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エディンバラ編 本章
耳元で叫ぶ甲高い声
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何度繰り出しても、異世界に迷い込んだようなエディンバラの街。夕暮れに染まる街並みは、終焉を迎える物語のように、押し黙ったまま未来へと進む。時の流れよりも緩慢な足取りで。一刻、一刻。
気付けば男は、エディンバラ旧市街のメインストリート、ロイヤルマイルを歩いていた。そこは、件のEBNA、その施設が地下に広がるという、まさしくお膝元。この街に来てから、男と少女が意図して避けてきたはずの、敵の懐の中。
そのことに思い至ってからも、男はそこを離れずにいた。無意味に、無警戒に、ぶらぶらと闊歩する。
考える。確かにそうだ。男は考えていた。メイドを説得する言葉を。連れ出す方法を。連れ出して後、その心を救い上げる言葉を。考えて、考えて、考え尽くして、そして、諦める理由を。無意識に。
ロイヤルマイルの東端に至る。エリザベス女王が夏季に滞在するという、ホリールードハウス宮殿。華美に過ぎず、趣があり荘厳で、しかし確実に年月を経て完成したたたずまい。
もちろん内部の見学も可能だが、男にそんな気力はない。だから遠くから眺めて、引き返す。……その建物。その、豪奢な建造物が、リンクする。そこに今昔、仕えたであろう者たち――すなわちメイドや、執事と。だから、コートを翻し、男は目をそむけた。
*
そこから、レンガ造りの街を西進、ロイヤルマイルに沿って歩く。世界屈指の観光名所、その、見所とも言える大通りを、俯いて。
雑多な人々の話し声。観光地というだけあって、あらゆる言語が飛び交う。だが、どれも楽しそうなものばかり。それが、男の思考を阻害した。
世界は、狂っている。いまこのときにも、抗いきれない貧困や孤独、虐待に暴力、身に覚えのない暴言と辱め、苦痛も強迫も、世界には溢れている。なのに、どうして人々は笑っていられるのだろう? そこから目を逸らせるのだろう? 自分自身のことをも含めて、男は、その事実に苛立たずにはいられなかった。
伝統的なキルト衣装。タータンチェックのスカートを履き、バグパイプを鳴らす男性。エディンバラではそこかしこに見られる光景だ。その異国情緒あふれる音色。どこか寂しげな、夕暮れに似合う旋律。それすらも腹立たしい。耳障りに、吐き気を催す。だから男は早足に、ロイヤルマイルを進んだ。
エディンバラに多くある、パブに入る。エディンバラ――スコットランドといえばスコッチウイスキー。だが、まずはビールと、イギリスらしいフィッシュ&チップス。あまり食欲のない男だったが、一口ポテトを頬張れば、わずかな食欲と、歩き詰めで渇いた喉に気付く。そしてビールを一気飲みすれば、もはや歯止めは利かなかった。
二杯目のビールを飲み干してからは、スコッチウイスキーにチェンジ。フィッシュ&チップスのメイン、白身魚のフライを食べる。揚げたてとはいえ、やたらサクサクとした触感が楽しい。男としては、何度か食べたことがある。その秘密は、揚げ衣にビールを入れること。それにより普通に揚げるよりも触感が変わってくるのだ。
ストレートのスコッチウイスキー。そのむせるほどのスモーキーな香りに、夢心地になる。アルコールはいい。どんなに辛いことがあろうと、飲んでいるときだけは忘れられる。そして、酔いが醒めたときに苛まれる。これまで以上の、深い嫌悪感に。
*
フライを食べ終え、いくつかのポテトが残るだけとなった。三杯目のスコッチウイスキーをちびちびと飲む。喉が焼けて、少し男は咳き込んだ。
「――――」
アルコールで少し遠くなった耳に、何者かの声が響く。……いや、声くらいずっと聞こえている。だが、そのとき聞こえた声が、知っている誰かのものに感じられた。男が座るカウンター席。その、隣か、もう一つ隣。あるいはさらに一つ隣。そのあたり。
