛のギャルが、うるさいくらいの朗らかさで教えてくれた。紳士はまさしく、紳士的に会釈し、了解を告げる。ちなみにこの場へは淑女は同行していない。割と簡単に来ることができるのだが、あまり頻繁に訪れることは、いい顔をされないらしい。

 ギャルが、ぶんぶん手を振って去って行く。それを見送ると、紳士はその白亜の扉の前に、一人きりとなった。

 若者の向かった先。それは、おそらく『本の虫シミ』の管理する施設、『聖域』。世界中にいくつかある、それ。紳士は理由を知らなかったが、若者は定期的にその施設を訪れている、ということだけ把握していた。彼は、『本の虫シミ』とさほど深い関わりはないが、なぜだか足しげく『聖域』に通っていた。報告、だと、彼はそう言って。

「……ここじゃなかったか。まあ、今回は『本の虫シミ』に顔を売ったということで、よしとしておこう」

 さほどの諦観もなく呟く。どうせどの『聖域』へ向かったかなど特定できない。ゆえに、淑女と同じ場所へ向かう、という指運で選んだのだ。大きく期待などしていない。当たればラッキーくらいだったのだ。

 だから、『本の虫シミ』に顔を売っておくだけで有益だ。そう思うことにする。いつか彼らの持つ『異本』を手にするため、淑女には潜入させていたが、人手が必要になったときには自分も手を貸せる関係にいた方がいい。紳士はそう判断した。

 そして、万一にも女神さまとやらに面会できたなら儲けものだ。そうでなくとも、もう十二分に幹部たちには顔を売った。あとはこの儀式だけを終えて、仕方がない、若者は日本にまで出向き、屋敷で待つこととしよう。
 そう思って、軽い気持ちで紳士は、扉に手をかけた。

「…………!」

 悪寒。首元に刃を突き付けられたような――そうだ。あの、六年前。右腕を失ったときに突き付けられた刃。あのときと同じ、悪寒。

 思って、手を離す。周囲を見渡すも、誰もいない。いや、むしろ、その畏怖は、扉の先……?

 ふう。と、息を吐き、今度は覚悟して、扉に手をかける。同じ悪寒を確認して、それでも、扉を押し開けた。

        *

「や……初めまして。白雷はくらい夜冬やふゆ

 まず、重大なことを告げておこう、……全裸だ。

 透き通るようなブロンドの髪を、果て無きほどに長く流し、瞳には宝石――とりわけ、サファイアのような群青のそれを輝かせたような美しい女性が、全裸でその、黄金造りのベッドの上、横たわっていた。天蓋付きのキングサイズ。垂れる極薄のカーテンがかろうじて視覚をぼやけさせるが、それは、モザイクと言うには少々、足りていなかった。

「わたしを――」

「知っているよ。……ああ、いや。というより、

 その極薄のカーテンを少し開いて、人間らしい黄色系の細腕を一本、紳士に差し出す。おいでおいで。そう、彼女は手招きした。

「白雷夜冬。生まれは2005年の九月。場所はパキスタンの紛争地域だね。十歳のとき――正確には十歳三か月か。そのころジンくんに拾われて、以来、ジンくんの屋敷で育てられた。いまの住まいはワンガヌイか。ふふ……あの子と結婚したんだねえ。養子――あるいは弟や妹とはいえ、子だくさんで幸せな生活を送っているようだ」

 言い当てられていくごとに、紳士は意識も朦朧と、歩みを進めてしまう。催眠術のように。しかし、なぜだかそういう類のものではないと、理解できてしまう。
 そんなものじゃない。これは、優しくも強引に、意識や思考を改変されて――。

「それにしても酷い話だ。あの子は、君に触れさせてもいないのか。必要に迫られた婚姻とはいえ、好意がないわけでもないはずだけれど、身持ちが固いことだねえ。女の子は大丈夫かもしれないけれど、生殺しにされる男の気持ちも汲んでほしいものだ。ましてや、君の気持ちも、あの子は解ってやっているのだから、たちが悪い」

 ふらふらと近付いて、手招く彼女に触れられる距離で、紳士は止まった。そして、地に膝をつく。そうして降りた頬に、女神さまは、つつつ――っと、その細い人差し指を這わせる。

「ノラは――」

「ねえ。僕といるのに、他の女の名を口にするのかい?」

 ざわ……と、悪寒に身震いする。気付けば彼女は、紳士の頬に、いつの間にか五本の指を這わせていた。その一本一本が、紳士の臓腑をくすぐる。胸を開かなければ決して触れられない奥底を掻き、紳士に、身をよじる以外の選択肢を与えない。

「僕だったら、いますぐに君の欲求を、すべて満たしてあげられるよ? 心も、体もね。君のことを、他の誰よりも愛してあげる。……どうする?」

「…………。その、対価は?」

「おいおい、興が冷めることを言うなよ。愛に対価なんて、あるわけないだろう」

 そう、彼の頬から離した手を差し伸べ、女神さまは言う。その言葉が、これまで聞いたどんな言葉よりも柔らかく浸食してくるから――。

 だから紳士は、地に首を垂れた。思い切り。死ぬほどの覚悟で、思い切り。何度も、何度も、何度も、何度も。血を、巻き散らして。何度も、何度も、何度も、何度も――。

 ――気付けば、紳士は白亜の扉の前に立っていた。幻覚? 空想? ……いや、違う。立ってなどいない。背を預けて、うなだれている。なれば、あれは、現実だったのか?

 そこに溜まる血だまりを見る。額に触れ、朱に染まる手を見る。神経の通った、右の義手を。それでも、はたしてそれが――これが現実だとはとうてい、信じられなかった。

「あのままあの手を取っていたら、死んでいた」

 それは酷く冷静に、正しい言葉だった。『殺されていた』では、決してない。『死んでいた』。

 行かなければ。そう思うが体が動かない。足も震える。どうしてだ? あれだけ優しい空間にいたのに、どうしてこんなに、怖ろしいんだ?

 膝を抱えて震える。それを淑女が発見するまで、紳士はずっと、そうしていた。『女神さまの踊り場』。そう呼ばれる、その『聖域』。直後に清掃に入った淑女は後の言で、「誰もいなかった」と証言している。


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