箱庭物語

晴羽照尊

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エディンバラ編 本章

鏡の国の弾丸

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 男は重々理解していた。自分はこと戦闘において、なんの役にも立たないことを。だから、男の戦場はそこじゃない。

 まったくもって弱い人間であること。弱者であること。決して優秀ではなく、むしろ劣った、どこにでもいるありふれた、ただのおっさんであること。だからこそ伝わる言葉がある。そう、信じて。

 駆ける。まっすぐ。少女の言葉通りに。

 メイドは、もう大丈夫だ。執事の乱入は予想外だが、それも、いい方向へ進むだろう。あのブロンドメイドは強すぎる。それでも、あの二人なら、打倒しうる。絶対だ。

 愚直に、信じる。だから、自分には自分のできることを。

 淑女――ルシアのこともある。だが、それは少女に任せてある。もし偶然見つければ当然助けるが、目的はそこじゃない。

 送り出し際に、メイドが言っていた。

「あの子――あの子たちならまだ、間に合います」

 それだけの、抽象的な言葉。しかし、理解するのは簡単だった。それにまだ、やることが残っている。ここに潜入する前から決めていた目的のひとつが、まだ、手付かずに残っているのだ。

「ラグナ……」

 青い髪の少女を思い出す。ブロンドメイドの言葉も。「スマイル様がお呼びです」。男のかけた言葉に、答える幼メイドも。その表情も。どこか崩れそうな、壊れてしまいそうな、危うい無表情を。

「スマイル――!!」

 拳を握り、力を込める。歯を食いしばり。走る足は勢いを増す。
 そのまま、蹴り飛ばす。最後の部屋への、扉を。

        *

 腐臭――のごとき、悪臭。目に染みるほどの臭気だ。男はとっさに、口元を押さえた。
 薄暗い部屋だ。だが、ぼんやりとだが確かに、奥に光を感じる。

「少々、傍若無人がすぎますね」

「なっ……!」

 男は捕らえられた。深紅のタキシードを纏う、執事に。あっさりと。
 両腕を後ろで固定され、動きが取れない。そうして開けた口元を、まだ慣れぬ汚臭が襲った。

「スマイル様? 侵入者がこんなところにまで来ちゃいましたけど、どうされます?」

 やや声を張り上げて、深紅の執事が奥へ呼びかける。
 が、返事はない。

「はーい」

 それでもどこからか返答があったのだろう。気怠く声を返して、深紅の執事は男を奥へ連行した。

        *

 光に近付き、ひとつのソファに座らされる。腕の拘束こそ解かれたが、深紅の執事は男のそばに立ち、警戒を続けた。
 そして男の正面にいるは、ぶくぶくと肥え太った、半裸の男――醜男ぶおとこだ。

「てめえが、スマイルか?」

 すでに声は低く、いまにも食い掛からんばかりの猛獣のように、男は問う。

「いかにも、私がスマイル・ヴァン・エメラルド伯爵だ」

 名乗り、口角を大きく上げて笑う。その姿を見て――その隣に座る、下着姿の幼メイドを見て、男の頭にあるなにかが、鈍い音で千切れた。

「スマイルっっ――――!!」

 ここで醜男を殴れば、その場で深紅の執事に殺されるだろう。もう、男の味方は、ここにはいない。誰も男を助けてなどくれない。それを理解してもなお、男は感情のままに、拳を振るった。

「いひひひっ。あまり命を粗末にするなよ。氷守こおりもりはく

 が、殴れもせずに止められた。体の自由ごと。白い糸に絡め捕られて。つまずき、両膝をつく。体を支えようとした、左手も。

「蜘蛛の糸、か?」

 男は言う。もはや自由に動けるのは右腕くらい。この、捉われた状況で、冷静に。
 深紅の執事の力か? いや、あるいは幼メイド? 思って見るも、どちらも手を下した様子がない。