だからというわけではないが、男は半分以上残った三杯目のスコッチウイスキーを、一気にあおった。長年付き添った自身の喉。その内側を見ることなど基本的にないが、感覚的に、細かな傷がついて、いつまでも粘膜がこびりついている。そんな違和感を一瞬だけ洗い流し、留飲を下げた。
刺激的でありながら、柔らかなシトラスの香り。ほのかにそれが香り、隣――か、その隣かその隣――の誰かが、軽く首を捻ったのだろうと理解した。その、空気を含んで、ふんわりと揺れる金髪。人為的に焼いた小麦色の肌。あらゆる化粧をけばけばしく塗りたくった表情。体中に穴を空けた、ピアスのわずかな金属臭。
それらを見るまでもなく、容易に理解する。そこに、誰が座っているのか。こんなところに彼女がいる理由など、まったく思い付かないのに、それでも。
「やあっほぉぅ、ハク」
俯いた男の耳元をくすぐるような、甘ったるい声。それを静かに囁いて、彼女は「いひひ」と、歯をむき出して笑った。
やっぱりそれも、男には見るまでもなく、理解できたのだった。
*
「なにやってんだ、てめえ」
言葉は悪いが、特段に不快な響きではなかった。ただ、事実を問い詰める言葉。相手の方を、向きもせずに。
「酒飲んでんだよぉ。こぉ見えて、大人だからねぇ」
甘ったるい声は、続く。もとより彼女はそういう言葉遣いだが、普段以上に甘味を上げて。アルコールに酔ったような艶っぽさを、見せびらかすように。
んで、ハクはなにやってんの? と、続く。カラン。と、ロックで飲んでいるらしい音が鳴った。
「俺は……」
言い淀む。その隙に、男は一度、四杯目のウイスキーを注文した。それが提供されるまでの短い時間を、長く咀嚼するように間を溜める。
「……酒を飲んでんだ」
男は答えた。考えている――考えていたことから、目を逸らして。言葉通りに、四杯目のウイスキーを口に運ぶ。
「じゃ。かんぱぁい」
愛想のない男へも朗らかに、彼女は、男が傾けて飲み続けているグラスへ、自身のそれをぶつけた。無遠慮な勢いで。だからわずかに、液体は揺れて、男は鼻からそれを飲む。
「ぶへっ」
当然の結果として、むせる。咳き込む。体温が上がる。……それでも、いまの男は文句を言う気力を持ち合わせていなかった。
口元――と、鼻元を拭う。
「疲れてるねぇ。おねぇさんが癒してあげよっか?」
「帰れよ、お嬢ちゃん」
「やぁだよ」
普段通りの言葉だった。しかし、男は息を飲む。自分自身の感情の問題なのか、どこか突き放すような、それでいて、包んでくれるような声音。そんなふうに聞こえたから。
どんな悪事も許してあげる。どんな格好悪さも、醜悪な考えも、まとめて受け入れてあげる。そう、言っているような気がしてしまったから。
「おまえはさ、夢とかあんのか?」
違う、そうじゃない。そう思いながら、男は問うた。本当は『本の虫』に所属している理由や、それとは別にしても、なにか目的があるのかと、そう聞きたかったのである。それが、アルコールに阻害された思考でぐちゃぐちゃに掻き混ざった結果、このような青臭い質問になってしまったのだ。
「ん……」
と、彼女は鼻の奥を掠めるような、色っぽい吐息をまず、流した。
「どぉ思う?」
カウンター席に頬を預けるように伏せ、男の方を見上げる。その姿を、男はいまだ見はしないけれど、やはり容易に、間接視野だけで明瞭と把握できた。
それは、問いでも、答えでもなかった。なぜなら、そもそもの男の言葉が、問いでもなんでもなかったのだから。
それを男自身が、理解していたから。
これは、問いじゃない。あえていうなら、自問。しかし、その実態は、確認作業なのだ。そういうふうに、理解している。だから、彼女の返答は正しい。男が聞きたいのは――知りたいのは、彼女の身の上話ではなく、男自身の、本心なのだから。
「……解らねえ」
それらを曖昧にすべて理解して、それでもやはり、男は言った。カウンターに肘をつき、頭を抱える。
だから、理解した。自分は自分を、なにも解っちゃいないのだということを。やりたいことも、成し遂げたいことも失った、中途半端な状態だということを。
