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パーマストンノース編
とある空間の崩壊理論
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インド、コルカタ。
『本の虫』の拠点、その最奥、『女神さまの踊り場』。
んんう? と、その場所にいるべくして存在している女神さまは、少しこめかみを押さえて、顔を歪めた。
「どうかされたのですか?」
彼女の、その一糸まとわぬ膝に寝転がりながら、紳士は問うた。
「……いや、なんでもないよ。だけど――」
ほんの少し、早いな。と、女神さまはどこか遠い目で、そうぼやいた。
「ならよいのですが」
紳士は満面に笑って、彼女の頬へ少し、触れる。
だから、女神さまは苦悶の表情を消し、薄らとした笑みを、彼に零した。
「優しいね。白雷夜冬」
「そういう契約ですから」
その言葉に、女神さまは瞬間で、つまらなそうな表情へ変わる。
「まあいいさ。確かに僕の要求は『恋人ごっこ』だ。決して、その心そのものを差し出せと言ったわけじゃあない」
「でしたらそろそろ教えてくれませんか? ノラの、救い方を」
鼓膜を素通りして、心へするりと溶け行くような声で、紳士は言った。
「やだよ。話したら君も離れていく。僕はもっと君を愛したいし、君に、愛されたい」
自身の膝の上にいる紳士へ、ぐっと顔を近付けて、内緒話のようにか細い声で、女神さまは答えた。大切な陶器のように、彼の顔を両手で包み、抱えて。
「……わたしのような、恋も愛も知らぬ若輩が言うのもおこがましいですが、あなたほどの美人であれば、わたしなどを求めなくとも、いくらでも引く手あまたでは?」
んんう? と、彼の言葉に女神さまは、少し唸って困ったように眉を曲げた。
「僕はね、この世のすべてを愛している。だけど、君はまた、特別なんだ」
言葉を選ぶように、女神さまは中空に視線を泳がせながら、そう言った。
「どうして、わたしなんか……」
「自分を卑下しない。それは君を愛するすべての者をも、もろとも引きずり降ろす思想だ」
怒るような口調で言って、女神さまは彼の口元に自身の指をあてがった。滑らかで、美しい、その指を。
「しかし、……わたしとあなたはまだ、出会ったばかりだ。それなのに、どうして?」
彼女の叱責に思うところはあった。が、しかし、単純に不思議だった。誰かに特別だと言われることが初めてだったから。それゆえに、彼女の気持ちを、彼は徐々に、知りたくなっていったのだ。
「それはね、白雷夜冬――」
いたずらそうな表情で、女神さまはまた、彼の顔を両手で包んだ。柔らかくもしっかと抑え込み、自分から目を逸らさせないように、固定する。
「僕と君が、古い知り合いだからだよ」
そんな大切なことを打ち明けながら、器用にも女神さまは、遠い国で死にかけている下僕のことをも考えていた。
さようなら、下僕くん。どうやらもう、君とは会えないみたいだね。
――――――――
「本当にぼくは、運が悪い」
その重さなど感じさせないように空に浮く、宝斧を見て、若者は思ったままに口にした。どうやら視界がぼやける。足一本切られたくらいで情けない。そう思う。
ホムラやハクなら、きっと顔を歪めようとも、こうして死にかけ、ただ倒れているなど無様な姿は晒すまい。
それに、あとほんのわずかだった。あと少し時間を稼げれば、こんなことにはならずに済んだ。そういう意味では、相手が悪かった。他人の話も聞かないで、激高するような馬鹿であったから、口車にもハマらなかった。本当に、運が悪い。
「あと、十秒」
娘というべき自宅警備員に、耳打ちする。斧は中空で回転を止め、そろそろこちらへ投擲されそうだ。
「五」
カウントダウンを開始する。
若者は、長年、『女神さま』のために観測してきた。他にもいくつか、彼女の邪魔になりそうなものはあった。けれど、そのうちでもっとも暴発の危険があり、さらにはもっとも、危険なものについて。
「四」
自宅警備員は、ここだと思った。いまこそ長年、みんなで研鑽し続けたことを、発揮すべきとき。
また三姉弟が、集まるべきとき、だと。
「三」