「私一人なら、なんとかできると思ったか? 私は貴族の生まれだが、科学者でもある」

 いひひひ。と、やはり醜悪に、醜男は笑う。

 甘かった。確かに、醜男一人なら、なんとかできると思いあがっていた。問題は常に幾人かはそばに控えているであろう、執事やメイドだと。

 だが、考えてみればなにもおかしな話ではない。科学者なんてのは、そういう生き物だ。危険な人体実験に、まず率先して自らが身を投じるような、そんな狂った連中なのだ。

「これでも私はおまえの功績を讃えている。氷守薄。普通の人間の身でありながら、多くの優秀な仲間を得て、いまでは大多数の『異本』を蒐集した、その、立役者」

「俺の知らねえところで、あいつらが集めただけだろ」

「それが『力』だ。氷守薄。おまえ自身が手を下していなくとも、誰もがそれぞれ、言葉こそ違えど、おまえのためにと動いた結果である。素直に誇れ。……それに、おまえ個人の才にも一目置いている。『異本』など、たかが一冊手に入れるだけでも、そう生半なことではないからな」

「てめえに褒められても嬉しくねえんだよ。とっととこの糸を解け」

「私に危害を加えないと約束できるならいつでも解こう。……最後のチャンスだ、氷守薄」

 醜男は言った。だらりと爛れたように笑っていた口元を引き締め、ほんの少し身を乗り出す。

「『白鬼夜行びゃっきやこう 九尾之書きゅうびのしょ』。これだけがいまだ、我が手にない。……いますぐおまえらを解放しよう。おまえと、ノラ。アルゴもカルナも。あとは、ルシアか。あいつの持つ、『テスカトリポカの純潔』。その一部を採取させてもらえれば、あいつもすぐにだ。全員へ十分な治療を施し、この場ですぐに、解放しよう。だから、『九尾之書』を蒐集してこい。……おまえが『異本』を欲しがっているのは知っている。『九尾之書』も蒐集対象だろう? しかし、私が欲しいのは、『九尾之書』に内在する極玉きょくぎょくの欠片だ。それを少し採取すれば、『異本』自体はおまえにくれてやる。なんならこの施設にある他の『異本』も、数は少ないが、くれてやってもいい」

「いい条件だな。……それでも、もし、断るなら?」

「この地を知り、生かして帰すだけでも相当な譲歩だ。死ぬだけでも生ぬるい。全員とっ捕まえて、薬漬けにしてやろう。あまりに成功可能性が低すぎて手を出していない実験も、いくつかあるのでな」

 話は終わりだと言わんばかりに、醜男はいひひひ、と、いつも通りに笑った。醜悪な、笑みで。隣に座る幼メイドの肩を抱いて。

「仮に、俺がそれを受けたとして、俺たちがここから出たなら、俺はお前との約束を反故にするかもしれねえぜ?」

「問題ない。私の目は――根は、この地球全域にまで伸びている。反逆の素振りがあればすぐに、捕らえる」

「これだけ施設を――多くの執事やメイドを傷付けてきたってのに、俺たちを許していいのか?」

「誰も死んではおらん。なれば、すぐに治療は行える。それに、旧式の『道具』など壊れようと、たいした問題でもない」

 言って、醜男は『新式』の彼女へ顔を近付けた。その美しいスカイブルーの髪に顔を埋め、その匂いを嗅ぐ。
 男は、歯を食いしばる。そして、最後の質問を投げかけた。

「報酬を、ひとつ、先払いでもらいたい」

「……なんだ?」

「その、おまえがいま抱いている『新式』のメイドを、俺に寄越せ」

 男は幼メイドに手を伸ばした。唯一動かせる、その右腕を。醜男の返答以前に、彼女に掴んでほしくて。
 この問いの答え次第では、男の望む展開にはならない。それでも、も、きっと最善の選択だ。

「……それはできん相談だ。氷守薄」

 男の背から、温度が引いた。

「こいつは――第九世代は、まだ完成しておらん。その状態で外へやるなど、それこそEBNAの面汚しだ。どうしても手が欲しいなら、第八世代から見繕ってやろう」

 これで、やるべきことは決まった。男は一度、深く息を吸う。吐く。心を落ち着け、心の奥へ、声をかけた。

「オーケイ。いいだろう」

 男は伸ばしていた手を少しずらし、醜男へ向けた。それに対して、幼メイドは安堵したような、あるいは、悲しそうな表情で、俯く。
 その手を、醜男は掴もうと、また少し前傾した。だから、男は、親指と人差し指を残して、三つの指を握る。

 訝しむ、醜男の顔。瞬間でなにかを悟る。深紅の執事も男を取り押さえようと動く。だがもう、とうに遅い。

「ばん……」

 男は、小さく声を上げた。

 銃声は聞こえなかった。それでも、鉛玉は確かに、醜男の眉間を貫いた。


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