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モスクワ編
輝きの訪れ
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コホン。という咳払いがひとつ。
「おふたりさん。私はお腹が空いてるんだけど」
メイドを見、隣の男を見て、幼女は言った。湿度の高い視線で男に冷や汗を強要しながら。
そこでようやく、店内全域から注がれる視線をも認識して、男はかぶりを振って払拭する。気を取り直して注文を済ませた。
ロシアならではのボルシチで体を温める。こちらは、日本人にとっての味噌汁とも言えるほどに、ロシア人の体に染みついた一般的なスープだ。ちなみにロシア料理の代名詞とも言えるスープだが、元来はウクライナ料理である。
ビーツという真っ赤な野菜をふんだんに使うこのスープは、不安になるほどに血のようで、鮮やかに赤い。だが、ロシア人のソウルフードとも言えるスメタナを落とせば、なぜだかそのコントラストに安堵する。
肉や野菜のうまみが溶けだした酸味のあるスープ。だが、この店の味は比較的まろやかに甘い。ボルシチには珍しいことに具にリンゴが入っているからだろうか?
数種類のパンをつまみながら空腹を慣らしていくと、満を持してメイン料理の登場だ。
こちらもロシア名物のビーフストロガノフ。牛肉とマッシュルームをたっぷりと含んだ濃厚な一品だ。つけあわせのフライドポテトやピクルスとともにいただく。
ビーフストロガノフといえば、単に洋食の代名詞とも思われるが、れっきとしたロシアの郷土料理である。日本人的にはハヤシライスに近い煮込み料理のイメージだが、本場ロシアでは白いことが多い。これにもやはり、ロシア料理に欠かせないスメタナが関連しているのだろう。さらにお好みで、スメタナを追加して食べるもよしだ。
とにかく濃厚な一皿に、見た目以上に満腹感――ひいては満足感を味わう。ロシアの牛肉は硬いことも多いのだが、こちらのレストランのものはとても柔らかく、食べやすい。
そして、〆のデザートだ。男は満腹感からか断ったが、女子二人はどことなく浮ついた様子でともに、デザートを注文した。レストランおすすめの、店の名を冠したケーキである。濃厚なチョコレートに包まれた半球形の一皿だが、割ってみると内には、幾層にも鮮やかな色彩が隠れていた。それぞれの甘味やソースの酸味などが織り混ざり、それらをチョコの苦味が包み込み、わずかにアダルトに仕上げる。舌の上で転がすたびに違う表情を見せる、気分屋な――それでいて理知的で清廉な少女のような、そんな、一皿だった。
*
食後にコーヒーを嗜みながら、満腹感に一時、心穏やかになる。ちなみに幼女だけはコーヒーを好まず、こちらもレストランおすすめのショコラテをいただく。
「なあ、メイ」
男は唐突に、メイドに声をかけた。
「はい?」
やや虚を突かれたように、メイドは小首をかしげる。
「うまかった。おまえに任せて正解だったよ」
男は少しだけはにかんで、そう言った。正面に座るメイドを、その瞳を、直視して。
「…………」
てっきりまた我を忘れ騒ぎ出すのではないかと、ほんの少し身構えていた男を置き去りに、メイドは、一瞬だけ目を見開いたあと、急に顔を伏せてしまった。肩を震わせ、口元を押さえている。
「メイ……?」
よもや歓喜で泣き出したのではあるまいか。ここ最近の彼女を見てきているだけに、男は、自身の内に湧いてきたその推測を否定しきれず、心配そうにメイドへ声をかけた。
「ぐふ……」
「ぐふ?」
メイドから漏れた声に、心配は疑問へと。
「ぐふふふふふ……。ハク……ハクしゃまが、わ、私を、お、お褒め……ぐふふふ――」
どうやらトリップしてしまったらしいので、男はもう、無視することにした。
「おまえもうまかったか? ラグナ」
「……ん? んう」
隣の幼女へ声をかけるが、こちらもこちらで、少しトリップしていたみたいだ。まあ、こちらは可愛げを残し、どうやら満腹感で眠気が襲ってきているらしいが。
「ハクー、寝ててい?」
「ホテルまで我慢できねえのか」
