箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

影絵

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 女神さま。そういう存在が、現在の『本の虫シミ』にはいると、男もなんとなく聞き及んではいた。彼女こそが、『本の虫シミ』が『本の虫シミ』となった元凶。いつかの、男が所属していたグループが、一種の新興宗教団体のようになってしまった原因、だと。

「自分たちで言うのもおかしな話ですが、我々『本の虫シミ』も、裏組織のようなもの――いえ、実際、その通りの組織なのだと思います。そして、我々にしてみれば、『神』とも呼ぶべき――まあ事実『女神さま』とお呼びしてもいますし――存在。彼女ならば、この世のあまねくすべてに、答えをくれるでしょう」

「……俺はその『女神さま』とやらに信仰心はねえし、なんならそんなやつ、胡散臭えとすら思っているんだが、そんなやつをその、『女神さま』に引き合わせて、大丈夫なのか?」

 問う。問うだけは問うてみる。その問いに色よい返事がもたらされようと、男としてはべつに、会う気などないのだけれど。

「ええ、問題ありませんよ。女神さまは寛容ですから。あの方はこの世のすべてを愛していらっしゃる。ご自身を畏れ、蔑み、不信心である者たちをも含め、すべて」

 その『設定』に、さらに胡散臭さを増長させた男だった。

「……あんたも変わったな。そんなやつのこと、……いや、こう言っちゃ悪いが、そんな胡散臭い存在を信仰するようになるとは」

 それでこの僧侶との仲が、決定的に切れようが、そう言うしかなかった。男にはそれ以上にオブラートで包む言葉など、なんとも思い付かなかったのである。

 しかし、僧侶はあっけらかんと、

「いえ、べつに私はまったく、信仰はしておりませんが」

 と、言った。

「……そうなの?」

 男はやや語調を変えて、問い質す。

「あ、ちなみに私もですよ?」

 そこへ、なぜだか優男が割って入る。やはりあっけらかんと、片手を挙げて。

「まあ、おまえはそうだろうな。そんな感じだ」

 そこは納得の男だった。

        *

「じゃあおまえら、なんで『本の虫シミ』の幹部やってんだよ。下の者に示しがつかねえだろ」

 ひとつ嘆息して、男は言った。軽く頭を押さえながら。

「私の場合、信仰というには足りないですが、畏怖してはいます。あのお方にはとうてい、敵わない。ですから、あのお方のために簡単な使い走りをするくらいは諦めています。……私にとって大切なのは、『あの場所』でしかないのですから」

 僧侶は、語尾で少し遠い目をして、そう答えた。信仰心は、ない、という。しかし、それは心だけが追い付いていないだけで、外面的に、行動的には、ただの下僕だった。

「あんたが『敵わない』なんて、よっぽど強いのか? 直接目の当たりにした俺ですら、あのネロに、あんたならタイマンでも、十分にやり合えると思っているんだが」

 彼の、すでに格好通りの『僧侶』然とした下僕っぷりにはかかわらず、男は、その一点について言葉を紡いだ。言葉通りだ。彼、僧侶、タギー・バクルドは、男がその人生で出会った誰よりも、もしかしたら強いのではないかと思えるほどの、圧倒的な戦闘力を有している。少なくとも男が、そう思っているほどの人物だ。

「はっはっは。さすがに言い過ぎですよ、ハクくん。それに、私もだいぶ歳を取った。全盛期ならいざ知らず、いまではきっと、このゼノにも、真面目な戦闘においては後れを取るでしょう。……もうずいぶん、指揮官のような役割しか担っておらず、直截な戦闘からは離れていますしね」

 僧侶は隣の優男を見て、そう言った。首を傾けるから、その美しいスキンヘッドがきらりと光る。

「そりゃさすがに謙遜すぎですよ、ハゲさん。私などとてもとても、まだまだあなたには、傷のひとつを付けるのがやっとでしょうね。いや、そもそもあなたは基本的に、のですけれど」

 が、どこか含みのある様子で、寝首を掻く気満々に、優男は言った。それでも、僧侶に対してまだ勝ち目があるとは思っていない、という点は本気の感情らしかったけれど。

「まあ、それはともかく」

 と、にこやかさを消して、僧侶は瞬間、真面目な表情になる。

「言葉通りに捉えてもらっても間違いではないですよ。本当に、きっと真剣に命の奪い合いをしたとしても、私では女神さまに、まったく及ばないでしょう。……が、あのお方は基本的に、そういう野蛮な暴力に出ることはありません。それゆえに――それこそが、彼女の本当の力、とも言えるのですが」

 本当に、おそろしい。そう、いまにも言い出しそうに頭を抱え、そのスキンヘッドを抱え、僧侶は、少しだけ俯き、震えた。

「敵意すら向けられないとは、確かに、これでは飼い馴らされているようなものですね」

 小さく、呟く。それでもそれが、決して嫌悪に当たらない、と、そんな声色で。

        *

 聞くだに聞くだに、胡散臭い。もしかして本当に僧侶は、本当は本気で信仰していて、それを男へ布教しているのではないかと疑うほどの胡散臭さだ。

 が、ゆえに、男も思い至る。もしかして『ヤフユ』――紳士が会いに行った相手とは、その『女神さま』なのではないか? 仮にそうなら、あの独特に万能感を持った紳士が、少女という決して憎からず思う相手の危機に対して、こんな失態を演じているという事実にも、いくらか納得はできようというものだ。

「で、おまえはなんなんだよ。いい機会だ。てめえが『本の虫シミ』に所属している理由を聞かせろよ」

 その可能性に思い至ったから、だからこそ男は、関係の薄い話を広げることにして、優男へ問うた。紳士が女神さまとやらにかもしれない以上、なにがなんでも男は、少なくとも今回は、その女神さまとやらに会いに行くわけにはいかない。

「私ですか?」

 わざとらしく、優男は聞き返し、間を空ける。少しにやにやと笑い、その理由を語ることをもったいぶるように。

「そんな御大層な理由はありませんよ。ただ、私は『異本』への親和性が、まあ、そこそこあった。これは長所だ。ぶっちゃけ運動も、勉強も人並み程度。金も地位も持っていない、貧困層の生まれだ。そんな私が、少しでも成り上がるには、数少ない長所を有効活用するしかなかった。……たまたまね、ハゲさんに出会い、『本の虫シミ』という組織に出会い、『異本』を預からせてもらえた。これを持ってさえいれば、私は、少しはマシな私であれる。それだけのこと」

 嘘か本当か、よく解らない表情で、優男は語った。最後に、「まあ結局、居心地がよくなってしまったことも事実ですけどね」と、付け足して。

 男は、そんな理由を、なぜだか自分に重ねてしまった。貧困の生まれ、それは確かに同じかもしれない。しかし、男は『異本』への親和性がゼロに等しい。決してその点に長所を見出したわけではない。その点は、まったく違う。にもかかわらず。
 ただ、『出会い』が自分を――その後の人生を決定付けた。それだけは同じだ、と、適当に納得する。

「おまえはそれに、命を賭けられるのか?」

 だから、心底からの問いを投げかける。自分自身への自問をも含めて。その、答えなど出せない問いをも、まとめて。

「なにを言ってんですか、コオリモリ」

 だが、その重い問いに、優男は軽く、言葉を紡ぐ。

「生きるってのは、そういうことですよ」

 軽薄に笑う。だが、その瞳の奥は、確かに決意に火を灯していた。


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