氷が解ける。ぶつかる。それは甲高い声で小さく、悲鳴を上げた。
気付けば男は、エディンバラ旧市街のメインストリート、ロイヤルマイルを歩いていた。そこは、件のEBNA、その施設が地下に広がるという、まさしくお膝元。この街に来てから、男と少女が意図して避けてきたはずの、敵の懐の中。
そのことに思い至ってからも、男はそこを離れずにいた。無意味に、無警戒に、ぶらぶらと闊歩する。
考える。確かにそうだ。男は考えていた。メイドを説得する言葉を。連れ出す方法を。連れ出して後、その心を救い上げる言葉を。考えて、考えて、考え尽くして、そして、諦める理由を。無意識に。
ロイヤルマイルの東端に至る。エリザベス女王が夏季に滞在するという、ホリールードハウス宮殿。華美に過ぎず、趣があり荘厳で、しかし確実に年月を経て完成したたたずまい。
もちろん内部の見学も可能だが、男にそんな気力はない。だから遠くから眺めて、引き返す。……その建物。その、豪奢な建造物が、リンクする。そこに今昔、仕えたであろう者たち――すなわちメイドや、執事と。だから、コートを翻し、男は目をそむけた。
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そこから、レンガ造りの街を西進、ロイヤルマイルに沿って歩く。世界屈指の観光名所、その、見所とも言える大通りを、俯いて。
雑多な人々の話し声。観光地というだけあって、あらゆる言語が飛び交う。だが、どれも楽しそうなものばかり。それが、男の思考を阻害した。
世界は、狂っている。いまこのときにも、抗いきれない貧困や孤独、虐待に暴力、身に覚えのない暴言と辱め、苦痛も強迫も、世界には溢れている。なのに、どうして人々は笑っていられるのだろう? そこから目を逸らせるのだろう? 自分自身のことをも含めて、男は、その事実に苛立たずにはいられなかった。
伝統的なキルト衣装。タータンチェックのスカートを履き、バグパイプを鳴らす男性。エディンバラではそこかしこに見られる光景だ。その異国情緒あふれる音色。どこか寂しげな、夕暮れに似合う旋律。それすらも腹立たしい。耳障りに、吐き気を催す。だから男は早足に、ロイヤルマイルを進んだ。
エディンバラに多くある、パブに入る。エディンバラ――スコットランドといえばスコッチウイスキー。だが、まずはビールと、イギリスらしいフィッシュ&チップス。あまり食欲のない男だったが、一口ポテトを頬張れば、わずかな食欲と、歩き詰めで渇いた喉に気付く。そしてビールを一気飲みすれば、もはや歯止めは利かなかった。
二杯目のビールを飲み干してからは、スコッチウイスキーにチェンジ。フィッシュ&チップスのメイン、白身魚のフライを食べる。揚げたてとはいえ、やたらサクサクとした触感が楽しい。男としては、何度か食べたことがある。その秘密は、揚げ衣にビールを入れること。それにより普通に揚げるよりも触感が変わってくるのだ。
ストレートのスコッチウイスキー。そのむせるほどのスモーキーな香りに、夢心地になる。アルコールはいい。どんなに辛いことがあろうと、飲んでいるときだけは忘れられる。そして、酔いが醒めたときに苛まれる。これまで以上の、深い嫌悪感に。
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フライを食べ終え、いくつかのポテトが残るだけとなった。三杯目のスコッチウイスキーをちびちびと飲む。喉が焼けて、少し男は咳き込んだ。
「――――」
アルコールで少し遠くなった耳に、何者かの声が響く。……いや、声くらいずっと聞こえている。だが、そのとき聞こえた声が、知っている誰かのものに感じられた。男が座るカウンター席。その、隣か、もう一つ隣。あるいはさらに一つ隣。そのあたり。
だからというわけではないが、男は半分以上残った三杯目のスコッチウイスキーを、一気にあおった。長年付き添った自身の喉。その内側を見ることなど基本的にないが、感覚的に、細かな傷がついて、いつまでも粘膜がこびりついている。そんな違和感を一瞬だけ洗い流し、留飲を下げた。