「んうんうう……」
透けるように美しいスカイブルーの髪を揺らして、彼女は首を振った。許可などなくとも、もう寝落ちしそうに。
「いいよ、寝てろ。おぶって帰るから」
男が了承すると、幼女は嬉しそうに彼に抱き着いて、「ハクー、しゅき」と、笑んだままに眠ってしまった。
それから男は嘆息し、まだ帰ってこない正面のメイドを見る。だからもう一度、大きく嘆息し、手持無沙汰に窓の外を眺めた。行き交う人々の群れに、やや目立つ格好の二人組を見つけて、だから、改めて息を吐く。
やや強めに窓を叩いた後、少しだけ窓を開けた。その者達へ手を挙げ、合図をする。
*
黒い身なりの二人組を見、男は手を挙げた。
「おい、メイ。こっちに席を移れ」
男は挙げた手を降ろし、そのまま、幼女が眠る方とは反対の席を叩く。
「は、はいいいぃぃ! お呼びでしたらいつでも、即座に! 疾く参ります!」
言葉より速く、彼女は男の横へ寄り添った。
「頼むからいつものおまえに戻ってくれ……」
「ふむん?」
メイドは、訳が解らない、といったように、首を傾げた。が、男の頼みはすぐに、外部的要因により達成されることとなる。
「よう。あんたが直々に来るとは、思ってなかったぜ」
男は、塞がれた両腕の代わりに大仰に首を捻って、彼らに言った。
が、片腕はすぐに開放される。いましがた抱き付かれた、メイド側の一本。見ると、件のメイドは居住まいを正し、まさに男の願望通りに、普段のメイドに回帰していた。
主人への来客を迎える、メイドへと。
「どうも、コオリモリさん」
来客の一人、その優男は、軍人のように襟をおったてた、黒く仰々しい服装で、親しげに男へ片手を挙げた。気障なほど綺麗に切り揃えられた髪は、金髪のおかっぱ頭。彼は男の斜向かいに、椅子を大きく引いて、浅く腰掛けた。
「本当にお久しぶりです。ハクくん」
もう一人は、僧侶のように黒いローブで全身をすっぽり覆った男。ローブのフードで隠していた頭部をさらけ出せば、意外とくりくりの大きな瞳に、とにかく目を引くスキンヘッド。思ったよりも愛嬌のあるその表情に、男は、いつぞやよりも多くの皺を散見した。
「またハゲたんじゃねえか?」
男の認識として、現状、『本の虫』の、戦闘における指揮官。そして、男がかつて、ギャルとバディを組んでいた時代の、直属の上司。『本の虫』が『本の虫』と名乗る以前の、あの、ただの馬鹿どもの、親玉。
「タギー・バクルド」
その者の名を、呼んだ。
*
優男とは対照的に、その僧侶は、わずかに引いた椅子とテーブルの隙間に、自らの細い体を滑り込ませるように着席し、深く、姿勢を正して腰かけた。なんらかのハーブのような、どこか神聖な香りをかすかに漂わせて、一度、居住まいを正す。
「ふっふっふ……。確かに、あなたと最後に会ってからでは、いくらかハゲたかも知れませんね」
ふっふっふ……。どこか含みのある様子で、肩を揺らし、再度、僧侶は笑う。そして――
「しかしハゲじゃない! スキンヘーッド!!」
思いっきりに叫んで、おもっくそにその頭部を、男たちに見せつけるように深く、強く、テーブルに叩き付けた。
半分は男たちのせいだが、彼らはそれで決定的に、店を追い出された。
「おふたりさん。私はお腹が空いてるんだけど」
メイドを見、隣の男を見て、幼女は言った。湿度の高い視線で男に冷や汗を強要しながら。
そこでようやく、店内全域から注がれる視線をも認識して、男はかぶりを振って払拭する。気を取り直して注文を済ませた。
ロシアならではのボルシチで体を温める。こちらは、日本人にとっての味噌汁とも言えるほどに、ロシア人の体に染みついた一般的なスープだ。ちなみにロシア料理の代名詞とも言えるスープだが、元来はウクライナ料理である。
ビーツという真っ赤な野菜をふんだんに使うこのスープは、不安になるほどに血のようで、鮮やかに赤い。だが、ロシア人のソウルフードとも言えるスメタナを落とせば、なぜだかそのコントラストに安堵する。
肉や野菜のうまみが溶けだした酸味のあるスープ。だが、この店の味は比較的まろやかに甘い。ボルシチには珍しいことに具にリンゴが入っているからだろうか?