ロリババアは、もはや余裕綽々に、構えていた。それでも、稲雷塵という若者は、底知れぬ強さを持つ。怒りに身を任せたせいで実感が少ないが、足一本を切り落としただけでも奇跡と言えるだろう。いくら『異本』への規格外の親和性を持つとはいえ、当人はあまりに虚弱な肉体でしかないというのに、だ。
「二」
落書きは…………ただおろおろしていた。
「い――」
「ち秒も、かからないよ!」
若者のカウントダウンを聞いていたのだろう。その空間を完全に支配下に置く彼女の『異本』であれば、そういうことも可能だ。聞こえるはずのない距離での小さなささやきをも、聞き取れるような。
その最後の一秒にかぶせて、先んじて、ロリババアは一気に斧を振り降ろした。確かに、その威力は若者を切り裂くまで、一秒もかからない速度を持っている。
だから――
「行くよ! ジン!」
一秒早く、自宅警備員は若者を抱え、跳んでいた。
若者からは最初から、そう言われている。カウントダウンの最後、一秒早く、そこから真後ろへ思い切り跳ぶように。その指示すらロリババアが聞いている可能性もあったけれど、連続して呟かれるカウントダウンなどでなく、突発に単発に発せられた言葉まではすべてを聞いているはずがない、と、若者はたかをくくっていた。そんな戦闘センスなど、彼女にはないはずだから。
「やれ、やれ……」
ぼくは置いて行っていいと、言ったのだけれどね。そう肩をすくめるが、若者の顔は、少しだけ笑んでいた。
*
「『天振』」
若者は、そう、小さく呟いた。
それは、地球規模どころか、宇宙規模――この、人間が観測できる範囲をゆうに越えて、この世のすべてに影響を及ぼす、きわめて強力な『異本』。
『啓筆』、序列二位。『空間干渉系』最強の『異本』。WBOが管理する、もっとも重要な施設『世界樹』。その最奥に鎮座ましましている、序列五位の『異本』、『幾何金剛』内に保管されている、危険すぎる一冊だ。
『幾何金剛』は外からだけでなく、内からのエネルギーをも完全に遮断する。が、『天振』に関してはそうもいかない。というより、強力すぎて『幾何金剛』ですら、すべてを遮断しきれない。とはいえ、『幾何金剛』は『天振』の、そのほとんどのエネルギーを遮断している。にも関わらず、『天振』のあり余るエネルギーは、なんとか『幾何金剛』を通過し、大幅に減衰してもなお、ときおり世界へ修復不能な損壊を与えた。
たとえば、超新星爆発からもたらされるエネルギーを空間ごと消し去ったり、ブラックホールをそのもの破壊したり、地球の核を30パーセント弱も失わせたり。そんな荒唐無稽な力を、天災のようにランダムに世界へ及ぼし続けている。
「どういうつもりだか知らないけれど! この空間に囚われている限り! 逃げ場はないよっ!」
とは言うが、やや焦った様子で、ロリババアは腕を振る。その動きに合わせて、一度躱された斧が、軌道を変えて若者たちへ向き直った。
だがその瞬間、決して出られないはずの空間が開け、夕暮れのビクトリア・エスプラネード・ガーデンズへ回帰する。同時に、当然と、彼らを襲っていた斧も、姿を消した。あるとすれば、地面へ突き刺さったままの、本物の宝斧だ。
「なっ……! そんな馬鹿な! 『グリモワール・キャレ』が強制的に、裂けた!?」
ロリババアは突然のことにうろたえる。
「運が悪いのはお互い様だったようだね。『空間生成』、『空間制御』のきみの『異本』に、偶然たまたま、『天振』の災害が襲った。……いくら強力な力であろうと、より高位の力には打ち破られる。『異本』の常識だよ」
「そんな……偶然……あるわけ、ないっ! 稲雷くん! まさかあなた、『天振』を!?」
「扱えるわけないだろう。というより、それを扱えるなら苦労はない。……ぼくはね、それを確認するために『世界樹』の司書長になりたかったんだ。まったく、ゾーイめ。彼女さえいなければ、その地位につくのも容易だったろうに」
ふう。と、やや荒く息をつく。もう、血を流し過ぎている。
「過去の統計から、このあたりに『天振』の力が及ぶと推測しただけだよ。二度はないから安心するといい」
まあ、もっとも。
次はないけれどね。
「まさかあたしがこれを使うことになるとはね」
自宅警備員は言う。言って、拳をロリババアへ向け、なにかを握り潰した。
パリン。という、なにかが割れる音が、響く。