刺激的でありながら、柔らかなシトラスの香り。ほのかにそれが香り、隣――か、その隣かその隣――の誰かが、軽く首を捻ったのだろうと理解した。その、空気を含んで、ふんわりと揺れる金髪。人為的に焼いた小麦色の肌。あらゆる化粧をけばけばしく塗りたくった表情。体中に穴を空けた、ピアスのわずかな金属臭。
それらを見るまでもなく、容易に理解する。そこに、誰が座っているのか。こんなところに彼女がいる理由など、まったく思い付かないのに、それでも。
「やあっほぉぅ、ハク」
俯いた男の耳元をくすぐるような、甘ったるい声。それを静かに囁いて、彼女は「いひひ」と、歯をむき出して笑った。
やっぱりそれも、男には見るまでもなく、理解できたのだった。
*
「なにやってんだ、てめえ」
言葉は悪いが、特段に不快な響きではなかった。ただ、事実を問い詰める言葉。相手の方を、向きもせずに。
「酒飲んでんだよぉ。こぉ見えて、大人だからねぇ」
甘ったるい声は、続く。もとより彼女はそういう言葉遣いだが、普段以上に甘味を上げて。アルコールに酔ったような艶っぽさを、見せびらかすように。
んで、ハクはなにやってんの? と、続く。カラン。と、ロックで飲んでいるらしい音が鳴った。
「俺は……」
言い淀む。その隙に、男は一度、四杯目のウイスキーを注文した。それが提供されるまでの短い時間を、長く咀嚼するように間を溜める。
「……酒を飲んでんだ」
男は答えた。考えている――考えていたことから、目を逸らして。言葉通りに、四杯目のウイスキーを口に運ぶ。
「じゃ。かんぱぁい」
愛想のない男へも朗らかに、彼女は、男が傾けて飲み続けているグラスへ、自身のそれをぶつけた。無遠慮な勢いで。だからわずかに、液体は揺れて、男は鼻からそれを飲む。
「ぶへっ」
当然の結果として、むせる。咳き込む。体温が上がる。……それでも、いまの男は文句を言う気力を持ち合わせていなかった。
口元――と、鼻元を拭う。
「疲れてるねぇ。おねぇさんが癒してあげよっか?」
「帰れよ、お嬢ちゃん」
「やぁだよ」
普段通りの言葉だった。しかし、男は息を飲む。自分自身の感情の問題なのか、どこか突き放すような、それでいて、包んでくれるような声音。そんなふうに聞こえたから。
どんな悪事も許してあげる。どんな格好悪さも、醜悪な考えも、まとめて受け入れてあげる。そう、言っているような気がしてしまったから。
「おまえはさ、夢とかあんのか?」
違う、そうじゃない。そう思いながら、男は問うた。本当は『本の虫』に所属している理由や、それとは別にしても、なにか目的があるのかと、そう聞きたかったのである。それが、アルコールに阻害された思考でぐちゃぐちゃに掻き混ざった結果、このような青臭い質問になってしまったのだ。
「ん……」
と、彼女は鼻の奥を掠めるような、色っぽい吐息をまず、流した。
「どぉ思う?」
カウンター席に頬を預けるように伏せ、男の方を見上げる。その姿を、男はいまだ見はしないけれど、やはり容易に、間接視野だけで明瞭と把握できた。
それは、問いでも、答えでもなかった。なぜなら、そもそもの男の言葉が、問いでもなんでもなかったのだから。
それを男自身が、理解していたから。
これは、問いじゃない。あえていうなら、自問。しかし、その実態は、確認作業なのだ。そういうふうに、理解している。だから、彼女の返答は正しい。男が聞きたいのは――知りたいのは、彼女の身の上話ではなく、男自身の、本心なのだから。
「……解らねえ」
それらを曖昧にすべて理解して、それでもやはり、男は言った。カウンターに肘をつき、頭を抱える。
だから、理解した。自分は自分を、なにも解っちゃいないのだということを。やりたいことも、成し遂げたいことも失った、中途半端な状態だということを。
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