数種類のパンをつまみながら空腹を慣らしていくと、満を持してメイン料理の登場だ。
こちらもロシア名物のビーフストロガノフ。牛肉とマッシュルームをたっぷりと含んだ濃厚な一品だ。つけあわせのフライドポテトやピクルスとともにいただく。
ビーフストロガノフといえば、単に洋食の代名詞とも思われるが、れっきとしたロシアの郷土料理である。日本人的にはハヤシライスに近い煮込み料理のイメージだが、本場ロシアでは白いことが多い。これにもやはり、ロシア料理に欠かせないスメタナが関連しているのだろう。さらにお好みで、スメタナを追加して食べるもよしだ。
とにかく濃厚な一皿に、見た目以上に満腹感――ひいては満足感を味わう。ロシアの牛肉は硬いことも多いのだが、こちらのレストランのものはとても柔らかく、食べやすい。
そして、〆のデザートだ。男は満腹感からか断ったが、女子二人はどことなく浮ついた様子でともに、デザートを注文した。レストランおすすめの、店の名を冠したケーキである。濃厚なチョコレートに包まれた半球形の一皿だが、割ってみると内には、幾層にも鮮やかな色彩が隠れていた。それぞれの甘味やソースの酸味などが織り混ざり、それらをチョコの苦味が包み込み、わずかにアダルトに仕上げる。舌の上で転がすたびに違う表情を見せる、気分屋な――それでいて理知的で清廉な少女のような、そんな、一皿だった。
*
食後にコーヒーを嗜みながら、満腹感に一時、心穏やかになる。ちなみに幼女だけはコーヒーを好まず、こちらもレストランおすすめのショコラテをいただく。
「なあ、メイ」
男は唐突に、メイドに声をかけた。
「はい?」
やや虚を突かれたように、メイドは小首をかしげる。
「うまかった。おまえに任せて正解だったよ」
男は少しだけはにかんで、そう言った。正面に座るメイドを、その瞳を、直視して。
「…………」
てっきりまた我を忘れ騒ぎ出すのではないかと、ほんの少し身構えていた男を置き去りに、メイドは、一瞬だけ目を見開いたあと、急に顔を伏せてしまった。肩を震わせ、口元を押さえている。
「メイ……?」
よもや歓喜で泣き出したのではあるまいか。ここ最近の彼女を見てきているだけに、男は、自身の内に湧いてきたその推測を否定しきれず、心配そうにメイドへ声をかけた。
「ぐふ……」
「ぐふ?」
メイドから漏れた声に、心配は疑問へと。
「ぐふふふふふ……。ハク……ハクしゃまが、わ、私を、お、お褒め……ぐふふふ――」
どうやらトリップしてしまったらしいので、男はもう、無視することにした。
「おまえもうまかったか? ラグナ」
「……ん? んう」
隣の幼女へ声をかけるが、こちらもこちらで、少しトリップしていたみたいだ。まあ、こちらは可愛げを残し、どうやら満腹感で眠気が襲ってきているらしいが。
「ハクー、寝ててい?」
「ホテルまで我慢できねえのか」
「んうんうう……」
透けるように美しいスカイブルーの髪を揺らして、彼女は首を振った。許可などなくとも、もう寝落ちしそうに。
「いいよ、寝てろ。おぶって帰るから」
男が了承すると、幼女は嬉しそうに彼に抱き着いて、「ハクー、しゅき」と、笑んだままに眠ってしまった。
それから男は嘆息し、まだ帰ってこない正面のメイドを見る。だからもう一度、大きく嘆息し、手持無沙汰に窓の外を眺めた。行き交う人々の群れに、やや目立つ格好の二人組を見つけて、だから、改めて息を吐く。
やや強めに窓を叩いた後、少しだけ窓を開けた。その者達へ手を挙げ、合図をする。
*
黒い身なりの二人組を見、男は手を挙げた。
「おい、メイ。こっちに席を移れ」
男は挙げた手を降ろし、そのまま、幼女が眠る方とは反対の席を叩く。
「は、はいいいぃぃ! お呼びでしたらいつでも、即座に! 疾く参ります!」
言葉より速く、彼女は男の横へ寄り添った。
「頼むからいつものおまえに戻ってくれ……」
「ふむん?」
メイドは、訳が解らない、といったように、首を傾げた。が、男の頼みはすぐに、外部的要因により達成されることとなる。
「よう。あんたが直々に来るとは、思ってなかったぜ」
男は、塞がれた両腕の代わりに大仰に首を捻って、彼らに言った。
が、片腕はすぐに開放される。いましがた抱き付かれた、メイド側の一本。見ると、件のメイドは居住まいを正し、まさに男の願望通りに、普段のメイドに回帰していた。
主人への来客を迎える、メイドへと。
「どうも、コオリモリさん」
来客の一人、その優男は、軍人のように襟をおったてた、黒く仰々しい服装で、親しげに男へ片手を挙げた。気障なほど綺麗に切り揃えられた髪は、金髪のおかっぱ頭。彼は男の斜向かいに、椅子を大きく引いて、浅く腰掛けた。
「本当にお久しぶりです。ハクくん」
もう一人は、僧侶のように黒いローブで全身をすっぽり覆った男。ローブのフードで隠していた頭部をさらけ出せば、意外とくりくりの大きな瞳に、とにかく目を引くスキンヘッド。思ったよりも愛嬌のあるその表情に、男は、いつぞやよりも多くの皺を散見した。
「またハゲたんじゃねえか?」
男の認識として、現状、『本の虫』の、戦闘における指揮官。そして、男がかつて、ギャルとバディを組んでいた時代の、直属の上司。『本の虫』が『本の虫』と名乗る以前の、あの、ただの馬鹿どもの、親玉。
「タギー・バクルド」
その者の名を、呼んだ。
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優男とは対照的に、その僧侶は、わずかに引いた椅子とテーブルの隙間に、自らの細い体を滑り込ませるように着席し、深く、姿勢を正して腰かけた。なんらかのハーブのような、どこか神聖な香りをかすかに漂わせて、一度、居住まいを正す。
「ふっふっふ……。確かに、あなたと最後に会ってからでは、いくらかハゲたかも知れませんね」
ふっふっふ……。どこか含みのある様子で、肩を揺らし、再度、僧侶は笑う。そして――
「しかしハゲじゃない! スキンヘーッド!!」
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