「カナタはともかく、シュウに会うのは久しぶりだな」
彼女がそう言うと、その言葉通りに、その二人が瞬間でその場に、現れた。
『本の虫』の拠点、その最奥、『女神さまの踊り場』。
んんう? と、その場所にいるべくして存在している女神さまは、少しこめかみを押さえて、顔を歪めた。
「どうかされたのですか?」
彼女の、その一糸まとわぬ膝に寝転がりながら、紳士は問うた。
「……いや、なんでもないよ。だけど――」
ほんの少し、早いな。と、女神さまはどこか遠い目で、そうぼやいた。
「ならよいのですが」
紳士は満面に笑って、彼女の頬へ少し、触れる。
だから、女神さまは苦悶の表情を消し、薄らとした笑みを、彼に零した。
「優しいね。白雷夜冬」
「そういう契約ですから」
その言葉に、女神さまは瞬間で、つまらなそうな表情へ変わる。
「まあいいさ。確かに僕の要求は『恋人ごっこ』だ。決して、その心そのものを差し出せと言ったわけじゃあない」
「でしたらそろそろ教えてくれませんか? ノラの、救い方を」
鼓膜を素通りして、心へするりと溶け行くような声で、紳士は言った。
「やだよ。話したら君も離れていく。僕はもっと君を愛したいし、君に、愛されたい」
自身の膝の上にいる紳士へ、ぐっと顔を近付けて、内緒話のようにか細い声で、女神さまは答えた。大切な陶器のように、彼の顔を両手で包み、抱えて。
「……わたしのような、恋も愛も知らぬ若輩が言うのもおこがましいですが、あなたほどの美人であれば、わたしなどを求めなくとも、いくらでも引く手あまたでは?」
んんう? と、彼の言葉に女神さまは、少し唸って困ったように眉を曲げた。
「僕はね、この世のすべてを愛している。だけど、君はまた、特別なんだ」
言葉を選ぶように、女神さまは中空に視線を泳がせながら、そう言った。
「どうして、わたしなんか……」
「自分を卑下しない。それは君を愛するすべての者をも、もろとも引きずり降ろす思想だ」
怒るような口調で言って、女神さまは彼の口元に自身の指をあてがった。滑らかで、美しい、その指を。
「しかし、……わたしとあなたはまだ、出会ったばかりだ。それなのに、どうして?」
彼女の叱責に思うところはあった。が、しかし、単純に不思議だった。誰かに特別だと言われることが初めてだったから。それゆえに、彼女の気持ちを、彼は徐々に、知りたくなっていったのだ。
「それはね、白雷夜冬――」
いたずらそうな表情で、女神さまはまた、彼の顔を両手で包んだ。柔らかくもしっかと抑え込み、自分から目を逸らさせないように、固定する。
「僕と君が、古い知り合いだからだよ」
そんな大切なことを打ち明けながら、器用にも女神さまは、遠い国で死にかけている下僕のことをも考えていた。
さようなら、下僕くん。どうやらもう、君とは会えないみたいだね。
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「本当にぼくは、運が悪い」
その重さなど感じさせないように空に浮く、宝斧を見て、若者は思ったままに口にした。どうやら視界がぼやける。足一本切られたくらいで情けない。そう思う。
ホムラやハクなら、きっと顔を歪めようとも、こうして死にかけ、ただ倒れているなど無様な姿は晒すまい。
それに、あとほんのわずかだった。あと少し時間を稼げれば、こんなことにはならずに済んだ。そういう意味では、相手が悪かった。他人の話も聞かないで、激高するような馬鹿であったから、口車にもハマらなかった。本当に、運が悪い。
「あと、十秒」
娘というべき自宅警備員に、耳打ちする。斧は中空で回転を止め、そろそろこちらへ投擲されそうだ。
「五」
カウントダウンを開始する。
若者は、長年、『女神さま』のために観測してきた。他にもいくつか、彼女の邪魔になりそうなものはあった。けれど、そのうちでもっとも暴発の危険があり、さらにはもっとも、危険なものについて。
「四」
自宅警備員は、ここだと思った。いまこそ長年、みんなで研鑽し続けたことを、発揮すべきとき。
また三姉弟が、集まるべきとき、だと。
「三」
ロリババアは、もはや余裕綽々に、構えていた。それでも、稲雷塵という若者は、底知れぬ強さを持つ。怒りに身を任せたせいで実感が少ないが、足一本を切り落としただけでも奇跡と言えるだろう。いくら『異本』への規格外の親和性を持つとはいえ、当人はあまりに虚弱な肉体でしかないというのに、だ。
「二」
落書きは…………ただおろおろしていた。
「い――」
「ち秒も、かからないよ!」
若者のカウントダウンを聞いていたのだろう。その空間を完全に支配下に置く彼女の『異本』であれば、そういうことも可能だ。聞こえるはずのない距離での小さなささやきをも、聞き取れるような。
その最後の一秒にかぶせて、先んじて、ロリババアは一気に斧を振り降ろした。確かに、その威力は若者を切り裂くまで、一秒もかからない速度を持っている。
だから――
「行くよ! ジン!」
一秒早く、自宅警備員は若者を抱え、跳んでいた。
若者からは最初から、そう言われている。カウントダウンの最後、一秒早く、そこから真後ろへ思い切り跳ぶように。その指示すらロリババアが聞いている可能性もあったけれど、連続して呟かれるカウントダウンなどでなく、突発に単発に発せられた言葉まではすべてを聞いているはずがない、と、若者はたかをくくっていた。そんな戦闘センスなど、彼女にはないはずだから。
「やれ、やれ……」
ぼくは置いて行っていいと、言ったのだけれどね。そう肩をすくめるが、若者の顔は、少しだけ笑んでいた。
*
「『天振』」
若者は、そう、小さく呟いた。
それは、地球規模どころか、宇宙規模――この、人間が観測できる範囲をゆうに越えて、この世のすべてに影響を及ぼす、きわめて強力な『異本』。
『啓筆』、序列二位。『空間干渉系』最強の『異本』。WBOが管理する、もっとも重要な施設『世界樹』。その最奥に鎮座ましましている、序列五位の『異本』、『幾何金剛』内に保管されている、危険すぎる一冊だ。
『幾何金剛』は外からだけでなく、内からのエネルギーをも完全に遮断する。が、『天振』に関してはそうもいかない。というより、強力すぎて『幾何金剛』ですら、すべてを遮断しきれない。とはいえ、『幾何金剛』は『天振』の、そのほとんどのエネルギーを遮断している。にも関わらず、『天振』のあり余るエネルギーは、なんとか『幾何金剛』を通過し、大幅に減衰してもなお、ときおり世界へ修復不能な損壊を与えた。
たとえば、超新星爆発からもたらされるエネルギーを空間ごと消し去ったり、ブラックホールをそのもの破壊したり、地球の核を30パーセント弱も失わせたり。そんな荒唐無稽な力を、天災のようにランダムに世界へ及ぼし続けている。
「どういうつもりだか知らないけれど! この空間に囚われている限り! 逃げ場はないよっ!」
とは言うが、やや焦った様子で、ロリババアは腕を振る。その動きに合わせて、一度躱された斧が、軌道を変えて若者たちへ向き直った。
だがその瞬間、決して出られないはずの空間が開け、夕暮れのビクトリア・エスプラネード・ガーデンズへ回帰する。同時に、当然と、彼らを襲っていた斧も、姿を消した。あるとすれば、地面へ突き刺さったままの、本物の宝斧だ。
「なっ……! そんな馬鹿な! 『グリモワール・キャレ』が強制的に、裂けた!?」
ロリババアは突然のことにうろたえる。
「運が悪いのはお互い様だったようだね。『空間生成』、『空間制御』のきみの『異本』に、偶然たまたま、『天振』の災害が襲った。……いくら強力な力であろうと、より高位の力には打ち破られる。『異本』の常識だよ」
「そんな……偶然……あるわけ、ないっ! 稲雷くん! まさかあなた、『天振』を!?」
「扱えるわけないだろう。というより、それを扱えるなら苦労はない。……ぼくはね、それを確認するために『世界樹』の司書長になりたかったんだ。まったく、ゾーイめ。彼女さえいなければ、その地位につくのも容易だったろうに」
ふう。と、やや荒く息をつく。もう、血を流し過ぎている。
「過去の統計から、このあたりに『天振』の力が及ぶと推測しただけだよ。二度はないから安心するといい」
まあ、もっとも。
次はないけれどね。
「まさかあたしがこれを使うことになるとはね」
自宅警備員は言う。言って、拳をロリババアへ向け、なにかを握り潰した。
パリン。という、なにかが割れる音が、響く。
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